「脱藩浪人」の弁

 仕事を辞めた。

 国立大学、およびそれに準じる職場に八年間勤めたことになる。退職金は給料の約八ヵ月分。公務員はとにかく年金がつくまでいないと損だよ、とはまわりから耳タコに言われてきたけれども、なるほど改めてそう思った。とは言え、そんなもの目当てにこの先、今の仕事にしがみつくのもけったくそ悪い。それに、いつの間にか世間並みのあとさきを柄にもなく考えている自分自身にも嫌気がさした。なあに、お天道様とコメの飯はついて回るわい、と威勢をつけて、呆れるまわりを尻目に晴れて“脱藩浪人”であります。ひとつ祝ってやって下さい。

 大学の教師って人種は、給料を貰っていることについてどこかうしろめたいところがある。特に文科系はそうだ。なぜか。どれだけの仕事をすれば自分の給料と釣り合うのかが確認しにくいからだ。営業成績をこれだけあげれば、とか、書類をこれだけ処理すれば、とか、そういうものさしはないに等しい。世間一般の仕事に比べてラクをしているという意識もある。いきおい、自分の「研究」にたとえ勘違いであれ何か思い込みがないことには自分が支えられない。だから、彼ら彼女らはことさらにもったいぶり、いばり、うっかり肥大した自意識とねじれたプライドのありようを野放しにする。だが、心の底では「世間はもっと厳しいらしい」という強迫観念があって、そのギャップがますますセンセイ方の性格をクラ~くねじ曲げてゆく。

 それでも、大学ならば講義をきちんとやって学生との関係をうまく保っている限り、最低限給料分の仕事はしていることになる。まあ、大学に限らず職業としての教師というのはそんなものだろう。なのに、大学のセンセイ方の多くはご自分のことを単なる教師だなんて思っていない。じゃあ何者なのか、って? 決まってまんがな。「学者」であり「研究者」なのだ。

 それでなくても、大学というのは自分の好きな「研究」を好き勝手にできる場所だという思い込みは未だ根強い。企業をリタイアした人などはもちろん、若い世代のもの書きや編集者などの間でも、あっぱれ大学教師になることは単に生活の保証を得られる以上の何かあこがれみたいになっているらしい。「好きなことやってメシが食える」仕事の最たるものと、どうやら思われているようなのだ。夢のような「自由」の実現する場所としての大学。そんなの、妄想でしかないんだけどねえ。

 いつまでも親の仕送りを受けているような奇妙な依存感覚がセンセイ方から抜けないのも、その「研究」と「自由」の妄想のためだ。国公立大学だとなおのこと「税金を使っている」という意識が、昨今は抑圧として働く。みんなどこかでうしろめたい。そのうしろめたさが「学問」や「研究」をますますいじけたものにしてゆく。でも、大学問題を語るセンセイ方はいっぱいいるけど、ご自分も含めたこのへんの“心の問題”には絶対に触れないもんね。それってやっぱり卑怯だと、“脱藩浪人”は思うのであります。

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*1:サンデー毎日』「ちょこざいなり!」連載原稿