サイバースペースの危うさ

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 インターネットに関しては、バラ色の能書きを垂れる人は腐るほどいるでしょうが、僕などの眼からは、少なくとも日本におけるそれは、どうもやっぱりキチガイと自意識過剰の高速増殖炉ではないか、と思わざるを得ません。もちろん、例外はいくらでもあるでしょうし、その中からまた可能性を拾い上げてゆくことでよりよい未来も開けるとは思いますが、総体としてはやはり問題大ありだな、と。

 どだい、うっかりと自意識を肥大させてしまう仕掛けってのは、今やネットの外側の日常においてからしてすでに濃密に張りめぐらされているわけですよ。消費社会が欲望を刺激する装置だっていうことを、個々の消費者であるわれわれの等身大の現実に差し戻して考えれば、まずそういうことですよね。それだけの準備も心構えもないままに、誰であれほっといても「自分」ということを過剰に意識させられてしまい、またそのことによってさまざまな消費へと向かう端子みたいなものがさまざまな方向にいくつも自分の中に生まれてくる。

 僕なんかの感覚からすれば、そりゃもうほとんど分裂症じゃないかというような意識の状態が当たり前になってしまって、自分が最もきちんと足をつけておくべき〈いま・ここ〉の現実においての「自分」の輪郭、ある均衡を保った「自分」のありようが自分自身でもわからなくなる。言い換えれば、「自分」の存在のゼロポイントがわからなくなるってことですよね。一点透視の遠近法っていうのかな、ほら、マンガ家なんかがよく言う「パース」がとれなくなってる。そういう奇怪な「自分」が日々垂れ流されているのがネットという場なんだと思います。


 確かに、コミュニケーションのスタイルは変わってきているとは思います。

 ただ、それは何もインターネットだけが原因というわけじゃなくて、もっと外側の話、たとえば僕がずっと言ってきている「豊かさ」の中で社会化してきた世代が偏差値教育をどのように受容してきたのか、とか、そういうさまざまな社会的要因が前提にあると思います。その上で、そのような前提をさらにうっかりと加速させ、増殖させてゆくようなターボチャージャーとしてインターネットのコミュニケーションは機能しているな、と。印象としてはそういう感じです。匿名でのコミュニケーションにしても、その本来の可能性を十分に開花させるための条件というのが整っていないから、主体なき言葉、〈いま・ここ〉抜きの言説という代物だけが正義になってしまう弊害がかなり大きそうですし。

 たとえば、「ディベート」というもの言いの日本的理解というか、僕は誤解だと思ってますが、とにかく表層の形式論理をどれだけ能率よく整えてゆくのかという点にばかり集中してゆくような性癖が「議論」というもの言いで正当化されているように思います。

 その手前の発言する主体、「議論」を手もとで抑え込む「自分」のありようは初手から棚に上がっていいようになっている。偏差値世代の情報処理能力としての知識受容は、このような「ディベート」理解にきれいになじんでゆくようなものだったわけです。肥大した「自分」がネット上に増殖していて、確かなパースのとれた「自分」がなくなっている。

 ですから、いずれにしても「議論」というのを、ある新たな理解の水準をその場の参加者に共有できるような言葉を求めてのことだと考えれば、ネット上での議論というのはかなり限定的にならざるを得ないでしょう。

 むしろ、そこまで大上段に構えず、ちょっと論理的な「おしゃべり」程度の感覚にとどめておくのが無難なんだと思いますよ。むやみに「議論」だなんて思うあたりが、妙な有用性を意識したものなんだし。会社で仕事でパソコン叩きまくってワープロだって使い倒しているOLでも、やっぱり通信やインターネットって何かイヤよね、って子は珍しくないですもんね。ほんとに実のある「議論」をしたいのなら、そしてその「議論」が何か具体的に役に立つようなものへ向かうのなら、ネットとその外側の現実とをどうつないでゆくかをもっと考えないとまずい。その意味で、いささか依怙地と思われるでしょうが、僕はやっぱりツラ付き合わせた対話というか、生身のおしゃべりの方がやはり優位に立つべきだと思います。その遠近法からすれば、ネット上での「議論」はたかだかその程度のものでしかない、と。

 とは言え、キーボードを叩くことによって、これまでと違った言文一致の感覚が急速に広まっている、そのことはすごく気になりますね。内的な言葉というか、まだちゃんと形になる手前の言葉までうっかりと外に引きずりだされてしまう。それは文章を「書く」ということへのハードルを一気に低くしたという意味では、大きな可能性もこれから先、含まれてくると思います。

 が、しかしその一方で、書かれた言葉や文章を主体のありようとの関係で計測してゆくことをしないという感覚で読んだり書いたりすることが一般化してゆくかも知れない。その結果、日常のことばと書かれた言葉との乖離が一層進んで、新たな階級言語みたいなものができるかも知れない。そのことに対する大衆的フラストレーションはこれから先、結構いろいろな問題をはらむと僕は懸念しています。まずはメディアの舞台の言葉に対してそのはけ口は求められてくるように思いますね。

 逆に言えば、日常の言葉の呂律を書かれた言葉の中に折り込んでゆく能力を持った書き手が求められてくる。それは、これまでの日本の「文学」史の漢文脈の難しい言葉の伝統からきっと離れたものにならざるを得ない、独特の語り口を持ったものになるはずです。で、そのような文体で行われる「議論」というのがどのようなものになり、それがどのように社会の側にフィードバックされてゆくのか、そのへんはちゃんと観察しておかねばと思っています。


 ネット上での人格が生身と違う、ということが言われたりするみたいじゃないですか。それって、やっぱり素朴におっかないし、何より気色が悪い。クルマに乗ったら人格が変わるアブナい奴ってのと同じでしょ。そこを抑制して日常との連続性を保とうとするのが大人としてのモラルなんだと思いますけど、その意味ではネット上での人格についてはいわゆる日常との倫理や良識の違いが明らかにありそうに思いますね。

 「自分」を言葉によって構築してゆく作業というのは、本質的に孤独なものだと思うんですよ。だからこそ、外側との関係が必要になってくる。当たり前なようですけど、でも、このバランスの微妙なところを身にしみて実感し、理解できないような人はやっぱりまずい。たかだかてめえで調べればいい程度のことをいきなり質問をぶつけてきたり、あるいは観客も含めたその場に共有されて意味のあることを発言する義務や責任といった自覚もないまま推敲の足りない言葉を投げつけられたり、そんなのはやっぱりただのエゴの押しつけだし、何より醜態だという美意識というかモラルがないとやはりまずいんじゃないですか。「ネチケット」と呼ばれるものも出てきているそうですけど、でも、なんかそれも刹那的な摩擦回避のための「べからず集」みたいなものでしかないんじゃないか、という懸念も僕にはあるんですよ。互いに最低限信頼できる人格であることを確認してゆく作業がネット上ではやはりしにくいわけだし、もっと言えば、ネット上でそういう信頼性を演じてゆくことももはやかなり可能なぐらいに、言葉と主体の関係は希薄になってしまっている。そういう環境が自分によくなじんでしまうという感覚の人は確かにもう一定量いるんでしょうが、しかし、それを持ち帰るそれぞれの現実、それぞれの日常の側にもっと確かな手ざわりがないことには、「サイバースペースの住人」というのは容易に反社会的な存在になってゆけると思います。

*1:1 ネット上のサイト「構造鳥瞰」でのインタビュー。亭主はライターの宮島理クン。後に『別冊宝島』その手で共に仕事をすることにもなる。IRCやチャットなどについて、この年下の友人とその周辺から学ばせてもらったことは少なくない。