ニッポンサッカー、の不器用

 やっぱり何か言わんといかんのだろうなあ、サッカー。

 まず、選手たちにはとにかく、ご苦労さん、と言いたい。それはほんとにそうだ。だって、「ドーハの悲劇」だの何だのとどこかてめえたちの知らないところで“おはなし”が勝手に作り上げられていって、そこから自分たちの全てが意味づけられていて、なおかつそこから「いち抜けた」を言うことは絶対に許されなくて、あまつさえ卵までぶつけられたりして、そんな中で何とか結果を出した、そのことはまず大したもんだと思う。

 まなじり決した、という今やちょっと使われなくなったもの言いがあるけれども、中山なんかほんとにそんな顔つきだった。理屈じゃない。こういう言い方は今どきちょっと気が引けるけれども、おし、結果はともかく腹くくって本気出すぞ、と決めた時のあれはやはり“男”の顔だった。Jリーグも含めた今どきのニッポンサッカーのありようにはいささかハスに構えてきた小生も、彼らのあの顔つきに免じて今回は素直になれる。

 勝った瞬間にしてもそうだ。あれだけ感情をむき出しにして全身で喜びを表わす日本人って、プロ野球でもオリンピックでも、最近あまり見たことがないように思う。ああいう時、ちょっと前までの日本人なら必ず腹の底からの「バンザイ」が出たものだけど、その代わりに彼らはウロウロと歩き回り、互いに不器用に抱き合い、ピョンピョン跳びはねていた。ああ、そうか、感情がマジに解き放たれた時の“形式”ってほんとに失われちまってるんだなあ、と思いながら、それでもその“形式”なき不器用さから伝わってくる彼らのナマの感情のけなげさを僕は受け止めたいと思った。だって、そういう不器用さって、〈いま・ここ〉の日本に生きてる以上、誰であれ必然なんだもん。

 ただ、申し訳ない、サポーターと称するあのファンたちの身振りには、どうしても違和感がある。「盛り上がる」ことの身振りが自前でないというか、どこかあらかじめ外側から決められたものをなぞっているようにしか見えないのだ。負けた時に卵を投げつけたことなんてその典型。第一、どこから持ってきたんだ、あの卵。あらかじめ持ってったんだとしたら、それはかなりカッコ悪いと思うぞ。だって考えてもみなよ、今日は負けたらこれを投げてやるんだ、と思い、その卵を投げるてめえの姿を心に描きながらわざわざ卵を準備して会場に持ってゆく、その間の意識のありようってやっぱりヘンだしみっともない。また、それをきっちり“お約束”とカメラに収めたがる報道陣の意識ともそれはシンクロしてて、そういう「盛り上がり」の言わばメディアぐるみの八百長の具合ってのが、おいらどうしても好きになれないのだ。

 そんな八百長の包囲網の内側から何とか自前の感情を解き放てるところまでたどりついたからこそ、選手たちは美しかったのだ。ファンもまた、そこまで行かねばホンモノじゃない。僕はそう思う。