阪神大震災の直後、被災地を中心にレイプが多発している、という噂が広まった。ボランティアの若い女性が瓦礫の中に引きずり込まれて暴行された、車で遠く連れ去られて強姦された……各メディアはこぞってこの「被災地にレイプ多発」をニュースとして報道していった。
だが、それらの報道には具体的事実は登場していなかった。被害者はもちろん、治療にあたった医師も弁護士も、いるはずの当事者たちに直接取材した形跡はない。事件の性質上取材しにくいということはあるにせよ、これはどうしたことだろう。丹念にたどってゆくとたったひとり、情報源としてHという女性が浮かび上がってきた……。
《八〇年代のフェミニズムは、消費社会を生き抜く「手段」としての魅力があった。上野千鶴子の著書にあれほどの読者が生まれたのは、そのためである。だが、その時代を生真面目に生きた女性たちは、消費社会後の行き場に思い悩むことになる。》
ますます茫漠としてゆく90年代のこの国の“現実”と向かい合う仕事を積み重ねてきた新人ライター・与那原恵。彼女の書いたものには、このようなポスト・フェミニズム世代の女性としての自覚が一貫して流れている。話題の処女作『物語の海、揺れる島』(小学館)を、民俗学者の大月隆寛さんと読んだ。
まず、一冊にまとめた編集者に敬意を表します。このようにまとめられて初めて意義の見えてくる仕事ですから。あえて大風呂敷を広げれば、言葉と意味に縛られて生きるわれわれ人間にとって、信じるべき“現実”とは何か、というすぐれて方法的な問題を提起している。冷戦構造が崩れた後のルポやノンフィクションのありようを、期せずして見せてくれています」
メディアが流布し増幅してゆく“おはなし”に、違和感を持って探ってゆくうち、著者は情報源の“Hさん”にぶつかる。疑問を投げかけてゆくと、彼女の“証言”にはあいまいな点が多いことが見えてくる。
「これまでのルポの手法ならここで『こいつは信用できない、嘘つきだ』と暴露し断罪して終わりだったかも知れない。でも、著者はそこから先、証言の真偽はともかく、そのように語りたがるHさんがいることを、眼前の事実としてさらにじっと見つめて、その内実にまで踏み込もうとする。そこがいいですね」
こういう視点に立った仕事をルポだノンフィクションだとひとくくりに片づけるのはもはや無意味だ、と大月さんはいう。
「取材をもとに書いているという意味ではルポといってもいいんでしょうけど、でも、この著者の“現実”に対する距離感や身構え方は、いわゆるルポの作法から本質的にずれてゆく可能性を含んでいると思いますよ」
決定的な違いは“事実”に対する認識にある。探すべき“事実”がどこかに必ずあって、あらゆる手段でそこへ突き進むのが取材でありルポだ、という見方をしない。“自分”との関係で初めてそれらの“事実”も立ち上がるということにじっとこだわる。立ち止まる。
「これまでの“事実”至上主義からすればもどかしく見えますが、しかしそのもどかしさこそが、今みたいに“おはなし”をたばね得る、信頼できる大文字の言葉が蒸発してしまった茫漠とした状況では、むしろ力になるんです。先のHという女性に対する〈他人の悩みを聞くことによって自分自身が癒されていたのでは〉という視点などは、“事実”至上主義の優等生的なルポや報道の作法からは出てきにくかったでしょうね」
新聞やテレビが報道する“事実”がすべて正しいとは、もはや誰も信じていないだろう。90年代とは、そういう絶対的な“正義”、大月さんの言う“大文字の言葉”の権威の失墜が最終的に常識となってしまった時代だといえる。そのような言葉に頼ってルポやノンフィクションを書いてきた側は、この状況でなお何を、どういう立場で書くのか、という方法的な問題に対して、未だ実のある答を見い出せないまま立ち往生している。
だが、この与那原恵の仕事などは、そうした立ち往生を乗り越えるひとつの糸口を提示しているといえるかも知れない。事実、『諸君!』初出のこの原稿は先日、「編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞」の「作品賞」を受賞した。現場の編集者たちにひそかに支持されていた証だ。
「もちろん、被災地での強姦事件が全くなかったと断言できるだけの材料を彼女がつかんだわけではない。あった可能性はゼロではない。でも、報道のように『多発した』とはとても言えないし、何よりHという女性の〈個〉の語りが介在してメディアの舞台に“おはなし”が発動されていっている。伝えるべき真実はきっとそれらの構造にしかない。事態の不透明さにいきなり大文字の言葉を与えてラクになることをせず、その不透明さとじっとつきあって身についた小さな言葉をつむぎ出そうとする。それがどんなものであれ《多くのひとが共有する美しい物語》ではない《個人の小さな物語》にひとまず焦点を合わせたい、そうして手もとの“現実”を回復したい、という著者のこの方法的意志はきわめて同時代的で共感できます」
オウムの女性信者、エイズ薬害訴訟の現場、フェミニズム運動の現場、AV撮影の現場、そして揺れる「沖縄」……これ以外にも、九〇年代の日本のさまざな問題に“事実”至上主義でない視点から関わってきた仕事が収められている。
「彼女に限らず、このような視点に立った仕事への共感は少しずつ広まってきていると思いますよ。それには世代的なものが背後にあって、三十代がメディアの現場で発言権を持ち始めたという事情が少なくないし、何より読者のリアリティもそのへんにシフトし始めている。他人の現実に関わって何かものを言おうとするなら、まず自分の立場に“ツッコミ”を入れながらやってくれないと。で、それには“事実”至上主義の生真面目さだけではもうダメで、“芸”だって必要になってくるんです」
その意味では、これまでメディアを支配してきた“事実”や報道といった枠組みそのものが“ツッコミ”を入れられ始めているのかも知れない。おまえら、偉そうにじきに何か言いたがる割にはあまりに“芸”がなさ過ぎるじゃないか、と。
「先日もいわゆる〈従軍慰安婦〉関係のルポをずっとやってきた五十代の女性ライターと対談する機会があったんですが、そのへんの違和感がどうしても通じない。これは男性・女性の問題でもないんですね。言葉と現実と自分の関係がこれまでとかなり違ってきていることに対する認識の問題です。で、民俗学というのも、そういう言葉と意味のあいまいさの中に生きる人間のありようにこだわってきた学問のはずだったんですよ」
ただ、読者としてはいくつか気になる点もあるという。
「著者自身の《個人の小さな物語》志向が時にナマな形で見え隠れしてしまうところを、さて、今後どう始末してゆくのか。たとえば、アラーキーに(ヌード含めた……追記)写真を撮られた時の経験をつぶさに語っている一本なんて確かに面白いんだけど、でも、よくまあ平気だよねえ、と僕はちょっと鼻白んじゃう。それと「沖縄」の問題については個人的な思い入れが強いのか、いまひとつ歯切れが悪い。でもまあ、そのへんも含めて同時代の感覚ですね。勘違いした読まれ方も山ほどされそうな気もするけど、いい本ですよ」