出だしから「なんだかなぁ」とため息つく書評がある。たとえば、こんなの。
「うふっ、と笑い、深く頷ける珍しい本だ。」
これがなんで「うふっ」なのかっつーと、「明治期の女性が近代日本実業界の“発見”によってOLになったとするなら次世紀、男性が見知らぬ何者かとして“創造される可能性”は大いにある。その新発見の光景を想像して」なんだそうです。
勁草書房で東大の修士論文で著者がオンナのシトでテーマが「OLの誕生」とくれば、まあ、新聞書評的には料理の仕方は決まってくるってもんだ。で、そういう型通りがいけないってんじゃない。ただ、予定調和にも芸ってのがあってさ。胴体は本の中身を要約しただけでその前後に「うふっ」のアタシを放り出し、「ほら、あたしこんな専門書もこんな風に読めるの」というよじれた自己顕示だけが前後に残る書評ってのは、せっかくの力作本とその若い著者が気の毒ってもんだ。
■ 朝日新聞 2000.6.1 評者・山崎浩一
斉藤環『戦闘美少女の精神分析』(筑摩書房)
書評業界には「若者・サブカル系担当」と目される書き手がいる。80年代に「若者」ぶりで世渡りして、そのまま中年になっても未だに「若者」商売にしがみついてる手合いが定番。山崎浩一もそのひとりだが、さすがに年季が入ってるだけあってまるでJIS規格のような無難な新聞書評になっている。いや、ほめてるんだけどさ。
本自体は「ひきこもり」の語を流行らせた張本人の精神科医が日本のおたくカルチュアの「美少女」のありようを素材にした文化論。少し前に売れた斉藤美奈子の「紅一点論」あたりに刺戟された企画とみたが、評者自身が読んで間違いなく感じているはずの違和感を、さらりと相対主義風味で流してまとめるしかできないのが彼ら中年「若者」屋の悲しさ。ひきこもりも病いだとしたら、中年の相対主義も同じこと。こじらすとやっぱりヤバいんじゃないか、とちと心配。職人技が身を滅ぼすことだってあるんだしさ。

