「あたし」と民主主義の関係について――まえがき代わりに――

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 歴史とナショナリズムについての本である。

 もう少しほどいて言うと、歴史とナショナリズムを今、日本語の版図で考えようとする時の最低限の橋頭堡をできるだけわかりやすく示そうとした本である。

 「歴史」だの「国家」だのといった物言いを振りかざした本や雑誌などは、ここ一年ばかりで山ほど出されている。言うまでもなく、小林よしのりの『戦争論』が投げかけた波紋なのだが、しかし、山ほど出されている割にはおよそ情けないほどに事態は何も明晰になっていない。論壇だのジャーナリズムだのと呼ばれる世間で歴史とナショナリズムが大きな論点になっていることは間違いなくても、何よりもまず言葉が状況を切り開いてゆく突破力をすでに持てなくなっているのだ。いや、もっと言えば、言葉とは状況と切り結ぶものという常識すらすでにあやしくなっている。状況と切断された言葉はもちろん主体とも遮断される。かくて、糸の切れたタコのような遠近法の狂った言葉や呂律の乱れた物言いだけがメディアの舞台に流通し、けたたましく消費される。情報環境の変貌によって容易にでっちあげられるようになった論じる主体、発言する分際は、しかし責任能力も製造者責任も問われないままだ。このような事態の中で、この本が示そうとする歴史とナショナリズムについての地図のなりたちは、じゃあそうやっていまどきうっかりと歴史とナショナリズムなんてものをそういう言葉や物言いで考えようとしてしまうあなたって何、という、あくまでもものを考え、言葉をつむごうとしてしまう「自分」のありようをこそまず執拗に問い続ける前提に立っている。

 というわけで、その限りでの基本態度は「民主主義」である。言い間違いではない。背筋伸ばして腹式呼吸で、断固「民主主義」だ。

 この民主主義という代物、今やどれだけやりきれないものになっているか、それは他でもないわれわれがもういやになるほど思い知っている。そう、「戦後民主主義」とか言われ、眼に触れ耳にしたその瞬間から、心意気とかやる気とか、とにかくそういう鋭角の気分を根こそぎ蒸発させてしまうようなものになっている、あれだ。たとえば、民主主義の第一歩のようにして教えられた「みんなで話し合って決める」というのを考えてみよう。その「みんな」ってのは果たしてどういう資格の何者なのか、「話し合う」というのはどういう前提のどういう手続きによって保証されることなのか、考えてみればよくわからない。なのに、そういう内実の問われることのない、ほとんど民間信仰と化した安普請の民主主義が戦後半世紀あまり間に、まるで苔のようにわれわれの意識と身体を覆ってしまっている。

 けれども、だ。

 たとえ、今あるわれわれの民主主義がどれだけ情けないものになっていたとしても、それをこれまでほったらかしにしてろくに手入れもしてこなかった責任というのもあったりする。それは、民主主義は本来人の世をとりまとめる理念として本質的にできそこないであるかも知れない、とか、あるいはまた、敗戦によって外から押し付けられた借り物の民主主義だからよくない、とか、いずれ百家斉放、これまで「民主主義」にまつわって織り上げられてきた、そういう思想としての間尺とはひとまず別のことだ。

 こちとら心底欲しいものってのはそんなに難しいっちゃない。たとえできそこないであれ何であれ、今のところ身の回りにあるできあいの道具を何とか使い回して、今日明日とは言わないにせよ、せめて近い将来、自分の見通せる範囲の顔の見える関係の人々がひとまずいきいきと生きてゆける、そんな〈それから先〉を見通せるような言葉が欲しい、まずはそれだけだ。大文字の観念じゃない、そんな小さな言葉こそがおそらくほんとに世界を変えてゆくための、最も永く最も手になじむ頼もしい道具になる。学問と言い、思想と言う、いずれ今日明日のメシにいきなりつながらないそれらやくたいもない営みも、本来そういう言葉や物言いのためにこそあったはずじゃないか、そうだろ。たかだかてめえひとりのチンケな安心立命のために、親たちの世代が同じ年格好だった頃にはとても想像もできなかったような「豊かさ」を横着に食いつぶすだけのいまどきの世渡り上手の知性どもなんざ、言うよ、いつかめでたく世直し、正しく民主主義革命の暁には人民裁判で死刑ってもんだぜ!

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 タイトルについて触れておく。この忙しいのにどうして「あたし」なのか、だ。

 これはもう前々からの宿題なのだが、日本語というやつ、この一人称というのがどうにも落ち着かない。「僕」でもなければ「ぼく」でもない。と言って「俺」というわけでもないし、「私」の堅苦しさもかったるい。曲がりなりにもワープロ無宿で世渡りしてきた身のこと、喧嘩腰でつっかける時はこれ、がっぷり四つに組む時はこれ、膝詰め談判で説得する時はこれ、と、それなりに一人称の使い分けとそれによる気分の乗せ方の手練手管は知っていたつもりだけれども、ことここに至って、昨今一番難儀な歴史とナショナリズムについて、しかももはやエンガチョに等しい扱いの民主主義なんてものに敢えて依拠しながら語ろうとした時に、はたと困ってしまった。声ならばのどもと、ワープロだからキーボードに触れる指のほんの少し手前の部分に、あれは何と言えばいいのか、何かいがらっぽい塊のようなものがひっかかってしまうのだ。ああ、そうか、これは「自分」の体重をうまく乗せてゆける一人称がないってことなんだな、と気がついた。気がついて、柄にもなくしばらく悶々としていたのだが、習い性ってのはありがてえ。とある競馬場で脂身ばかりの串カツほおばりながら、しけた野球帽後ろ前にかぶった予想屋のアンちゃんの口上に聞くともなく聞いていた時、思わずビビッとくるものがあった。

 「いいかい、このあたしがこの眼で見て間違いないって言ってんだ。ああだこうだ言わずに黙ってここから買いなってんだよ」

 おお、これだ、この距離感。自分が見聞きしたことについて狙いすましてピシッと言い放つその気分の確かさ。そうか、「あたし」だよ、「あたし」。うん、これで行こう、これに決めた。

 普通は女性の一人称とされる「あたし」だけれども、ここはちょっと違う。そうだな、ぞろり着流しの遊び人が往来を歩いてゆくようなちょいといい加減な、でも自分のまわりに起ころうとしていることに対してだけは存分に身構えている、そんな気分に見合ったものだ。「主体」なんてよそ行きの物言いも、ほら、こんな「あたし」を一発かましてみればもっと素敵に光り輝くものになれる。まだ見ぬわれらが民主主義になじむ一人称ってのは、案外きっとそういう「あたし」だったりするのだな、これが。

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 もともとは、毎日新聞の出版局長だった北村肇さん*2のすすめで立ち上がった企画だった。
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 「新しい歴史教科書をつくる会」がらみの顛末については、近いうちに何かの形でまとめるつもりだった。そのことは去年出した『歴史の消息について』(洋泉社)のあとがきでも言明していた。ただ、どういう形にするのがいいのか、少し考えあぐねてはいた。いくつかの雑誌などからも場所を提供するという申し出をもらっていたけれども、なにせ大月がいようがいまいが「運動」はその後も継続していたし、また、たとえどんなに当初の思惑とは違うものになっていたとしても「つくる会」の初志というのは今の状況でなお意義あるものだと思っていたから、妙に足を引っ張るようなことは極力したくなかったので、単発の論文ではなくできるなら一冊にして文脈を整えた形で示したい、と思っていた。まあ、そんなこんなでタイミングその他をいささかはかりかねていたのだ。

 そんな時、「大月さん、『戦争論』があったんだから、ここはひとつ『平和論』をやりませんか」と、声をかけてくれたのが北村さんだった。言い方は不器用だけれども、オッケー、言いたいことはよくわかる。つまり、一連の『戦争論』騒動の流れとは違うところできっちりあんたなりの後始末をつけなさいよ、ってことだよね。だったら、歴史とナショナリズムと民主主義という三題噺でこれまで書いた原稿なども含めて文脈作って、そこに「つくる会」の「運動」の現場で見聞きしたこと、学んだことを乗っければちゃんと読んでもらえるかも、ということで、こういう形になった。

 その間、どうやら大月が「つくる会」のことを書くらしい、という話がどこかで流れたのだろう、暴露本になるのでは、と疑心暗鬼になったり、またそれを期待したりといった向きがそれぞれの立場や思惑がらみであったようだけれども、どうもおあいにくさま。あんまり人を見くびるんじゃないっての。はばかりながらこの大月、そんなみっともないことはできゃしないんだわ。

 ただ、「つくる会」の現場、もっと言えば「運動」の推移の中で見えてきたものやことについては、できる限り開いて示しておく責任があるとは思っていた。成り行きがらみとは言いながら、当時勤めていた職(国立歴史民俗博物館助教授)まで放り出して腹くくって飛び込んだものの、戦後半世紀あまりほったらかしにしていたものを動かそうとするその切羽にかかる同時代的水圧というのは、自分で感じていた以上のものだったということなのだろう、柄にもなく心労が積み重なって一昨年の三月末、とうとう倒れて二回も救急車で搬送される始末。その後、半年ばかり自宅療養で仕事もロクにできないようなことになってしまった。結果的にそれが引き金になって「つくる会」から放り出されるようなことになったわけだけれども、その間の経緯などについての個人的総括は、「つくる会」がらみで当時書いたその他の原稿と共に第一章の冒頭に収めてある。

 第三章には、眼の前にある硬直しきった民主主義からどうやって可能性を引き出すかについての、いくつかの試みを収めた。制限選挙論については当時、勤務先の同僚だった小関 氏の教示を得ながらまとめた思い出がある。

 第四章には、西部邁浅羽通明の両氏との既発表対談に加えて、新たに坪内祐三氏との語りおろし対談を加えた。畏友浅羽氏とのテーマになった“おたく”と新保守主義の問題はこの段階で言及したのはかなり早かったはずだし、西部氏との戦後民主主義についてのものも、「民主主義」という物言いの世代による温度差をテーマにしていて、これもあまり論じられていない問題設定だったと思う。坪内氏とは、互いに「歴史」に依拠しながら仕事をしている同時代ということで、今の歴史とナショナリズムをめぐる言説の成り立ちやそのありようについて、かなり気持ちのいい対話ができたと思う。八〇年代的価値相対主義の果実を踏まえながらどのように主体化してゆくのか、という世代的な課題は、これから先もひとつのテーマになってゆくことだろう。*5

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 それにしても、本当はもっと早く出すはずの本だった。

 版元の都合でほぼ五ヶ月遅れた。その分状況と風向きが変わった。言い出しっぺの北村さんは瀕死の『サンデー毎日』の編集長という激戦地に転出させられてしまったし、内容や構成についての微調整に案外気をつかうところも出てきて、担当の向井徹にも最後の最後まで苦労をかけさせることになった。 

 何より、「つくる会」周辺の事態からして大きく変わった。まず、去年の秋に、西尾幹二の『国民の歴史』(扶桑社)が刊行された。一月末現在で部数六十万部以上とか。二十万部以上はあらかじめ予約をとってあったはずだし、また、この種の本にはつきものの組織購買などもあるからその分割り引いたとしても、一般市場だけでもかなりのベストセラーになっていることは間違いない。

 西尾幹二が一枚看板でこんな本を書く羽目になる経緯については、いささかのいきさつがあった。確か『ゴーマニズム宣言』にも、西尾さん、あなたが書くべきだ、と当時の理事会で怒鳴るあたしの姿が描かれたりしていたけれども、はい、確かにキレて怒鳴りましたよ、あたしゃ。半ば冗談にせよ、「西尾さん、ここは一発腹くくって徳富蘇峰になりましょう」てなことまで言って、オヤジをアジった責任というやつも、だからあるのだ。

 もともとこの本、パイロット版、という位置づけだったはずだ。実際に「今よりましな」教科書を作り、検定を通し、さらには実際に現場に採択してもらうそのために、それこそ国民的規模での雰囲気づくりをしてゆくことが必要だ、それには教科書本体とは違うもう一つ別のメディアが必要だ、といった議論になった。『教科書が教えない歴史』のベストセラーでその種のメディアの効果を思い知っている藤岡さんが中心になって主張したと記憶する。とは言え、「つくる会」の関係者には、いわゆる歴史の専門家というのは少ない。その程度にこの国の「歴史」を管轄してきた学問の分野というのはある構造の内側にあり続けてきた経緯があるのだし、だからこそ、本体の教科書執筆についても人選は当初から議論のタネだったのだが、それ以上にこのパイロット版の構想については、で、それって誰に書いてもらうの、という話がさらに一層切実だった。よくあるような分担執筆などと「民主的」なことをやっていたら、書き手語り手の身のありかがぼやけてしまってかえってよくない、できればここは一人称で書き通してくれる人がベストではないか、というあたりまでは何とか共通理解がまとまったのだが、ならばなおのこと、じゃあ誰が、という根本的な問題が立ちはだかった。

 結局、紆余曲折の末に「私は歴史の専門家じゃないから」としぶり抜く西尾さんを追い込んでその気にさせたのだが、そんな無茶を敢えて引き受けたことと、その結果をまた曲がりなりにもこういう形で世に出したことについては、やはりこのオヤジ、ただものではない、と改めて思う。いや、良くも悪くもその気になった時の排気量は無用にでかいわ、この世代は。

 二、三の例外を除いて、今までのところまっとうな書評もほとんど出ていないけれども、 そりゃそうだろう。まず読み通すには分量だけでなく、この一人称の西尾幹二と対峙するだけの気力と体力が絶対的に要求される。単なる個人的な思い込みの羅列じゃないか、という批判も出ているが、その通り。一部始終、全編これは西尾節の、誤解を恐れず言えば歴史講談なのだ。で、それで何が悪い。だからこそこれは健気な本なのだ。「専門家じゃない」という自覚から膨大な量の関係書や資料を読み倒していたし、こっちが会を離れてから後もそれをやり続けただろうことは想像に難くない。西尾節の呂律にまどわされずに静かに読んでみればその成果は反映されている。あたしが読み取れた限りでも、古代史や近世史については今の学界の状況をよくフォローした内容になっていると思うし、その他についても、息切れや重複は随所にあるものの、持ち前の文明史的大風呂敷で「日本」の輪郭を新たにしようとオヤジ、精魂込めて頑張っている。パイロット版としての使命とか役割なんて「運動」の戦術論的なことなんかをまたぞろ言い出せば、これがそのまま教科書に反映されるのか、とか、あるいは、国民誰もがこれから依拠すべき歴史の枠組みとして適切かどうか、とか、ややこしい話にもなるわけだし、はっきり言えばそんなことにはまずならないだろうという意味で当初の意図とはまるで違うものになっちまったとも思うが、でも、ひとりの同時代の知性が全精力傾けて「日本」とがっぷり四つに組んでみせた仕事として、まず素直に笑いながら圧倒されるのがスジだろう。

 一方で、「つくる会」そのものもどうやらさまざまに混乱が続いているらしい。それらも全部ひっくるめて、「運動」に関わったことについての〈いま・ここ〉からの顛末については、当時書いたり語ったりしたものと共に第一章にまとめてある。読んでもらえればどういうスタンス、どういう問題意識であたしが「つくる会」に飛び込んでいったのか、わかってもらえると思う。「『戦争論』の読み方」などは、若い世代の『ゴー宣』読者に意外なほど波紋を呼んだらしいが、とにかくあの『戦争論』の存在ひとつにみんな右往左往、混乱に拍車がかかったということの意味はもう一度冷静に振り返ってみていい。たかがマンガ、でしょうが。

 第二章には、「つくる会」以前と以降、おおむねここ十年ばかりの間にさまざまな場所と機会とで歴史とナショナリズムについて考えたものをまとめた。もとからこういう問いは自前で持っていたわけで、これらに『別冊宝島』の『裸の自衛隊!』(現在は『自衛隊の実力』の題で宝島文庫に収録)に収められた習志野第一空挺団についての体当たりルポ「キンタマたち最後の楽園!」などもあわせて読んでもらえれば、右だの左だのを超えたところでの“リアル”を少しはわかってもらえると思う。

 さらに、「運動」そのものの難儀についても、それまでいろいろと切った貼ったをやってきてはいた。そのあたりのことについては第三章にまとめてある。これらは八八年十月から九二年頃にかけて個人的に出していたパンフレットというか、不定期刊のニューズレター『俄』に書き続けていたものが主だから、表向きの商業メディアに書いたものとは多少調子が違っているけれども、「運動」と「民主主義」のありようについての問いもまた、自前で抱え込んできていたことがよくわかってもらえると思う。実際、その後足かけ九年にわたった大学教員稼業の経験というのは、いまどきの大学、特に文科系なんてのはほとんどこういうビョーキに苛まれていることをわれとわが身で思い知り続けることでもあった。

 知性の生態学というか、知識人のエスノグラフィーというのは切実に必要だと思ったりする。こういう角度からの問いを共有できないままの大文字の議論などは、どんなに精緻なものであっても、既成のイデオロギーとしての「思想」や「言論」を退廃的に補強することでしかない、とさえ思う。

 さらに第四章には、以前に行った西部邁平岡正明両氏それぞれとの対談に加えて、新たに坪内祐三氏とのものと、もう一本語りおろしで「『おたく』はどうして保守主義になじむのか」も添えて、この本全体の問題意識を改めてフォローするような形にした。西部さんとの間でかわされた「戦後民主主義」という物言いにはらまれる世代差といった問いは、一律に語られることのほとんどな「民主主義」の内実をほぐすために重要だったと思うし、平岡さんとのものも、語り口は八方破れだけれども近代的主体とセクシュアリティの問題などを示唆していて、初出は十年前ながら今にして思えばかなり先駆的な内容をはらんでいたと信じている。もっとも、当時はただのバカ対談と思われたようで、フェミニズム方面からはその後蛇蝎の如く忌み嫌われることにもなったのだが、よく読んでもらえればこの「キンタマ」という比喩の趣きというのは味わってもらえるはずだ。また、坪内氏とも、知性の世代性について愉しい話を交わすことができた。馬力任せに書いたり語ったりしてきたことでもこういう人にこういう読まれ方をしている、ということの信頼感というのは、また格別なものだ。うれしいよね。

 また、頭の部分には、「民主主義」に対する基本的なスタンスを示す論考をいくつか並べて序章とした。この序章と最後の第四章とを全体の導きにしながら、個々のものを読んでいってもらえれば、たとえ途中で行き暮れたとしてもまた、あたしの考えていることについての見通しがはっきりしてくるはずだ。


 というわけで、この本はこれから先、歴史とナショナリズムを日本語の間尺で手ざわり確かに語ろうとする上でのひとつのスタンダードになるはず、と自負している。存分に楽しんで下さい。あたしゃ逃げも隠れもしませんから。

 本来ならば、昨年の秋に刊行されるはずだった。版元の事情で四ヶ月ばかり出るのが遅れてしまい、仕掛け人の北村さんも『サンデー毎日』の編集長という消耗戦の一線にやられてしまった。もう長いつきあいになる担当編集者の向井徹にも、今回はかなりイライラさせる局面が多かったと思う。その分、きっちり状況に食い込める言葉を紙の上につむぎ出せたのではないか、と自負している。

*1:『あたしの民主主義』(毎日新聞社 2000年2月)のまえがき、でありました。https://www.amazon.co.jp/dp/462031420X/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_2yzLzbTD0ASXW

*2:その後、『週刊金曜日』の編集長になっとりました

*3:今もそうかも……2017年8月現在

*4:その後、亡くなった……2019年12月23日現在

*5:西部邁も、坪内祐三も亡くなった……2020年1月現在