中上健次はコワい

 中上健次はコワい。中上健次はデカい。中上健次は乱暴者である。中上健次は喧嘩が強い。中上健次は田舎者である、中上健次は………って、もういいか。

 とにかく、中上健次というヒトは、今のニッポンのブンガクの世界では稀有な「異人」として認識されている。ご本尊は突然亡くなってもう八年になるけれども、むしろ亡くなってしまった分余計にその「異人」ぶりが“定説”として定着してしまったところがある。
 実際、「全集」が出て格好がつく最後の作家が中上健次じゃないだろうか。もしもこの先、「村上春樹全集」とか「林真理子全集」とか、岩波書店だの新潮社だのから出されることがあっても(出るのかなあ)、それはもうどこか腰砕けの印象から逃れられない。まして、「田中康夫全集」なんて出てしまったら、ああ、どうするどうする。どこの誰がどんなツラして解説だの解題などもっともらしく書くってんだあ?

 「全集」が似合う、というのは「ブンガク」ならざる正しい「文学」の重厚さを引き受けられるだけの存在、ということだ。たとえそれが勘違いをたっぷりと介在させているがゆえだとしても、今どきそんな勘違いをまっとうに喚起させるキャラクターがブンガクまわりで出てくることはまず難しい。だから、中上健次とは、七〇年代後半、すでにまがまがしく立ち上がり始めたメディア主導の「ブンガク」に対して、まだ伝統的「文学」のカッコ良さで対抗できた状況での最後の英雄だったのだと思う。

 七四年『十九歳の地図』でデビュー。単身上京して羽田空港で肉体労働しながら小説を書き、七六年『岬』で芥川賞をかっさらう。未だ学生運動経由の「反抗」気分が残り香として漂っていた頃だ。村上龍の『かぎりなく透明に近いブルー』などまさにそんな雰囲気の中で「評価」されていたわけだけれども、中上健次も正しくそんな時代の空気によって「異議申し立てをする若者」として意味づけられていった。そう、村上龍中上健次というのは当時、「文学」の新世代として必ず対で語られるようなものだったのだ。ついでに言えば、「芥川賞」もその頃はまだきちんと輝かしかったんですけどね。

 土俗とジャズと革命とドラッグとが「東京」という培養基でミックスされてできあがる世界。でもって、なにせ顔があれだ。猪首で異相で正面からおっかない。何の風土的背景も持たない人間が普通に見ても容貌魁偉だということは素直に認めるだろう。まして、だ。少しでも関西方面で暮らしたことのある人間ならば、見ただけで「あ、こらあかん」と腰引かせるビミョーな何かがある。で、この「ビミョーに何か」がブンガクの世間で中上健次という存在を意味づけてゆくのに決定的な味つけとなった。

 彼の故郷、和歌山は新宮あたりに行くと、町内の人間みんな、男も女も子供も年寄りも、みんな中上健次みたいな顔したところがある、なんて冗談まで一時期あったくらいだ(おいおい)。誰もが脂っこい身の上話をしなくなり、自分の出自背景について語る作法すら忘れてしまえるほどのとんでもない「豊かさ」の中で、何かの間違いのように徹底的にそんな出自にこだわってみせる中上の身振りは、もうそれだけで充分に異様だった。はっきり言ってそれは「田舎者」ということだったのだが、「ブンガク」ならざる「文学」の文脈ではそれさえも無敵のアイテムになり得る、という伝統もあった。奥さん(作家の紀和鏡さんですが)がまた同じような雄大なガタイの人で、夫婦喧嘩になると互いに冷蔵庫を投げ合うとか(おいおいおい)、いやもう、同時代の文化英雄として語られる中上健次というのは、ほとんどbull in a china-shop 状態、プロレスラーのような存在として認識されていったのだ。

 新進作家として飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃の、革ジャン羽織って喫茶店で原稿を書いている写真がある。この人、原稿用紙に原稿を書けなくて、あれは集計用紙っていうのか、B4のヨコ罫の入った事務用紙に鉛筆書きのちっちゃな字でびっしりと改行もなしに書き込んでゆく、と言われていた。当時、作品のいくつかは映画化され、『平凡パンチ』で人生相談もやり、状況についての発言も律義にしていた。そんな「若者」の代表として振る舞うことを周囲から求められ、彼自身も「田舎者」らしく誠実に応じていった。 

 だから、晩年、身体を病んでしぼんだようになってしまった時は気の毒だった。湾岸戦争がらみで「文学者」の声明に担ぎ出された時は、田中康夫いとうせいこうといった「文学」のパチモンたちと同じ場所に座っているのがどうにも場違いで、まるで生態系を間違ってまぎれこんだ巨大恐竜のような印象だった。「闇」とか「異界」とか、そういうタームが、彼の作品世界を語る時にはさんざっぱら持ち出されてきた。それは当時、ニューアカデミズム系の言説が横行していたことの反映なのだが、しかし、そのような言説空間がないことには中上健次の作品はあのように「評価」されることはなかっただろう。たとえば、彼がもう少し前、六十年代に書き始めていたら、ちょっと毛色の変わった労働者文学、記録文学といったあたりで処理されていたはずだ。資質としては本来、そういう可能性もあったはずだと、今も思っている。

  作家としては『岬』とその続編『枯木灘』の評価が一番高いのだろう。では、何がそんなにすごいのか。死後ますます伝説が固定化し、「全集」が出ることでなおターボのかかったそれら「評価」の物言いをいくら眺めてみても、同じ土俵で同じ語彙の周辺をぐるぐる回っているようなもので、その世界の住人にならないことにはよくわからないようなものがほとんどだ。ただ、『十九歳の地図』と『十八歳、海へ』は今読んでもみずみずしい。「田舎者」の「文学」がこんなみずみずしさを持てることは、「ブンガク」しかなくなった今となってはもうないのかも知れない。