書評・中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』

フィロソフィア・ヤポニカ

フィロソフィア・ヤポニカ

 

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 一連のオウム事件A級思想戦犯中沢新一、堂々の非転向宣言、であります。ほれ、この通り。

「彼の思想のもっとも重要な達成である『種の論理』の中に、正真正銘の構造主義と良識あるポスト構造主義を同時に見いだしたときには、私の喜びは頂点に達した。」

 ネタは京都学派。それも田辺元というシブいところに眼をつけた。掲載誌も『すばる』なんて懐石みてえなお座敷。でもって、梅原猛あたりのありがたいお墨つきも早くから頂戴して、初手から売り出しの商品イメージは決まっている。

 このところ田辺元と四つに組んでることは知っていた。ああ、そうかい、南方熊楠からマルクスに行って、今度はいよいよ本腰入れて「日本」で商売しようってわけね、と、こちとら例によってのジト眼で眺めていたのだけれども、二年も頑張ってたとはちょっと驚いた。うむ、これはまずほめてつかわす。

 哲学、ってやつが昨今、カッコいいと勘違いする向きがある。「哲学者」なんていまどき即死したくなるような肩書きつけたバカはウロチョロするわ、書店の棚にもこじゃれた「哲学」書まがいが並んでるわ、なるほど、身の丈超えたムツカシイものが常にアタマよくてカッコいい、という、福本イズム以来でポストモダン被曝な民間信仰は未だに根強いらしい。でまた、そういう界隈にこそ自分の客=カモが一番濃くよどんでる、ってことをさすが中沢新一、皮膚感覚でわかってる。

 田辺や西田どころじゃない、およそ哲学なんて大文字の物言いに一番無縁な独立系民俗学者@武闘派のあたしが言えるのは、その中沢新一の未だ変わらぬ断固非転向な手癖についてだ。これまで知識人の内輪ではそれなりに光の当たる場所に居続けてきた西田哲学に対して、日陰者な田辺元、というこれまでがあって、で、その〈負〉の側に依拠しながらチチンプイプイ、その〈負〉を一気に〈正〉の方へと舞い上がらせる、それが中沢マジック(笑)だ。

 ゲイの手法、とか、しなやかな弁証法、とか言ってたけど、何のこたあない、こりゃテキヤの手癖。口惜しいがそれも当代一流の。

 今ではもう忘れられてるけど〈いま・ここ〉の時点から読み直してみると、ほら、こんなに「進んで」いた、〈いま・ここ〉の問題を「先取り」していたよ、というのがその「評価」の黄金律。テキストの戦略的読み直し、ってやつだけど、でも、一見歴史に誠実なようでいて、実はものすごく恣意的かつ手前勝手な解釈を平然とする。田辺元の「種の論理」とレヴィ=ストロースの「野生の思考」が同根である、というのは、人類史的規模での思想・精神史の仮説としてありだし、それはまた京都学派伝統の大風呂敷(文明の生態史観、とかね)にもなじむものだろうけど、そういう仮説も含めて全てが「中沢新一」を語るためのネタとしてだけ還元されてゆき、しかもその手癖自体が隠されたまま、という同時代的問題は常に棚上げされたままだ。その意味でまさに非転向、チベット密教毛沢東民俗学もみんなまとめて素材にしながら「中沢新一」をこねあげてきたテキヤの手癖は立派に健在、なのだ。

 だからいけない、のではない。いずれ文科系の生産なんてそんなもの。テキヤの勝負もできないガクモンなんざこの先役立たずとさえあたしゃ思うが、ただ、それが人によっちゃピンポイントで強烈に効く、効きすぎるからヤバいのだ。

 彼らポストモダン原理主義者は、ナショナルなもの、「日本」という物言いに収斂してゆくようなこと、について敵対する態度はとらない。むしろ理解さえ示す。けれども同時に、お里がサヨクなものだから実は度し難いほどのグローバリストで権威主義者、差別主義者でもある。浅田も柄谷も、ほれ、みんなそうでしょ?

 中沢ももとはマオイスト文革派。それも70年代サブカル紅衛兵キッズなわけで、だからこそ、領域を超えて全てをネタにして消化する胃袋を持っていて、それは茫漠とした〈いま・ここ〉を仕切る解説屋としては圧倒的な才能なのだが、昨今のナショナリズム復権の流れに向き合うこの身のこなしはまさにポストモダン原理主義者のそれ。どのように信管抜かれた「日本」を仕立てるか、という〈いま・ここ〉の仁義なき戦いの一角なのだ。

 問題提起の第一章から第二章、第五章「個体と国家」がまとまっていて読みやすい。逆に、懲りずに数学のメタファ-を使っているあたりは正直辛い。だが、西田哲学との対決から止揚へと向かう過程とそこでのエロス的なるものへの志向は正しく中沢節全開。このシト、やっぱりつくづくデュルケミアン、そういう意味での「社会」をニッポンの知的伝統に移植しようと頑張ってはいるのだ。

 「『個』が自分に備わった自由なへの契機を脱却して、『種』的な無意識に埋没してしまうとき、『個』もまた根源悪に染まっていくことになる」という終章、「日本哲学」の発生とその意義についての展開が、ひとまずの到達点ということだろう。

 ところで、オウム体験をもとに『邪宗門』を書く、ってハナシ、その後どうなってます? 読みたいぞ、あたしゃ。

*1:ボツ原稿であります。顛末はid:king-biscuit:20010605 関連でid:king-biscuit:20010828も。