日本という自意識

ここのところ韓国やら中国やらから、なりふり構わぬ抗議が続いていて、ただでさえ悪役になっているところへ、なおのこといらぬ注目を集めている「つくる会」教科書。まずは歴史の方がやり玉にあがりがちだけれども、公民の方も成り立ちとしては一蓮托生、これを「批判」したり「糾弾」したりする向きには、どちらもにわかには許しがたい代物であることは変わりないようであります。

歴史の方は、ひとまず世界史の中の日本、もっと言えば東アジアの歴史の中での日本、といった視点を、えいや、っと切り落として、その分、「日本」という主語に体重を乗せまくった視点になっている。そういう世界史の中での日本、という脈絡は、ここ二十年ばかりの間に教科書に導入されてきたものなのだが、焦点広げちまえばどだいこの「世界史」と「日本史」、という区分が妙なものなわけで、そんな区分ができちまった経緯など考えればそれ自体、われらニッポン人が抱いてきた「歴史」の歴史を見てゆくいい素材だ。

じゃあ、世界史に対する史観が「つくる会」教科書にまるでないのか、っつ~とそうでもない。西欧による植民地支配、という視点は、少なくとも近代史に関しては一貫している。それ以前はというと、中国を中心とした華夷秩序が東アジアを支配していたという視点が、これまた一貫していて、それらをひっくるめて敢えて名札をつければ「支配に対する抵抗史観」てなものかも知れない。そう、「つくる会」教科書が描き出す「日本」とは、そういうその時代その時代の大きなものの支配構造の中にありながら、健気に抵抗して自立を志してゆこうとする、そんなまあ、言わば少年マンガのような(悪い意味じゃなくてね)自画像だったりするのであります。

で、そんなもの歴史じゃないやい、という向きがあるのは、まあ、仕方ない。ガクモンとしての歴史、とか、歴史の科学的真実、とか、そういう方面に未だ杓子定規に固着するシトたちはそんなもん。でもね、これまで学校で教えられてきた歴史のありようとの関係で考えれば、こういう少年マンガのような熱血ニッポンを提示することの意味、ってのも、今やっぱりあるんだとあたしゃ思う。それはナショナリズムとか何とかってことよりも前に、自分が逃げ難くその中にいる「日本」なら「日本」という表象を、どれだけ〈いま・ここ〉の自分たちの未来の養いになるように使い回すか、という目的のためには、ひとまず必要な手当てだったりするんじゃないかしらん。

もちろん、それはすでにお約束な浪漫主義的な自閉ってやつと全く地続きだし、その意味じゃほんとに未だに「近代」ズブズブだったりするし、戦前言われた「桃太郎主義」のような「日本」の自意識との連なりも確かに認められる。

ほんとはさ、「つくる会」マジに批判するならそのへん攻めればいい議論にもなるのに、批判する側にそんな器持ったのがいないから、今のところ野放し。また、そういう「近代」をいきなりなかったことにしたポストモダンなんてのがあったからこそ、今のこのトホホな状況もあるわけだしさ。

特にサヨクでもないのに「つくる会」その他に対して反射的に反感を表明する向きの、特に若い世代のかなりの部分は、そういう浪漫主義的な自意識の礼賛ってやつが何とな~くいやん、ってことなのだとあたしゃ思ってる。「小林信者」だの「コヴァ」だののもの言いでその方面をバカにし、「ドキュン」呼ばわりする感覚ってのは、バラせばほぼそんなもん。で、これははっきり言っておくけど、それってひとまず正当な感覚だとも思うのだ。

ならばそういう浪漫主義的な、少年マンガ的な自意識とは別の「日本」ってのは、果たしてあり得るのか、ってことが問題になってくる。あり得る、とは思う。思うが、いきなり実現できるものでもないよなあ。それに、それっておそらく世界のどの国も未だ実現していない未知のナショナリズムのあり方で、それがマジ実現したらそれこそ今みたいな国民国家なんてなりたたなくなっちまうかも知れないし。

語られた「日本」ってやつが、あくまでもカウンターカルチュア的な表象としてあり得る、ってことと、それが教科書などを介して国民の最大公約数のものになる事態を想定される、ってこととの間をどれだけ冷静に、落ち着いた言葉ともの言いとで考えられるか。そのへんが、おそらくこの教科書問題を語る側の器量を測るものさしの、案外気づかれていないけれども重要なひとつだと、あたしゃ思ってます。