書評&追悼・『いつだって一期一会――テレビカメラマン新沼隆朗』

 どういう具合に取り上げようかと、柄にもなく逡巡していた本がある。

 400字書評でやるのももったいないし、何より抱き合わせで引き立つその他の本もなかなかない。特集でやらせてもらっている民俗学概論大月流の方で、とも思ったけれども、それだと本自体のうまみを引き出しにくい。う~ん……というわけで、ちょっと変則的だけれどもこのコラムの方で取り上げることにした。歴史認識からナショナリズム、といったいまどきのモンダイから次の幕に移る前の幕間狂言、まあ、箸休めみたいにちょっとおつきあい下さい。

 まずブツを。『いつだって一期一会――テレビカメラマン新沼隆朗』(武蔵野書房です。

 去年の暮れに出た本だから、とりあげる時期はズレちまってる。だが、その後もきちんと書評されていないどころか、ロクにとりあげられてもいないようだから、及ばずながらここはあたしにひと肌脱がせてください

 どんな本か。夭折したひとりのテレビカメラマンを敬愛する人たちの手によって編まれた、言わば追悼のオムニバスであります。

 主人公の新沼さんは、NHKの「伝説的な」テレビカメラマンだった。撮ってきたのはドキュメンタリー一本。局内のドキュメンタリー界隈では、「新沼さんとロケをしたことがないPD(ディレクター)はまだ半人前」と、まことしやかに言われてきたという。けれども、NHK的には番組制作系のカメラマンで、純粋の報道畑でもなかった。このへん、説明が必要なのだが、この「番制」と「報道」というのはぶっちゃけた話、NHK内部の二大派閥みたいなものだ。番組とニュース、というこの対立は、できあがる番組の背後に横たわる組織原理として今も根強い。けれども、そんな敷居をひょい、と超えたところで、やはりすごい人はすごい、と誰もに納得させるだけの仕事を、この人はしてきていた。

 隠してもしゃあない。そんなどえらい人とあたしゃ、ああ、なんと幸せにもロケをご一緒させてもらったことがあるのであります。九四年の夏、アラブ馬産を扱った教育テレビのETV特集。「アシ」(三脚)を使わず「カツギ」一本、ここぞと思えばカメラを回しながらどんどん自分でインタビューをしてしまうその闊達さ、いずれあやしい現場のイキを身体ごととらまえるノリの素晴らしさに、にわかレポーターのあたしは強烈にやられちまったのだ。ほんとに、ほんとに幸せな一期一会だった、と今でもしみじみ思う。

 誤解覚悟で言っちまえば、それはほとんど民俗学者の身のこなしだった。理屈じゃない。すげえ、と思った。ほんまもんだ、と五感の全てが言っていた。

「インタビューはタイミングがすべて、いつどんなシチュエーションで、何を聞くのか。これをPDはいつも考えていないとダメだ」

「すべての映像は何らかの『表現』になっていなければならない」

 風景のロングや建物の外打ち(外観の撮影)といった、誰もが撮るような説明的な絵は絶対拒否。

「俺は絵はがきみたいな映像は撮らない」

 大御所の編集マンをして「このカメラマンはうまいんだかヘタなんだかわからない不思議な人だね」とうならせたというその映像は、しかし、あたしみたいなシロウトが観ても、できあがった番組はそんじょそこらの「社会派」の映像文法とは絶対に違う、何ていうか、とにかく一点透視なひとつの作品として自立してやるぞ、という人間的な迫力にみなぎっていた。

 身ひとつで何か確かな“こと”や“もの”に出会おうと七転八倒してゆく、取材であり聞き書きであり、あるいはあのけったくそ悪い「フィールドワーク」でもこの際構わない、そんな過程が研ぎ澄まされてゆくと、どこかで必ずそういう種類の迫力を宿す。そのことを、活字を媒介にした表現の間尺で、あたしなりに思い知ってきてはいました。及ばずながら、自分もそういう表現に近づいてみたい、と願ってもきた。そして、そういう願いを持った同時代も必ずまだいるはずだ、というささやかな信心もまた。

 この本に寄せた新沼さんと共に仕事をした人たちの語る言葉のひとつひとつを、それぞれの立ち位置からそれぞれの速度で咀嚼し直すことは、そんなまだ見ぬ同時代をそれぞれの腹の中に確かに抱え込むことにきっとつながるはずだ。

 それにしても、巻末、フィルモグラフィのひとつひとつに記された「作品」を、ビデオでもDVDでもいいから誰もが参照できるような環境が欲しい、切実に欲しいなあ。