喫茶店、ではないのだそうです。カフェ、であります。
何が違うのかっつ~と、別にそう大した違いはない。ぶらりと入ってコーヒーその他を贖い、その対価にちょっとした時間をそこでつぶすための場所。そういう商売としては同じなのだが、しかし、わざわざカタカナ書きで呼ばせるだけの何か、があったりする。
それは何か。つまりはその空間、なのでありますな。早い話が店の中がどれだけ「オシャレ」かどうか、もっと言えばその「オシャレ」がどれだけいまどきの消費者のココロに即した「オシャレ」になっているか、ということであります。
喫茶店で「オシャレ」なものは、これまでだっていくらでもあった。いや、そもそも喫茶店自体、そういう「オシャレ」な空間であることをずっとウリにしてきた歴史があります。インテリアデザイン界隈のそういう歴史をちょっとひもとけば、喫茶店空間のデザインが都市の「オシャレ」を主導してきた経緯はよくわかる。たとえば、今や地方都市にでも行かないとお目にかかれない、かの金華山張りのソファーにロココ調のテーブル、鏡張りの壁、なあんてしつらえの70年代モードの喫茶店も、当時としてはそれなりに「オシャレ」だったことは間違いないわけですから。
けれども、いまどきのカフェの「オシャレ」は、そういう経緯ともちょっと違っているように思えます。雑誌その他でさんざん取り上げられ、東証一部上場もささやかれるスターバックス、まさにいまどきの「オシャレ」なカフェの雛型にまでなってるわけですが、でもあの店内、一歩立ち入った時に感じるものは、よく考えたら、はて、妙なもんです。
まずもって外回りからしてフツーの喫茶店じゃない。店のロケーションにもよりますが、余裕があれば入り口近くのテラスにテーブルを並べてある、そこにまたどういうわけかガイジン(多くは白人サマですが)が仕込んだように座ってたりする。まずそのエントリーからしてわれらニッポン土人は舞い上がっちまう。いたいけなもんです。中は中でナチュラル系のテーブルと椅子に、こじゃれたインテリア、間接照明系のあかりの組み合わせで、石づくりの床に何よりも全体にゆったりめの配置。と言って、喫茶店のように長居をしてやろうという気分には不思議となれない。とても、スポーツ紙や競馬新聞広げたりする雰囲気じゃないし、週刊誌もちょっと剣呑。雑誌ならばビジュアル系のファッション誌界隈、本ならば文庫本や大学の教科書、てなものならばOKで、携帯電話やパソコンも歓迎される。なにせ全店禁煙なのだから、これはすでに指摘してるように「オトコ(オヤジ)っぽさお断り」の空間なわけで、つまりそういう種類のもろもろとりまとめたところの「オシャレ」ってやつこそが、このいまどきのカフェのウリなのであります。
実際、オンナの客が実際以上に目立つ店でもあります。くたびれた背広着た外回りの兄ちゃんやオヤジたちがココロ安らげる場所では、少なくともない。何かひとつ意識をこちら側も変換してかからないと、おいそれと足踏み入れることのしにくい雰囲気ってやつが、スターバックスの「オシャレ」にはあるようです。
これって、つまりは「外国」ってことなんじゃないですかね。なんというか、プチ海外旅行、というのが、いまどきのニッポン人の求める「オシャレ」の最大公約数らしい。ショッピングモールしかり、テーマパークしかり、このテのカフェしかり、です。
なにせ今や、海外旅行へ行く人間が年間に数千万人。あちらの空港などにあるこのテのカフェの雰囲気をそのまんま移植した、というのが一番のこの「オシャレ」の根本なわけで、ミもフタもないこのニッポンの日常=オヤジ的なるもの、というのから一番遠い空間になっているように思えます。仮にオヤジたちがなじめるとしたら、背広でなくカジュアルな服装をした、つまり仕事の戦闘モードでない格好にならないことにはサマにならない。とは言え、そうなればなったで週末の郊外スーパー午後二時半夫婦買い出しモード、みたいなことにもなるわけで、着るものにしてもダイエー1,980円のゴルフシャツなんかでなく、最低限ユニクロで整えたような今風のカジュアルでないと具合が悪い。そういう意味では、ほんとにこれまであたりまえであり続けてきた日常のニッポン、というのを根こそぎなかったことにするような種類の、暴力的な「オシャレ」であります。大げさに言えばニッポン土人としてのアイデンティティ変換装置。ただの喫茶店じゃない。
ならばたとえば、かのマクドナルドが初めて日本上陸した時はどうだったか。ささやかな記憶をたどってみますが、やはりどこかでそういう「オシャレ」感覚があったように思います。思いますが、しかしその後三十年あまり、今やマックも立派に「マクド」になり、ただ安いというだけで子連れの母子が意地汚くむらがり、学校帰りの中学生や高校生がだらしなくたむろする場所になった。立派にニッポンの現実となって世俗化した、つまりDQN化したというわけですが、その意味ではこのスターバックスもそういう具合に手垢がついてゆくことは間違いないはずです。すでに地方都市にもどんどん出店し、「スタバ」と省略して呼ばれているあたり、そのへんは急激に進んでいます。というか、そのような「オシャレ」自体がもうすでにDQNの要素となっているところがある。
このスタバ系のカフェ、スタンド形式で急発展したドトール系のコーヒーショップとよく対比されますが、あのドトールは決してそういう「オシャレ」に向かわない。あ、いや、最近はもう少し巧妙になってそういうカフェ調を採り入れてきてますけれども、でもやっぱり狭い空間をどれだけ効率的に回転させるか、というあたりではじき出された避け難いビンボ臭さ、土着商売の気配ってのは厳然とある。「安い」喫茶店、という定義からドトール系は良くも悪くも絶対に離れない、離れられない。その違いは重要だと思います。
スターバックスについて、うるさ方はコーヒーそのものの質についてもウンヌンしています。豆の質の高さ、エスプレッソを主体にしたメニュー……まあ、そういう信者めいたもの言いが横行する程度にこれは「オシャレ」主体の流行ってことなんでしょうが、でも、ニッポンのコーヒー受容の歴史からすれば、ラテとか何とか言ってもつまりはマックシェイクと同じ、あるいはコンビニに並ぶコーヒー牛乳系の飲料と同じ、と思えば納得できます。「商談」であれ何であれ、お茶かコーヒーを前にすることで初めて対面できる作法というのがあったとしたら、このスターバックス的空間の「オシャレ」においてはそれはすでに崩れている。だって、あの甘ったるい混ぜ物だらけのコーヒーを間に交わされる商談なんて、これまで「オヤジ」が支えてきた商売の範疇にはないもの。
歴史で能書き言うならば、青果市場でも港湾荷役でもコーヒーは早くから嗜まれていて、先のドトールのようなスタンド系コーヒーショップの淵源は大正時代の屋台コーヒーなどに求められるのですが、スターバックス系のいまどきの「オシャレ」なカフェは、かのギョーカイ系でなければ、ITバブルにさえも死ぬ気で踊ってみせる兜町方面なんかにこそむしろふさわしい感じであります。かつて、築地の若い衆や船場の丁稚どんが小遣い銭で楽しんだスタンドのコーヒーの味は、スターバックスが行きつけのアタシ、にうっとりしながらプチ海外旅行な「オシャレ」を消費するいまどきの三次産業系労働者の舌には、すでに遠い国のものになっているようであります。