書評・林房雄『大東亜戦争肯定論』/火野葦平『陸軍』『革命前後』

 いまさら言うまでもないことですが、世の「構造改革」の大波は、「エラい」にあぐらをかいてのほほんとしてきた活字と本の世界にも、ガンガン押し寄せてきております。

 零細生産者であるこちとらもの書きや版元の事情はひとまずおいておくとしても、小売りである街の書店の方も昨今、ほんとに厳しい商売になっている。地元の商店街の小さな書店はもはやほぼ淘汰されきって、多少はまだ頑張ってるターミナル駅まわりのいくらか大きめな店にしても、その棚揃えはなんというか、ビジネス書や実用書といったくくり方がなしくずしになくなってる印象があります。別に専門書とは言いませんが、あたしらみたいなヘソ曲がりをわくわくさせてくれるような本は、もう刊行点数自体が天然記念物みたいなものらしくて、どだい書店の棚割りからしてその存在が反映されておりませぬ。街に出た時、ちょっとした時間つぶしに本屋をぶらりとひやかす、という楽しみ方が、つくづくできなくなったなあ、と思います。

 逆に、ロードサイドに展開する郊外型チェーン書店なんかは、こりゃもう雑誌とマンガとゲーム本と、あとは学習参考書と実用書系が主流で、しかもレンタルビデオとかCDと併せ技。少し前、北九州に広がるこのテのチェーン系某書店をのぞいた時、「おとなの本」ってくくり方がされているコーナーを発見したんですが、こりゃエロな雑誌が山積みなのかと思いきやとんでもない、要するにマンガやゲーム本以外の「活字」本、小説であれエッセイであれムックであれ、これまでフツーに「本」と言われてきたものは全てがひとくくりにその「おとなの本」のコーナーに押しやられているというお粗末。いやあ、これにはほんとに倒れそうになりましたな。

 それでも、昔も今も書店の棚というやつは、たまにぼんやり眺めているだけでもある種、世間の気分や思惑を測候する手助けになるもの。そのデンでいえば、いまどきは歴史認識関係の本にみなさんかなり関心が高いようで、新書や文庫も含めたら、新刊本の棚の三割からヘタしたら半分くらいはこのテの本で占められていたりします。こういうのを見ると、やっぱり世の中「保守化」「右傾化」してる、と、マジメに思い込んじまう向きがあるのも、まあ、わからないではないですな。

 もちろん、そういう市場原理の重心がかかる地点の常で、並ぶブツに玉石混淆の度合いは激しくなるわけで、気楽に手にとれるようになっているからといって何でもかんでも一緒くたに呑み込もうとすれば食あたり起こすことは必定。ここでもやはり、ある種のマーケットリテラシーというか、自己責任の鑑定眼は確実に求められます。

 そんな中、こういう正しく重量級の本もさりげなく棚に混じっていると、その店の仕入れの眼をほめたくなります。林房雄大東亜戦争肯定論』であります。

 かつてどえらい物議を醸したモンダイの一冊の完全復刻版。正確には、六三年と四年に上下二巻で出た初版をもとに、手を入れて七三年に出された新訂版の復刻。実は不肖大月も、数年前からこの本の復刻をあちこちでアジって回ってたんですが、みなさんシャレ半分ととるらしくて、おもしろがってはくれても本気で企画にする版元はどこもなかったという始末。ところが、ここにきてほんとにこうやって本になって並んでいるのを見たら、いやあ、やっぱり笑われながらも煽り続けてみるもんだなあ、と思った次第であります。 

 

 

 戦後思想史、なんて枠組み自体がもう崩壊しちまってるところもありますから、林房雄なんて言っても今の四十代から下にとっちゃほとんど関係ないようなもんでしょうが、今から三十年以上前、『中央公論』で連載が始まった時には、それこそ小林よしのりの『戦争論』並みの、いや、それ以上にとんでもない議論を巻き起こしたものだった。

 とは言え、当時はまだ「インテリ=知識人」ってのが狭い世間で権威たり得た頃のこと、そのムラでの大騒ぎってことなのだが、しかし、ここのところの歴史認識議論の基本的なモンダイ構成ってやつは、この時点でほぼ全て出揃っている。そのことを改めて確認できるという意味でも、この復刻は今だからこそ意味深く読めるということなのであります。

 されど、本文だけでも四五〇ページあまり、一九章立ての大著だから、読みこなすだけでも体力が求められる。ただ、ぜひともここはアタマからいきなりガリガリ食うよりも、まず巻末に同じく再録された河盛好蔵(おお、なつかしや)の「林房雄伝」をゆっくり読んで、自分の腹の内で消化して身にしてから、本文にとりかかって欲しい。富岡幸一郎による解説(これが案外素直なのでびっくり)の中の、「閉ざされてきた近代の、戦後の日本史は、イデオロギー的な史観に立つ歴史の専門家によってではなく、戦前・戦後という激変する時代を大胆な取舵で渡っていった『悪名高い船長』(三島由紀夫の言葉)であった一人の作家によって、その封印をこじ開けられ、白日のもとに晒されたのである。このような言葉と歴史の失地回復運動が、同時代の日本人からある意味疎まれ、タブー視されたのも当然のことだろう。個人も民族も、ひとたびその存立の自恃するエネルギー(それをナショナリズムと呼んでもよい)を他者の手に預けてしまえば、その『脱力感』のなかで、何も知らずにいることの方が安楽だからだ」という一節は、昨今の歴史認識をめぐる主張の流れに対して、ただ単に「保守」だ、「反動」だ、とレッテル貼りするばかりで、その思想的な内実に直面もせず、〈いま・ここ〉での役立ち方を改めて拾い出そうともしないいまどきの活字/メディア世間の知的横着に対するこの復刻の意義を、まっとうに示してくれていると思います。

 そう言えば、火野葦平の大作『陸軍』も中公文庫から上下二冊で復刻されているなあ。

 

 

 

 玉石混淆の歴史認識がらみ本の山の中で、こいつもきらりと光る一本。明治・大正・昭和にわたって親子三代の軍人一家の軌跡から、日本の近代を描き出そうとする知る人ぞ知る力作。共に映画化されたせいもあってか、岩田豊雄獅子文六『海軍』と並んで語られることが多かったけれども、悪いがここは貫目が違う。「私は兵隊が好きである」とはっきり言明したばかりに時代の波に翻弄されたこの書き手は、近年、池田浩士の仕事その他で改めて注目され始めているようなのは、長年の火野フリークのあたしとしてもうれしいうれしい。あの『土と兵隊・麦と兵隊』新潮文庫で復刻されてるし、ついでに、敗戦前後の九州を舞台にした『革命前後なんかも激しく希望であります。