ケータイを捨てよ、着信圏外へ出よう

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 電車やバスといった場所でおおっぴらに携帯電話を開いてカチャカチャやる若い衆、というのは、もうすでにいまどきのニッポンの風景として定着したようであります。

 単なる通信機器であることを超えて、メールその他の複合機能がてんこ盛りに詰め合わされたニッポンの「ケータイ」の特殊事情が前提にあるとは言え、小中学生からスーツを着込んだビジネスマンに至るまでがみんなじっと手もとの小さな機械を見つめている図は、別にガイジンの眼を借りるまでもなく素朴に見てもいささか異様なもの。とは言え、その違和感にもやはり歴史ってやつがからまってたりします。

 少し前、ウォークマンが出始めた頃にヘッドフォンをつけてまわりにカシャカシャと音を洩らす若い衆の姿が、同じく世の大人たちの顰蹙を買ったものでしたし、その前には、同じく広く出回り始めたマンガ週刊誌を電車の中で読む大学生が糾弾もされました。

 さらにさかのぼれば、市電などの中で本を読むという習慣が最初に現われ始めた時も、同じような違和感はまわりに抱かれたはずです。だいたいそれまでは音読が当たり前だったものが、黙読という習慣が一般化してゆき、と同時に文庫本や袖珍本の普及で書物が野外に気軽に持ち出せるものになっていった、言い換えればモバイル・ツールになっていったことによって、人前で本を読む、ということも、人々の習慣として広まってゆきました。別に眼鏡をかけたインテリとその予備軍だけの話でもない、立川文庫をたもとに入れた丁稚小僧たちが、配達の途中、得意先に停めた荷車の影でそっと本を開いて読みふける姿も、そのような習慣の広がりを反映したものだったはずです。

 携帯電話の普及とそれに伴う取り扱いの作法の変遷というのも、敢えて焦点距離を広くとればそのような公共空間と「個」の身じまいの歴史の脈絡に位置づけることはできる。それは確かです。

 とは言え、同時にまた、〈いま・ここ〉の携帯電話固有の事情というやつもある。たとえば、携帯電話が〈オンナ・子ども〉を足場に急速に普及したメディアであるということなどは、それまでの本などとはまた違う傾きをつけ加えることになっています。

 表音文字文化圏のようなタイプライターの段階抜きに、いきなりワープロによってキーボードリテラシーの必要にされされたわれらニッポン人は、しかしそこでテンキーという迂回路も発見していました。文字にはいまひとつなじめなくても数字ならば誰でも読めるし、アクセスできる。ニッポンの「ケータイ」を特徴づける、テンキーで文字入力をさせるというあのせせこましい荒技の発見は、数字のリテラシーが十分に獲得されているそれまでのニッポン人の特性があって、初めて〈オンナ・子ども〉を突破口とした「ケータイ」の爆発的普及を可能にしました。その背後には、たとえばメンコの片隅に意味なく印刷された乱数表のような数字の羅列に対してさえも何か「意味」を見い出してしまう性癖を刷り込まれてきた、そんな歴史も介在しています。

 数字が文字になる、そしてそれが小さな画面に映し出される、その組み合わせが必要以上に「ケータイ」を、凝視を強いるメディアにさせているように思います。電話であり、音声による通信機器だとすれば、着信状況などが気になるのならばそれこそ常時イヤフォンでもしておけばすむはずのところを、どうしても画面を眼で確認しないと落ち着かないのはなぜか。本を開くような操作を求める折りたたみ式の機種がニッポン市場を席巻しているのも、どこかでそういう「読む」メディア、視覚を介して初めて意味ある使い方ができるような受け入れられ方をしているからだと思います。

 事実、欧米の携帯電話で喜ばれる機能だと言われるヴァイブレーション着信や音声による番号入力などは、ニッポンではいまひとつ受け入れられません。いや、それどころか、アジアも含めて世界的に圧倒的なシェアを誇るノキアエリクソンの携帯電話が、何度アタックしても日本市場の門をこじ開けられないで撤退寸前に陥っているというのは、別に日本市場の閉鎖性や規制の問題ではなく、ニッポンの「ケータイ」が携帯電話とはすでにひとつ違う次元のメディアとして使い回されていることの証明だと、あたしは思いますね。クルマが「外車」というステイタスを作り出してきた経緯などと比べると、携帯電話に「外電」のステイタスが生まれなかったことは、案外重要なことかも知れないと思っています。

 もうひとつ、「ケータイ」のニッポンの〈いま・ここ〉における位置づけを計測する上で、アクセサリー類の充実も見逃せません。今や専門のショップまで出現し、プラダルイ・ヴィトンといった情けないブランドものまで現われたストラップを始めとして、光るアンテナ、液晶画面の保護シール、受信電波を増幅させるという謎のテープ(ほんとに謎です)に、それとは逆に電磁波をブロックするというのもあったりして、いやもう、何でもありというか、わけわからんというか。

 思えば、根付けのような小さなマスコットがストラップにつきものになってゆくのが最初でした。アメリカあたりでもこのストラップにはいろんなヴァリエーションがあって、手編みのニット調のものとか、素材や色合いにこだわったものが主流のようなのですが、わがニッポンではそこにくっつくマスコットこそが重要。「個性」を表現する際にどういう形象を媒介にしようとするか、というあたりで考えてゆけば、これまた興味深い違いではあります。

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 そう、ニッポンでは「個性」を表現する言わば依代、自意識表現グッズとして「ケータイ」は受け入れられているのであります。それは「パソコン」が当初、その「パーソナル」であることに重心をかけてアメリカ社会で浸透していった経緯を、ニッポンの大衆社会化状況の中で引き移して実行していった結果のようにも見える。パソコンの普及も確かに進んで、ブロードバンドも最近にわかに話題になっていますが、それでもニッポンのIT化の本当の主役はパソコンではなく、実は「ケータイ」なのであります。で、それがそういう自意識表現グッズであることの証明が、たとえばあのストラップその他のアクセサリーである、と。クルマもまた、自意識表現グッズとして使い回されてきた歴史がありますし、実用性とずれたところでさまざまにくっつけられてゆくクルマグッズの数々もまた、室内から外装まわりまですでに大きな市場となっていますが、ただ、それでもクルマにはまだ最低限移動手段という「実利」だけは手放さない「もの」としての健康さがある。一方「ケータイ」にはそういう具体的な「実利」さえ、もう見えにくくなってます。

 

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 だから、なのでしょう。携帯電話の着信圏外にいること自体がものすごくこわいこと、という感覚が、いまどきの高校生などにはあるようです。どんな電話がかかってくるかは別にして、圏外にいないこと、「つながっている」ことを確かめるためにみんなあの小さな液晶画面(今やほとんどがカラーです)をのぞき込み続ける。それは、「個」が「世間」との関係で支えられているという感覚を喪失して、ただ消費主体としてのみ輪郭を整えられるようになったニッポンの〈いま・ここ〉を象徴する身振りのように見えます。

 そういう意味で、昨今ITと張り合わせで語られる「ネットワーク」というのは、実はすぐれて視覚的なイメージなんだな、と改めて思います。声のネットワーク、オーラルなメディアによる共同体を構築することも理屈では可能なはずの携帯電話は、でもそんな方向には使い回されていない。書を捨てよ、街へ出よう、とアジることで、同時代的な手ざわり確かな現実の復権をもくろんだのは寺山修司でしたが、今となってはもう、「ケータイ」の電源を切ろう、着信圏外へ出よう、と言わねばならないのかも知れません。

 

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