ネット書評の価値

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 もしかしたら、と、これは最近ずっと思っていることなんですが、あのお、新聞や雑誌その他の紙と活字の媒体よりも、今やインターネットにアップされる書評の方が、ずっとボリュームがあるんじゃないですかねえ。

 もちろん、ネットの書評は書き手が基本的にフツーの読者、巷の本好き書きもの好きの読書感想文というあたりから離れないわけですが、困ったことにこの「読書感想文」というのが、いまどきの表舞台の勝手に権威ぶった「書評」などよりずっとなじみやすいものだったりする。書評の仕事を結構やってきたあたしがこんなこと言うのもなんなんですが、でも、純粋に読み手として読む限り、その感覚は嘘ではありません。少なくとも、うまくめぐりあうことさえできれば、そしてそのめぐりあうための辛抱と手間ひまとをかけることができれば、ネットでの書評になかなかのものが案外転がっているのは、表舞台での正規の書評自体ここまで棲息領域をせばめられちまってる昨今、認めざるを得ませんがな。

 何が違うのか? まず、これはもう言わずもがなですが、活字の書評が出版ギョーカイのさまざまな思惑や力関係、そういうムラの政治に縛られたものになってしまっているのに対して、少なくともネットの書評はそういう利害のしがらみからは自由です。もっとも、マニア系サイトの単なる信仰告白みたいなのもあれば、読み手の事情などまるで勘案しない垂れ流しの産業廃棄物が正直、多数派だったりするんですけど、それでも、ネットに転がってる書きものに慣れてそんな文脈を補正してやることさえできるようになれば、それなりに玉石を選別できるようにはなる。第一、そういう鑑定眼は表舞台の書きものに対してだって当然、求められるものですしね。読み手としてもいい稽古にもなるってもんです。

 身の丈を離れないパーソナルな「感想」にさまざまにアクセスできる環境でこそ、最も穏当な「批評」も立ち上がる。いまどきの情報環境での「批評」のありようってのはそんなもんです。未だ一点透視の「権威」を前提にした「書評」など信頼されなくなるのは当たり前。まして、てめえらがそういうムラの利害や政治の内側でしか呼吸していないこと自体に無自覚な手合いさえ珍しくない書評の世界のこと、その外側にいつしか広がっている「観客」の視線のビビったり謙虚になったりできないままだと、ますますただの見世物、悪い意味での「ネタ」としてしか消費されなくなってゆくでありましょう。

 大手日刊紙や雑誌など、活字の表舞台の「書評」担当の皆様方、そのあたり果たしてどのようなお考えになってらっしゃるのか、よろしかったらご意見いちゃもんアヤつけその他、ひとつ寄せていただけないでしょうか。いや、マジにお待ちしてますです、はい。

*1:本の雑誌』連載、掲載原稿。