書評・勝海舟『氷川清話』『海舟座談』

 戦争がおっぱじまっちまいましたな。

 いくら本の話題中心に何か、という注文のこの欄でも、こりゃ何か言わねば格好がつかないだろう、というわけで、多少は能書きというか感想めいたことなど。

 今回、例の「同時多発テロ」から始まる一連のできごとからわれらニッポン人が学ぶべきことは何か。え~、あたし的にはまず、アメリカってのはやはりほんっとに正真正銘、マジもん掛け値なしの笑っちまうくらいにバカ国家だったんだなあ、ってことがひとつ。だから、こんなもんを本気で怒らせたら絶対にトクはない、かの『ドラえもん』のジャイアンみたいなもんで、どんなムチャ言われてもしょうがない、ここはパシリでも何でもやってうまく距離を置いてつきあうのが肝心、ってことがもうひとつ。まずはこれくらいですかね。

 もちろん、この「バカ」ってのには注釈が要る。おおざっぱに言えば、『インディペンデンスディ』だの『アルマゲドン』だののを「バカ」映画だ、っていうのと同じような意味で、ってことなんですけど、うまく伝わりますかねえ、このへんの感覚。

 よそではさんざ喧嘩やらかしてきたのに、自分ちの庭でドンパチやられたことがないもんだから六千人殺されたらいきなり眼がテンになる。おま~ら、東京大空襲で何万人焼き殺したんだ、言いたかないけど原爆はどういうこった、なんて思ったのは、はて、あたしだけだったでしょうか。真珠湾以来の衝撃、なんて口走ってた向きも当初あったようですが、ありゃ正規軍による戦争で、こんな自爆テロと同じ扱いなのは納得いかんぞ、と、小泉首相が抗議のひとつもやるかと思ったら何も言わないでやんの。第一、真珠湾攻撃アメリカ太平洋艦隊とその周辺施設を目標にしたものであって、民間人の無差別殺傷を意図したわけじゃないっしょ。そう言えば、映画『パールハーバー』もそのへん、ひでえ描き方だったよなあ。

 これは西欧文明とイスラム文明との戦いではない、国際社会とテロリズムの戦いであり、「正義と悪との戦い」なのだ、てな論調も一般化しつつあります。ほんとにもうわかりやすいんですけど、でも、そのわかりやすさがあたしゃなんか釈然としない。

 世界ってそんなハリウッドメイドの「バカ」映画みたいな理屈一発で動いちまって、ほんとにいいんでしょうか。いや、それならそれ、世界はしょせん『少年ジャンプ』なんだ、とこの際、腹くくっちまうしかないようなもんですが、でも、だとしたらなおのこと、「外交」とか「国際関係」とかってのにこそ、そういう「バカ」の機微をきちんと了解することが必要になってくる。ただそれって、今の外務省だの政治家だのじゃますますダメってことで、それこそテリー伊藤根本敬あたりを外交顧問にしないことには、この野放しになっちまった「バカ」国家アメリカ主導の国際政治ってやつとうまいことつきあうこともできない、ってことになりかねない。どっちにしても、浮かばれないハナシであります。

 この際だから思いっきりずさんなこと言いますが、タリバンってのはあれ、つまり「攘夷」派で、幕末の日本ならばさしずめ水戸派くらいの感じなんでしょうな。水戸学原理主義で幕府転覆しちまったら当時の日本はきっとこんな感じだったんじゃないの、なんて。

 まあ、もともとは遊牧民だった連中なわけで、各地の山賊みたいなのを吸収して大きくなってったっていうし、それってやっぱり日本の各地方の藩みたいなもんで、北部同盟なんてそのデンでいけば薩長土肥の雄藩連合なんてところですかねえ。まあ、百五十年近く前にイギリスとフランスがそれぞれ黒幕について駆け引きやらかしてたのが明治維新の背景なわけですから、いまどき「国際社会」を相手につっぱってみせるタリバンアフガニスタンってのは、今どき薩英戦争か馬関戦争をまだやらかそうとしているようなもの。そう考えたら、ニッポン人としちゃあフクザツな心境にもなりますわな。

 ともあれ、本の世界でもこれを機に軍事ものや国際情勢解説もの、その他火事場泥棒的な緊急出版が例によってわんさと出始めてて、それなりに需要はあるんでしょうが、さて、どんなもんでしょ、ここはそういう火事場騒ぎとはまた別な距離の置き方で、ひとつ『氷川清話』でも読んどきませんか。ご存じ、勝海舟の晩年の回顧談。もとは日清戦争後の刊行ってことになってるあたりを斟酌しないとまずいけれども、幕末を身体ごと生きた日本人にとって「政治」とは、そしてそういう「政治」が平然と跋扈するこの「世界」とは、果たしてどういう具合に見えていたのかについて、すこぶるつきに滋味あふれるテキストであることには違いない。同じく文庫で出ていて手に入りやすくなっている続編とも言うべき『海舟座談』と、ついでだ、オヤジの勝小吉の『夢酔独言』もコミでやっつけときましょう。どうせこの先しばらくは戦争報道で盛り上がるメディアを横目にこういう本当の意味で射程距離の長~い活字に浸っとくと、あとあときっと効きまっせえ。

 清水次郎長なんかもそうだったけれども、明治のこの頃まで生き延びた幕末人たちが改めて「近代」のとば口で語ってみせた「幕末」ってのは、今のあたしたちからしても決して遠い昔じゃなく、ある意味〈いま・ここ〉に他ならない部分だってないことはない、ということを、ものの見方考え方の次元でシミュレーションしてみる。こういう実践こそ、ほんとの意味での「歴史」感覚、「国際」センスを磨くことでもあるんじゃないかと、あたしみたいなのは思うんですけどねえ。それとも、こういうことを考えちまうあたしがやっぱりヘン、ってことなんでしょうか。ま、ヘンならヘンでヘンを通しますけど。