消費社会と皇室

 ユニクロ宮内庁御用達になる日、という話があります。 

  今や「新たな国民服」などと揶揄されるユニクロブランドのカジュアルウェアが、近い将来、皇室の公式ふだん着(妙なもの言いですが)になるらしい、という冗談。あるいは、サーヤの黄色いワーゲンが晴海へ行く、というのもあります。晴海で開かれるコミケット(マンガ同人誌の巨大即売会)に礼宮が自分のクルマでおしのびで通ってるらしい、という話。彼女はマンガ好きで学習院時代に同人誌まで描いていた、という噂を下敷きにした、皇室がらみの都市伝説の定番です。

 これらは、「○○だってウンコもすればションベンもすらあ」的な、「聖なるもの」を世俗に引き下ろしてリアリティを回復しようとする、昔からありがちな現象のように見えますが、しかし、静かに考えてみればやはりどこか違う。

 かつてのそういう話には「結局、同じ人間じゃねえか」という下克上的ココロが暗黙のうちに同伴していました。でも、それはやはり「聖なるもの」に対する羨望や憧憬が確かにあって初めて成り立つようなものでもあった。しかし、今はそうじゃない。「聖なるもの」を真正面から羨ましいと思う気持ちは、以前のようには持たれなくなっています。それが皇室であれ芸能人であれ同じこと。そりゃあ、そんな人たちみたいにちやほやされたり、いい暮らしはしてみたいけど、でも、それってものすごく大変らしいってことも今やよくわかる。第一、そういう今のあたしだって別にそんなに不幸ってわけじゃないし。だったら、純粋に鑑賞物として、言い方は悪いけれども「ネタ」として楽しみましょう、と。

 だから、すでに「聖なるもの」は畏怖と共におそるおそる仰ぎ見るものではなくなり、手軽にのぞき見て愛玩する対象として初めて存在できます。そのことの善し悪しはひとまず別です。あたしたちの生きる現在とは、実にそういう現在なのですから。

 雅子妃の今回の出産にも、そういう「聖なるもの」に対するココロの変化は反映されています。おめでたいことには違いないんだろうけど、でもそれって、普段ほとんどつきあいのない金持ちで上品な親戚の、晩婚だった長男の嫁さんにようやく子ができたらしい、くらいの感じ。ああ、よかったねあの家も、と素直に言えても、万歳してまで共に喜ぶ、てな感覚は普通はもうない。で、ひとまずそれでいいじゃない、と。

 ずっと思ってるんですが、皇室グッズ、というのがどうしてないんでしょうか。リカちゃん人形でさえも、最近ではお腹の大きな妊婦バージョンが売り出されるご時世。だったら、雅子サマのフィギュアがあったっていいじゃないですか。チョコエッグの中のあの精巧なフィギュアと同じく、皇室一家のフィギュアが世界に冠たるニッポンの技術で作られ、それもまた新たな宮内庁御用達となる、と。象徴天皇制と言い、「開かれた皇室」を言うならなおのこと、そういう部分もまるごと含めた今のこのニッポンの消費社会のありようから皇室もまた無関係でいられるはずがない。そういう覚悟こそが必要なはずです

 女の子ならば十年くらい後、モー娘みたいになるかも知れないし、男の子なら茶髪で細眉のジャニーズ系になるかも知れない。そういう可能性も皇室にはもうあるんだ、ということを国民的規模での常識にしてゆくこと。それこそが皇太子一家と共にこれからのニッポンを生きるあたしたちの、世代的責任ってやつです。