●
今はもうなくなっちまったけれども、かつてそれなりにカッコいい場所とされてもいた池袋のスタジオ200で、何やら連続講座をやっていた時のやつの身振りを思い出す。
借りてきたようなスーツ着込んでさ、片手に役人みてえなブリーフケース抱えてさ、教室の後ろからいかにももっともらしい風でしゃなりしゃなりとやってきやがった。で、たどりついた教卓の上に、そのケースからメモや書類をうっとりと取り出すその手つきのいやらしさ! ほらほら、こうやってセンセイやってみせてるボクってなんてステキ、てな恍惚丸見え、ああ、こいつ、こういう身振りでこういう「センセイ」ぶり、「文化人」ぶりをやらかしたかったんだろうなあ、というのが、あまりに露骨にバレてしまうみっともなさだった。
いや、そりゃね、田舎モンったらそれまでなんだけど、でもって、そういう客気や若気の至りもある時期肥やしになったりするってのもわかるんだけど、でも、こやつのただひたすら俗物丸出し、自信もなく力もないひよわなおのれをひたすらごまかして成り上がろうとする、そういう性根を甘やかしたまんまの水ぶくれ――それが生身で見たやつだった。
●●
その“やつ”――大塚英志について述べる。
述べるったって、他でもないあたしが述べるんだ、そんなもの穏便に述べるわけがない。何より、あんなうすらみっともない物件をわざわざとりあげて述べるってこと自体、いくら稼業とは言え、気が進まないことおびただしい。だが、一度どこかでやっとかねばならないと思っていたから、やる。
こやつ、とにかく世渡りのみっともなさ、意地汚さにかけては天下一品である。
出てきた当初は「まんが編集者」の肩書で「民俗学」をタテにしながら、当時のニューアカブームに尻尾ふりながらマンガやアニメをネタにしたガクモンぶりっこ、それで眼のうつろな広告系乞食や論壇まわりのオヤジ連をちょろまかして拾ったサントリー学芸賞などをひけらかしつつ、今度は「文芸評論」からなぜかブンガクまわりに出没、誼を通じたオヤジやその取り巻きの編集者にすがってそこらをなんとな〜くウロチョロしながら、「おたく」がらみの事件やできごとにもっともらしいコメントを出し、時には重信房子の獄中日記などもネタにして、いつしか文芸誌に居場所を見つけるようになった。片手間にマンガの原作やらエンタメ小説などにも手を出し、こちらはかの角川にしっかりしがみついて、これまた意地汚く手離さない。まあ、最近になって図に乗ったのか、例によってちょいとやってみただけ、という腰も据わらぬ石原慎太郎批判をうっかりやらかし文春の逆鱗に触れ、『文学界』をしくじりやがったのは大笑いだったが、それはともかく、こやつ「オヤジ=未だ活字中心の世界観の内側にいる知性、に対して、若者文化=“サブカル”を翻訳してみせる」という、「戦後」このかた成り立ってきたセコい商売を性懲りもなく繰り返してきた。
このへん、言説の需要と供給の関係で言えば、宮台真司なんかと立ち位置は同じようなもんだ。つまり、どっちも「オヤジ」にとってわかりやすげな図式と物言いとで、しかし「オヤジ」にとってほんとは違和感ありありな〈いま・ここ〉の現象を説明してやる、という手口。その説明がどれだけゆるいものであり、いい加減なものであり、何よりそれによって「オヤジ」の依拠する活字中心の世界観を相対化して新たな価値観を作り出してゆこうとするという「サブカルチュア」本来の志などかけらもないものであったとしても、だ。
そう、だから大塚英志を何となくオッケーにしてしまう心性というのは、実に「オヤジ」そのもの、野郎のごときゆるくいい加減なもの言いのうさんくささに、今となっては悲しいかな鈍感になっちまってるこれまでの活字中心の世界観の頽廃の典型的な現われ、だったりする。それは、コトバと身体とのつながり具合がどういうことになっているか、についての注意深さなど初手から棚に上げちまって大丈夫、というインテリ世間の幸せな時代を生きてきた、そんな彼らのうかつさに根ざしている。と同時に、そういうコトバと身体とのつながり具合の来歴について謙虚さを失い、初手からナメた世渡りだけをやらかせるようになってきた大塚たち――つまりはこちとら「豊かさ」の中に生まれ育った世代一般にかなりの程度固有の可愛げのなさにも関わっている。
思いきりひっくくっちまえば、ああいうツラしてああいう物言いやらかす手合いをどうして「オヤジ」=活字中心の世界観ってやつはああもうっかりと許容してしまうのか、というのが、ことこの大塚英志モンダイのアルファでありオメガだ。
●●●
そして、そういうみっともなさは同時にまた、ああ、情けねえ、まさにニッポンの民俗学というガクモンに深く根ざしたビョーキだったりもするのだ。このへん個人的な事情ってやつがからんでくるが、しかしあやつが単なる下等物件ってことだけならまだしも、それがこと民俗学がらみのみっともなさということになるから、あたしゃ黙っていられなくなる。
ガクモンにも耐用年数がある、というのはあたしの持論だが、その耐用年数の切れた民俗学というガクモンの断末魔に、いかにはずみとは言えこういうスカな物件を「民俗学」の看板くっつけたまま世に送り出したことについては、不肖大月、同じ「民俗学」を標榜してメシ食ってきた身の上、とてもじゃないが世間様に申し訳なくて、野郎が偉そうに何か言ったり書いたりしているのを眼にするたびに、その場で身ふたつ折れになる。
野郎、経歴としては筑波大で民俗学を専攻した、ということになっている。ひと頃はわざわざ「日本民俗学専攻」と「日本」なんて冠までつけてやがったけれども、そのへんの自意識のありようもまた、80年代にうっかり民俗学なんて代物に首突っ込んじまった呪いがありあり。民俗学そのものはもうガクモンとしても早くからポンコツで、〈いま・ここ〉に対応できないまま延命工作だけをしどろもどろにやってきているわけだが、その「日本」ってあたりで何とかいっちょまえのガクモンの顔したい、でもってできれば活字系インテリの「エラい」をやってみたい、という卑しい根性が込められている。悲しいかな、同じ頃同じ民俗学まわりの腐った空気を吸っていた手前、あたしゃそのへんのココロの動きが手に取るようにわかる。
その意味で、大塚英志というのは単に固有名詞でもない。大塚英志的なるもの、といったぐらいにまで無理やり広げてみれば、面妖なことにそれは、高度経済成長このかたの「豊かさ」の中で社会化していった世代にとっての、情報環境の変貌とそこに宿るコトバのありよう、てな問いに密接に関わってくるものでもあるのだ。
とは言え、このあたりになると当時の民俗学の状況ってやつを説明しないと、この大塚のみっともなさと民俗学のスカとの関係がよくわからない。いずれ腐り果てたガクモン世間のそのまた僻地の話題だからうっとうしいだろうが、手短かにすます。
まず、民俗学ってガクモンは戦後、高度経済成長の時点で完璧に〈いま・ここ〉に対応できる構えを失っちまっていた。柳田国男が死に、あいつのこさえた全国組織だけが取り残され、そりゃあ大学に講座はそれなりに出きたりしていたけれども、だからってすぐにまっとうな若手が育つものでもない。すでに「終わった」ガクモンだったのだ、とうの昔に。
ことは全然簡単だった。それまで「民俗」と称して血眼になって探して「採集」してきた「古い」生活習慣や伝承――その多くは近世このかたの定地水稲耕作文化だったりするのだが――が、みるみるうちに眼の前から消えてゆくようになった。明治このかた、世の中は大きく変わってきたけれども、それはまだ町だけのこと、「イナカ」=農山漁村にならばそういう「民俗」はまだ残っている、でもって、それは町に住む人間の忘れてしまった「日本」の「むかし」を保持していることなのだから、といったおよその理解で支えられてきた民俗学という勘違いは、しかし、ことここに至って最終的に息の根を止められることになった。
つまり、イナカがマジで近代化してきたから見るべきものがなくなってオタオタした、というのが真相。で、いや、そうじゃない、近代化したからってそれは表面だけのことで、実は深いところで「むかし」は維持されているんだ、という思い込みで、眼の前に起こっている激変を何とか見すえようとした向きもあるにはあった。その心意気やよし、だったのだが、でも、それでやったことと言えば、「団地」の「民俗」なんてトホホな代物。そりゃさ、イナカにだって団地は建つし、人が暮らしてるんだからそれなりの習慣もできるだろうけど、でもだからってそれをそのまま「民俗」なんてタームに横すべりさせていいのかよ、という、ごく素朴な問いすらも、もともと人間と社会に対するものの見方を一から学んできた折り目正しいガクモンでなかった悲しさ、自前ではほとんど出てこなかった。バカがバレちまったのだ、ほんとに。
一時期、宮田登が自分はほとんど信じてもいないくせに役割意識だけで提灯持ちをやらかし、そのせいだろう、大塚も持ち回っていた「都市民俗学」という看板も、実はその程度のものだった。「都市」にも「民俗」はあるんだ、イナカばっかりが民俗学の対象ではないのだ、という、単に高度成長の現実に置いてゆかれる焦燥感を何とかしようとするためだけの七転八倒。そこでの本当の問いは「都市」ではなく「現在」、眼の前に起こっている〈いま・ここ〉そのものとどうやって取っ組み合うか、のはずだったのだが、しかし、そういう風に考えようとする向きは民俗学の内側からはまずなかった。
大塚がどういう具合に学部でベンキョーしていたのかは知らない。知らないが、少なくともそういう空気の中で「民俗学」に接近してゆき、その中で〈いま・ここ〉を扱う手癖を覚えていったことは間違いない。しかも、東京教育大学以来、民俗学の講座として権威とされていた筑波大学だ。偏差知的世界観で言えば、東大を狙えるようなひらめきや往き脚はとても狙えないけど、でも一応マジメにベンキョーはするタチだからどこか国立でも、といった地方の公立高校の優等生が集まるところ。だからこそ「権威」にヨワい、というのは世のならい。東京都下、田無あたりの生活体験と、おベンキョ−としての民俗学との結合、というのは、偏差値的世界観の中でビミョーに屈託した立ち位置しか獲得できなかった野郎の中で(都立高校から筑波大、だもんね)すんなりできあがったはずだ。しかも、それが「消費社会」(もち、ボードリヤールね)などという新しげなもの言いと結びつけば何やらエラそうに見えたりもするし、また困ったことに、それを勝手に勘違いするバカ予備軍もまた当時は山ほどいた。ほれ、こんな具合に。
「民俗学とマーケティングの見事な結合で、新しい消費パラダイムを大胆に予測!
『電通報』連載他。マーケティング関係者必読。」
――『見えない物語』弓立社刊のオビ
ああ、もう、今見てもムカっ腹が立つ。こんないけずうずうしいコピーを腰巻きにして恥じなかった編集者(だろう、おそらく)は今、どこでどうしていやがるのだろう。
●●●●
確かに、大塚は当初、「民俗学」を自分の箔つけに使おうとやっきだった。単なるマンガ(それもロリコン系エロマンガだ)編集者じゃないぞ、ほんとはガクモンだってやれるアタマのいいボクなんだぞ、というその虚勢の張り具合は、はためにもわかりやすかった。今なら、そうだな、それこそ宮台や東浩紀並みのわかりやすさだ。
大塚は宮田登の弟子だったけれども、卒論があまりにジャーナリスティック(笑)なので大学院には残れなかった、というハナシが当時、まことしやかに流通していた。これ自体、見事に都市伝説。宮田登の弟子、というのがまずウソだ。まあ、学部学生だから弟子もヘチマもないようなもんだが、それを割り引くにしても、おい、おまえの卒論の指導教官は宮田ではなかったはずだぞ。
「それでもなお、〈都市伝説〉的なるものは生き延びるのか否か。民俗学の卒論で宮田登を指導教官に〈世間話〉論を書いたぼくの興味はその一点にあるのだ。むろん、編集者としてのぼくは、『民俗学の都市伝説に関する論文を集めて一冊にすると売れますよ、何なら企画書書きましょうか』と常にシステムの側に加担してしまう困ったちゃんであることはいうまでもない。」
――『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』
当時「民俗学」のスポークスマンとしてかけずり回っていた宮田登にすりよって庇護してもらおうという思惑が、こういう物言いにはしみついている。既存の権威であるそれら「オヤジ」に対して批判し、反抗するようなポーズをとりながら、実は初手から腹出して媚びてみせている、というこの姿勢はその後、大塚に一貫している。何のことはない、単なるガキが「大人」に認めてもらおうとじゃれて甘えているだけだ。
あたしが覚えているのはこの「伝説」、まさにその大塚にコロッとちょろまかされた「オヤジ」の典型、今村仁司か誰かが得意気に紹介していたくだりだけれども、しかし、大塚自身がそれを自ら否定したってハナシも聞いたことがない。それもまた「わかってやっていたんだよ」という、例によってのしゃらくさい言い訳をあのふやけたおたくヅラでぬかしやがるのだとしたら、もう問答無用、出会い頭に殴り倒すが可、だ。
だが、こういうハッタリをすんなり受け入れる世界、というのも当時、すでにできあがり始めていた。「ギョーカイ」というのはそういう世界だった。それは別な言い方をすれば、広告資本の速度と論理によって身の丈のコトバが一気にどこか違うところにもってゆかれるような体験が日常化した場所、でもあった。
たとえば、現代の少女にとって朝シャンはみそぎである、という、一部で失笑と共に有名になった野郎の物言い。「朝シャン」というのもいまやもう忘れられちまってるけれども、当時はほれ、新聞の文化欄なんかにとりあげられた「いまどきの若者風俗」のひとつだった。で、どうしてそういうものが流行るのか、てな能書きを求められて、野郎は「みそぎ」という物言いを持ち出した。ただそれだけだ。一見民俗学チックな(おい、どこがだ)「みそぎ」という物言いと、〈いま・ここ〉の「朝シャン」との結びつき。ミシンとこうもり傘どころではない、このわけのわからない結合が、当時はなぜか「おおっ」となるようなものだったりもしたらしいのだ、少なくともその「ギョーカイ」界隈では。
それは、その程度にコトバと現実、もの言いと実存をあっちとこっちに肉離れさせることで商売になる、そんな構造が当時、80年代半ばの広告資本のまわりにすでにできあがっていたことの証明である。大塚的なるもの、は実にそういう環境に最もうまくなじんでゆくようなものだった。その場しのぎの責任なきもの言いのたれ流し、コトバの背後に連続性をもった「主体」の気配のない頽廃、そんなものが平然と「知識人」なり「文化人」の身振りでまかり通るようになり、何よりそれまでの活字の論理の側がそれに対してまっとうに批判力を発動できない始末。大塚英志のような愚物が未だのうのうと生き延びているのは、そういう意味で、それまでの活字の「エラい」に無条件に依拠して作られてきた「戦後」の言語空間ってやつが、もはやそれほどまでに底抜けになっちまってることの最もよい証拠だ。
眼の前に起こっていること、未だもっともらしい説明も解釈もつけられていないことに対して、何かそれなりに納得できるような物言いをしてやる、それもまたいまどきの文化人なり知識人なりの仕事のひとつではある。「評論家」というけったいな世渡りがここまで一般化してしまったのは、実にそういういまここが常に確かな説明なり解釈なりを与えられないままに移ろいつづける、戦後ニッポンの状況ってやつがからんでいるのだ。それは昨今、「コメンテーター」にまで水増しされているけれども、何にせよ、そのような役回りを世渡りとして必要にするくらいに、ニッポンの〈いま・ここ〉はほったらかし、ってことだ。で、そのほったらかしの隙間を縫って、時にとんでもないものまでがうかつに世に出ちまう、と。
大塚英志がコトバ本来の意味でのブンガクやガクモンに寄与できることがこの先あるとしたら、それはたとえば、かつて白夜書房の編集者だった頃、持ち込みにきたという岡崎京子にどういう対応をしたのか、あるいはさらに前、クラいおたく学生だった時代にバイトでいたはずの『まんがの森』で何を見、何を聞いたのか、そういう「体験」をこそ書きとめることのはずだ。なのに、文春をしくじる前に連載していた「サブカルチャー文学史」でもそんな構えなど初手からなく、ただただおのれを棚上げした昔話を垂れ流すばかり。「オヤジ」を批判し、自らの世代体験をもとにたてついてきたはずだったものが、気がつくとその「オヤジ」以上にいじけたオヤジと化してゆくみっともなさは、言うよ、近い将来、必ずおまえの〈いま・ここ〉にはねかえってくる。どんどんおたく太りを甘やかせ続けて心身共に煮崩れてゆくようなおまえの書いたものを眼にするたびに、よっしゃ、きっちりカタつけたらんと、と思うのだよ、あたしは。