不良老人ノススメ

*1

●隠居の終焉

 人間の老い、年の取り方という観点から歴史を振り返った場合に、ひとつ注目していいと思うのは、隠居という制度です。

 それは、地域によって、年代によって、農村と漁村、あるいは男女によって、さまざまな違いがあるにしても、ごくおおざっぱに言えば、農業や漁業などの一次産業が社会の主な生産様式としてドミナントであった状況下での共同体が前提となっているという点では、共通しています。

 隠居というのは、一言でいうと現世とのつながりを断つことです。権力や政治や社会的な地位などと一切の関係をひとまず持たなくなった状態を、隠居と呼んだわけです。

 その意味で、究極の隠居は「死」なのですが、そのような生物的な「死」の前段階として、まず現世の共同体での社会的役割を脱ぎ捨てて、現世から「リタイア」する、あるいは「卒業」すること、それがまず隠居だったわけです。

 かつての日本の民俗社会では、隠居がひとつの知恵として社会的に正当化されていました。そしてそれは、ミもフタもなく言ってしまえば、老いて生産性が低下した構成員を合理的に引退させる、という意味合いもありました。

 というのも、民俗社会では、共同体における「一人前」の基準というのが、今のように物理的な年齢ではなく、共同体の成員としてひとつの仕事をちゃんとこなせるかどうか、という実務の遂行能力の有無に置かれていたからです。

 たとえば、地方の神社には今でも「力石」というのがあります。これは子どもであろうが大人であろうが、この石を持ち上げることができたら共同体の中で一人前と認められるという、共同体の成員になるためのパスポートのようなものでした。身体が大きな者ならば十歳でも持ち上げられるかも知れないし、逆に身体の弱い者は十五歳になってもムリかもしれない。そのような年齢による一律のものさしというよりも、むしろ具体的な「力」を持っているかどうかで「一人前」は測られました。

 一人前の労働ができれば一人前と認定されるということは、逆に言えば、一人前の労働ができなくなったら一人前と認められなくなる、ということでもあります。そして、一人前の労働ができなくなった老人は、隠居という形で現世とは違うステージに置かれたのです。

 だが、今の我々はどうも、隠居によってイメージされる老い方を、ひとつのイデオロギーのように受け入れてしまっている傾向があります。今の我々が持っている「ご隠居」イメージのこのような定型化には、それ自体に歴史がまつわっています。そのことは、たとえば横丁のご隠居といった存在にまつわる民話や物語などが、これまで膨大に創作され、伝承されてきたことからもわかるでしょう。

 たとえば、大久保彦左衛門と一心太助の人情話があります。あの話が講談などによって流布されてゆき、今あるような定型に落ち着いたのはおよそ明治期以降のことですが、ここで、「ご隠居」である大久保彦左衛門は、頑固ではあるけれども、実は人情にあふれた暖かい老人としてある種、美化されています。あるいは、もっと一般的に知られている「ご隠居」ならば、言うまでもなく水戸黄門があります。「越後のちりめん問屋の光右衛門」という名乗りで全国を旅してまわる彼の物語は、しかしあの「ご隠居」というところでまた独特な受け止められ方をされてもいました。

 しかし、大久保彦左衛門のような、あるいは水戸黄門のようなほのぼのとした「ご隠居」像が、今の我々のような豊かな社会の老い方の雛型になるかというと、必ずしもそうではない。むしろ、かつて確かに存在し、そしてその後もある程度受け継がれてきたような隠居の仕組みや考え方を現代社会にそのまま適用することは、すでに困難になっているとさえ言えます。

 というのは、社会の生産性が飛躍的に向上し、それによって社会が「豊か」になり、社会を構成する個々人が確固とした内面を持つようになった結果、好むと好まざるとにかかわらず、老人たちも感情面で豊かな生活を送るようになったからです。個々の老人のセンシティヴィティーまでが飛躍的に豊かに、多様にさえなった我々の社会に、かつての「ご隠居」のような枯れた老人像はそぐわない。

 とすれば、新たな老いのモデル、年を取るためのモデルを考えなくてはならないし、そのためにはこれまでのような「ご隠居」像、あるいはそれらのイデオロギーに縛られている「お年寄り」「老人」像にまで及ぶ、発想の大転換が必要になってきます。民俗学の始祖である柳田國男がもしも現代に生きていたら、この「老人」像の来歴と転換というのは、おそらく真剣に取り込んだテーマのひとつだったろうと、あたしは確信しています。少なくとも、新たな老いのモデルが、かつての民俗社会のように、農業や漁業といった一時産業の現場で身体を使って生きていくことが当たり前であったような社会での老い方、ライフサイクルとは全く違うものとなることだけは間違いないはずです。

 

●●独り身の老い

 隠居という制度は、言うまでもなく「イエ」制度を前提としています。「イエ」制度がまずあって、その「イエ」の中で暮していた老人が、隠居という形でリタイアの仕方を保障されていた。

 戦争末期、柳田國男が東京郊外でバスに乗ったとき、たまたま乗り合わせた材木屋の老主人が「私もこれから家を持って、一家の先祖になるんです」と話したのを印象的に書き留めています。戦争末期、特攻隊などで通常のライフサイクルとは違う死を経験せねばならない人たちが増えたことに心痛めて書かれた彼の『先祖の話』にも、このエピソードは反映されています。このように、一家を起こして「イエ」を持つことは当時の日本人にとっての最も望ましい姿、生きる約束事のひとつでした。

 ということは、当時でさえも、そのような隠居を許されたのは、そのような「イエ」を持つことができ、先祖になることを保障された老人に限られていたといっていいでしょう。ところが、現代日本においては、この「イエ」意識自体が大きく変わりつつある。

 元来、「イエ」というものは観念としていきなりあるものでなく、微細な人間関係や具体的に生きる場としての共同体の意識、さらに大きく言えばその時代の文化やエートスなどまでを総合的に反映した、もっとコンプレックスなものでした。それはたとえば、かの島崎藤村をとことん悩まし、中野重治を屈託させたほどの底なしの闇を内包した多義的なものでもあったわけですが、しかしそれもまた、今では単なる建て売り住宅イコール家、と短絡的に受け取ってしまうところがあるようです。「イエ」という観念自体が社会的的な背景とのつながりを喪失している現在、具体的な建物としての家がそのままかつての「イエ」制度と重ね合わされ、のっぺりと理解されているところさえあるように思います。そこには、かつての「イエ」が持っていた何ともやりきれない手ざわりとか、逆にだからこそゆるま湯のように癒してくれることもあった部分とかが、ほぼ抜け落ちてしまっている。いまどきの「家族」イメージ自体が薄っぺらな、それこそ建売住宅の折り込み広告みたいなものでしかなくなっているのも、ひとつにはそういう事情があるはずです。

 つまり、隠居という老いのモデルがすでに幻想と化してしまったもうひとつの背景には、少なくとも近世以降の日本人の精神生活を強く支えてきた「イエ」制度の最終的な崩壊、そのような「イエ」意識の決定的変質という現実があるということです。

 そこで、これから先の時代に適応した新たな老いのモデルを考えていく素材として、ひとつ検討してみたいのが、独り身の老いです。

 かつての隠居は、財産があり、守るべき家があるからこそ隠居もできたわけです。しかし、家を持てなかった老人も、昔から当然多数いたはずで、彼ら彼女らの老い方についての知恵は、たとえば「隠居」と言った時には織り込まれていないのが普通です。

 そのような、これまでは「イエ」制度の外側に「その他」として例外的にあった老い方、つまり独り身としての老い方はどのようなものであったのか。これからの時代に適応した新たな老いのモデルを構築するヒントとして、これまで「イエ」制度が生きていた時代では基準外のものとして扱われてきた、この単身生活者としての老いに今、もっと正面から光を当ててみるべきではないでしょうか。

 何も仏教的な意味合いなどではなく、人間は独りで老いて、独りで死んでゆく。そのことは、今も昔も変わらない人間的真実でしょう。「イエ」制度が生きて作動していた状況でも、そのように「ひとり」であることを自覚し、そのことと折り合いをつけようとした営みは必ずあるはずです。

 とは言え、そのような老い方はかつてはある限られた条件にしか可能ではなかったところもあります。そのような独り身の老いを幅広く可能にする諸々の条件は、高度経済成長によって準備されたと言っていいでしょう。老いてなお人生の意味を問うことは、かつてはカネとヒマを持った特権的階層、あるいはそのような悩み方を許される知識層の悩みでしたが、未曽有の「豊かさ」が実現してしまっている今の日本においてこれは、今や老人たち多くのごく普通の悩みになっている。だからこそ、独り身の老い方の歴史から学ぶことが必要です。

 今、普通に言われている「隠居」という言葉からは、子どもや孫を含めた家族に暖かく見守られて幸せに生きる老人、といったイメージが強い。介護保険の導入をめぐる議論の際も、無批判の前提になっていたのがそのような「老い」のイメージをよしとするイデオロギーです。しかし、民俗学者の眼から見ればそれはおそらくすでに幻想であり、それ自体が民話と同じフォークロアであるように思えます。もっと言えば、かつての民俗社会で家族に囲まれていた型通りの隠居ですら、その内面などにつぶさに焦点を当ててゆけば、おそらくは今の我々と同じ、あるいはもっとそれ以上の苛烈な孤独と隣り合わせであったところだってあるはずです。

歴史学であれ社会学であれ、そのような人と社会を扱う学問からはどこか例外として扱われてきたはずの、そのような独り身の老人たちの生き方を〈いま・ここ〉からもう一度、個々に具体的に掘り下げてみることで、その間の事情はさらにはっきりと浮かび上がってくることだと思います。

●●●無法松の一生

 一〇年ほど前になりますが、あたしは『無法松の一生』を題材にした『無法松の影』という本を書いたことがあります。

 『無法松の一生』は例のバンツマ、阪東妻三郎の映画によって人口に膾炙したと言われている物語ですが、原作は岩下俊作という作家が書いた小説です。明治期のできごとという設定で、昭和の初めに書かれている。


 岩下俊作は北九州に住んでいた『九州文学』の同人で、作家の火野葦平らの文学仲間でした。仕事は八幡製鉄所の職工、正確に言えば下層の技師でした。専門学校を卒業して製鉄所に就職した、たたき上げのエンジニア。つまり職業作家というよりも、そういう日曜作家、アマチュアとしての立場を終生貫いた人でした。

 その岩下俊作の代表作『富島松五郎伝』――俗に言う『無法松の一生』は、今の六十代から上の日本人ならばほぼ誰でもご存じの物語でしょう。高級軍人の未亡人に惚れてしまった乱暴者の人力車夫が、その恋心を告白できぬままに純愛を貫いた、つまり無骨な男の忍ぶ恋を描いた作品――少なくともこれまではそう解釈されてきた。これは、伊丹万作がシナリオを書き、バンツマが演じた映画のイメージによって、このような成らぬ恋の物語だと受け取られたところがあります。しかし、元の小説はこのようなイメージからはかなりかけ離れたところがある。しかも、このように原作から離れた解釈が一般化し、肥大化していったのはむしろ戦後になってからのことでした。

 かつての無法松は非常に闊達な暴れん坊で、街の名物男でもありましたが、しかし女嫌いで家族には全く縁がなく、むしろ家族を持つこと自体を拒否してきた。刊行された作品には反映されていませんが、今も小倉の図書館に残されている岩下俊作の創作ノートなどの資料をみると、職工仲間から女郎買いに誘われても絶対に首を縦に振らなかった、というくだりまでが草稿として残されている。

 その無法松が、ひょんなことから人並み「イエ」の物語を持とうとした、それが彼の不幸の始まりでした。職業軍人の家族と知り合ってしまうことによって、巷の独り者だった無法松の生涯は、意外な展開を遂げてゆきます。

 ある日、仕事帰りの彼が、街角でケガをしている子どもを助けることになった。それで、自宅まで連れていったら、吉岡大尉という高級軍人の子息だった。それから、無法松は吉岡大尉に気に入られ、職人として出入りを許されるようになるのですが、しかしその主人である吉岡大尉は、演習で風邪をひいたのが元で急死してしまいます。

 そこで、無法松は及ばずながら、残された妻子の後ろ盾として父親代わりになってやろうと心に決め、未亡人と子どもに尽くしてゆきます。実際、未亡人に恋愛の情を抱くわけなのですが、しかし決してその気持ちを告白しない。そして、未亡人に対する想いの代償行為として子どもに愛情を注ぐけれども、その際もあくまでも後見人として自分を規定することで禁欲し、セクシュアリティーを抑えてゆく。

 子どもの方はと言えば、賢い子である上に新しい時代の教育を受けているために、成長するにつれて粗野で無骨な無法松を疎ましがるようになります。路上で無法松に「吉岡のぼんぼん」と声をかけられるのが嫌で、無法松を避けて歩いたりする。しかし、そのことを直接、無法松に言うことはできず、「道端で声をかけられるのは恥ずかしいから、止めるように松のおっちゃんに言ってくれ」と母親を介して言うような、そんな子供です。

 こういう無法松と吉岡母子との屈折した関係は、高度成長期以降に日本の多数派になった核家族のありようとパラレルではないでしょうか。敢えて言えば、ここでの無法松はまさに今の我々に連なるような核家族における父親像の原型を、期せずして表出している。父親は常に不在であるため、外部から関わって妻子を助けることで父親としての役割を果たそうとするけれども、家族的な愛情関係からは終始、疎外され続ける――そんな今となってはありふれた父親と家族との関係が濃厚に出ているわけで、作品自体は確かに明治期を舞台にした昭和初年のものですが、このあたりの描写についてある意味で非常に戦後的な印象さえ受けるものです。

 もちろん時代的な文脈で言いえば、吉岡の息子に象徴される岩下俊作の世代というのは、明治をすでに遺物として捉えざるを得ないような新たな意識を持ってしまった世代、大正デモクラシー以降に社会化した個人の意識を代表していました。だからこそこのような無法松的な存在に対する距離感も持てたわけで、それがその吉岡の息子である敏雄に重ね合わされているのですが、しかし、その距離感が同時に、戦後の「豊かさ」を獲得した我々の多くにとっても共有できるものだったということは、言っておいていいと思います。

●●●●無法松の不幸

 『無法松の一生』における、これまで隠されてきた重要なテーマは、おそらくそのような「老い」なのではないでしょうか。

 作中、「四〇歳を過ぎてなお独り身でいる男にありがちな偏屈が、無法松の中にも宿り始めていた」という印象的なくだりがありますが、そのような単身者の老いのありようを作者はかなり冷徹に眺めている。だからこそ、これは何も無骨な男の恋愛を描いた物語、などではなく、むしろ当時の「イエ」制度から外れざるを得なかったその他大勢の単身労働者の老いと孤独をこそ描いた物語なのだ、とあたしは思います。そして当時、おそらくはあたりまえのこととして、どこにでもあった無法松のような老い方を、岩下俊作は見逃さなかった。

 子どもからは疎まれ、未亡人には心情を吐露できずに、無法松はひとりどんどん老いの中に沈潜していきます。小説の描写を見ていると、晩年の無法松は間違いなく、ある種のうつ状態になっています。ただひたすら居酒屋で一人、酒を飲んでは、無頼だった頃の記憶にまどろみ、ただブツブツ独り言を言っている、そんな老いた無法松の姿は確かに無残ではある。

 しかしその無残は、本当ならばそのような身の境遇をおのずと受け入れ、訪れるべき老いの孤独に耐える独り身のルーティンがあったにもかかわらず、当時イデオロギーとして強化されていった「イエ」制度の側にからめとられてうっかり恋愛に心を奪われたために、どんどん不幸になっていった結果なのだ、という解釈もできるのではないでしょうか。

 原作の無法松は親方を持たない流しの人力車夫です。現代の物語で言えば、たとえばあのフーテンの寅さんに転生するようなキャラクターではあります。思えば、映画の寅さんも、親分のいないテキヤです。無法松の戦後的な形が渥美清扮する車寅次郎なのだ、ということも言えるでしょう。ただ、しかし両者には決定的な違いがある。

 寅さんは必ず、家族を含めた大勢の人たちに受け入れられています。「なんだかんだ言っても、みんな寅さんが好きなのさ」という形で、いつも物語は収束する。寅やの連中が「今ごろ、寅さん、どこをほっつき歩いているんだろうねえ」と心配することが自明の前提で、あのお約束の物語が成り立っている。寅やを中心にした家族や地域の共同性から寅さんが放擲されることは、あの山田洋次の映画においては絶対にありません。その意味で、寅さんは無法松の末裔、とは言い切れないところがあたしにはある。

 もしも、無法松が当たり前の独り身の無頼漢として生き通していたら、あんな苦しい老い方をしないで済んだのではないでしょうか。もちろん、それは野垂れ死にであったかもしれないが、逆にヘンな内面の葛藤に苦しんだり、自分でも始末できない得体の知れない疎外感に苛まれてうつ状態になったりしないで済んだかもしれない。そういう近代の隘路に嵌まり込んでしまった、単身者無法松の不幸を描いた作品として、あたしは原作『富島松五郎伝』を読んでみました。

 ところがこれが映画になると、まるで日本的マッチョイズムの原型みたいな街の荒くれ名物男が忍ぶ恋で苦しんだ挙句に、美しい純愛を貫くという、どこか異質な物語にすり替っている。最後の場面、死んだ無法松がずっと寝ていた煎餅布団の下から、未亡人と子どもの二人の名義の郵便貯金の通帳が出てくるというのがこの物語のオチですが、この「郵便貯金」というのもまた無残さを増幅させている。

 本来なら、そんな貯金とか保険とか、そのようなリニアーな人生設計とはまるで違う時空で生きていたはずの人間が、郵便貯金に少しずつ小金を貯めていくような人生に絡め取られてしまったのは、きっと不幸だったとあたしは思います。逆に言えばだからこそ、無法松が本来、送るはずであったような民俗社会に埋め込まれてあった独り身の老いが、今もう一度、「豊かさ」を自明のものとしている我々自身の老いとして浮かび上がってもくる。「豊かさ」というのはそのように、民俗社会における何ものかを別な文脈、別な形でもう一度再生させてみたりもするもののようです。

 無法松本来の生き方というのは、確かにアウトローであり、普通の人々とは無縁の生き方であったかもしれない。しかし、それは今や、これまでとは比べ物にならないくらい広範囲の人間にとって、引き受けなければいけない現実になっていたりもする。

 もちろん、家族に囲まれて幸せに生きる老後、という従来の物語で癒されるのであれば、それに越したことはないでしょう。だが、おそらくそんなケースは実際問題として、少数に止まっている。にもかかわらず、「老い」がそのような従来の物語、従来の文法でしか語られていないために、却って老人たちの多くが不当な抑圧を受けたり、疎外感に苛まれているのではないか。当たり前のものとして共有されているイメージとしての「老人」や「老い」、あるいは「隠居」に連なるもろもろ全てが、今の「豊かさ」を生きる我々の老年期にとっての最大の抑圧要因になっているかも知れない――民俗学者としてのあたしの感覚はそう言っています。

 無法松は、単なる乱暴者ではなかったし、単なるマッチョイズムの権化というわけでもなかった。自らの生まれた場所にふさわしい老いを自分ひとりで引き受ける、まさに「身じまい」の仕方を、彼はもともと弁えていたはずです。民俗社会とはそういうものだったし、そこに生きることはそのように倫理的な骨格を持たざるを得なかった。その意味でも、これから老いのパラダイムを変革していく際に、無法松のようなはみ出し者の不良老人から学べることは多いのではないかと思います。高倉健が死ぬまでに一度、この無法松を演じてみたい、と言い続けているのは有名ですが、さて、『ホタル』でいまどきの老人たちの涙をしぼりとった健さんは、どのような無法松を演じたいと思っているのでしょうか。あたしはとても興味があります。

○放浪詩人の独白

 はみ出し者というと思い浮かぶのが、いわゆる文学界隈のアウトローたちです。文学そのものがついこの間まで、そういうはみ出した営みだったことを思えば、その中に屹立したひとり身の系譜を学び取ることもまた、それほど難しいことではありません。

 たとえば、詩人の金子光晴なんかはどうでしょう。

 詩作だけでなく、小説や翻訳でも日本の文学史上に大きな足跡を残した人ですが、戦時中でさえもそのような時流とはまるでかけ離れたところにあるかのような詩を書き綴る、筋金入りのはみ出し者ならではの反骨な一面を持つ一方で、女房を連れてアジアからヨーロッパを四年間にもわたってどんどん放浪してしまう風来坊でもあり、まあ、いずれにしてもそれ自身が伝説のような不良詩人の権化といっていいでしょう。

f:id:king-biscuit:20210806205449j:plain

 その金子光晴が家財道具も処分し、妻で作家の森三千代と子どもの親子三人で、夜逃げ同然でアジア放浪の旅に出たときの日々を綴った『どくろ杯』という自伝がありますが、その中にこんな一節がある。

「夫であり妻であるそれだけのために折角の男と女が酸蝕され欠けこぼれて、お互いにずんべらぼうになってゆきそうで、私も彼女もそのことでその関係をいまわしくおもいながらも、人が愛情と呼ぶ煤黒い未練で当面をごまかしていた」(『どくろ杯』より)

 「イエ」という制度が自明のものとして機能している時代に、そして「夫婦」という制度もまたその一部として今よりずっと強固なものとしてあった頃に、こういう孤独、こういうひとり身であることと引き換えに、性を持ってしまった生き物としての自分を認識しようとしていることに驚きます。驚くと同時に感動します。形として夫婦であろうが、家族であろうが、そんな約束ごととはひとつポン、と離れたところで、徹底的にやはり自分はひとり身である、という自覚。それはもちろん厳しい孤独を自分に強いることでもあるのだが、しかし、そこを容赦なく掘り下げてゆくことでしか、言葉本来の意味での「個」としての自分という自覚は確かに自分のものにもなりはしないだろう――まるで業のようなものとして、金子光晴はそんな自分のありかたを見つめています。

 「ひとり身だったときの、寂しいけれど、かぶさりかかる負目のない飄々としてわがところを得た生きかたがなつかしくおもい返されるのであった。私が生活費もろくにあてがうことをせず、彼女ひとりのこして上海に息抜きせねばならなかったり、彼女が留守を辛抱しきれないで、恋愛に走らねばならなかったような、元来無資格な無理なくらしの押せ押せのうえに蟠った毒気流は、こうしたいっさいを歩に戻して出直す他に手のないものらしかった」(以上、『どくろ杯』より) 

 ここには、夫婦関係の中でも常に圧倒的に孤独であり、圧倒的にひとりであることを自覚せざるを得ないような、その意味では屹立した自意識の存在が描かれています。当時は確かに例外的なものであり、またその程度に才能のなせるわざでもあったわけですが、しかし、このような自意識のあり方は、今やあたりまえの老夫婦の間でさえ、ある程度現実のものになっているといってよいのではないでしょうか。

 こうした自意識の問題、「自分」という「個」の始末をどのように自分の内面でつけてゆくか、という課題は、今や老いてさえも逃れられないものとして、具体的な老いの局面にも影を落としています。かつてならば老いて枯れる、というように、このような自意識への執着は薄れてゆくことこそが正しいこととされていました。それはそのような「個」の自覚をやたらと持ってしまうことが、「イエ」制度の内側での老いにとっては有害なものである、という認識の裏返しだったとも言えますが、しかし、今では誰もがある程度持ってしまっているそのような「個」をどう始末するか、もまた、社会的な文脈での老いの問題のひとつになりつつあります。それは、男性の側だけの問題ではなく、女性の側の問題でもあります。現に定年を期に、妻から離婚を申し渡された夫も多数出てきています。性を持ってしまった生き物としての「個」を改めて、老いのステージにおいて見つめなおすことでこそ、「豊かさ」の中の老いに新たな展望も開けるのではないでしょうか。

 確かに夫婦関係は、「豊かさ」が広汎に実現してしまった我々のような社会において、きわめて大きなストレス源ではあります。だからこそ、これまでのような「夫婦」「家族」の物語に考えなしに頼ろうとするだけでなく、たとえば所詮はこれもひとつの契約なのだ、と前向きに考えることもできるようになっているかも知れない。それが可能であれば、よりストレスの少ない夫婦関係へ、老いを契機に移行することが可能になるかもしれないし、老いてもう一度、単身に戻るという選択肢も現実味を帯びてくる。いずれにしても、独り身としての自分のあり方について、若いうちでなく、そのように年を取ったからこそ初めてゆっくり考えられるという側面があるかも知れない、と思います。

 「枯れる」というのは、ただ衰え、衰弱することではないはずです。もっとアナーキーに、もっと自由に、「イエ」に象徴されるしがらみから離れた「個」にもう一度立ち戻って生きる契機にも、それは成り得るのではないでしょうか。戦後の日本が実現させてきた「豊かさ」というのはそのような選択肢もまた、我々の前にもう投げかけてくれているはずです。

○●不良老人たちの老い

 あたしは研究対象のひとつとして、競馬の社会をずっと見続けてきています。この競馬場で働く厩務員さんたちの老い方を見ていて、考えさせられることも少なくありません。

 地方競馬の厩舎で働いている厩務員さんたちの中には、借金や暴力沙汰などで娑婆にいられなくなり、行く宛てもなく競馬場に逃げ込んで居着いてしまったような、いわゆる不良老人たちが紛れ込んでいたりします。

 そんな彼らにとっては、自分一人で馬が引っ張れなくなるという厳粛な事実が、自らの老いのものさしとしてあるようです。だから、そうならないようにいつも努力してるわけですが、逆にだからこそ、彼らがいったん病院に入院したときには一週間ぐらいで本当にコロッと亡くなってしまう、そんなことも珍しくありません。

だから、彼らは病院を非常に嫌う。ケガをしたときでもなかなか病院に行きたがらないし、病気の場合だとギリギリまで痛みや苦しみを我慢して、本当に動けなくなるまで行かない。病院には行くな、という強固な不文律がどうもあるようなのです。

 これは、別に厩務員さんに特別な精神性ではないでしょう。今でも、身体を張って生きているという感覚から離れにくい職場――いわゆるブルーカラー労働に従事する人たちにとってはかなり普遍的にある感覚だと思います。そして、かつてはそういうメンタリティーを、もっともっと多くの日本人が当たり前に持っていたのではないでしょうか。

 今でこそ、一定の年齢に達すると誰もが成人病健診を受け、血圧や肝臓の数値が中年以上の大人たちのコミュニケーションのツールになってしまいましたが、かつては、自分の身体の状態をそのように数値化することなど誰もほとんど知らなかったし、だからこそ、自分の感覚と勘だけを頼りに自分の身体と向き合って生きてきたところがあったはずです。病気で寝ついた老人が「あたしにもそろそろお迎えが来たようだ」と言って死期を知る、その「知る」ことも何か今の我々からはもうわからなくなった確かな実感と共にあったらしい。そのように「生」を知ることは「死」を知ることでもあったようなのです。

 もちろん、今のホワイトカラー労働者の場合は、厩務員さんのような現業と違って、自分の仕事が見えにくくなることから逃れにくいでしょう。三次産業が社会の主流になってゆく脱産業社会化、情報社会化というのは、個々の生にとって仕事の手ざわりが自分の手もと足もとにとりまとめておきにくくなってゆく過程でもある。だからこそ、そのように自分の肉体や精神も含めた独り身の輪郭を改めて確かめ直すことが今、重要になってくるように思います。

○●●物語世界に観るワガママ・ジジイたち

 不良老人、とでも言うべきはみ出し者の、屹立した「個」であることを間違いなく表現し得た老人たちをもう少し紹介しておきましょう。

 戦前に「瞼の母」や「一本刀土俵入」などの戯曲を始め、小説その他をたくさん書いてで一斉を風靡した長谷川伸という作家・劇作家がいます。

f:id:king-biscuit:20210806205630j:plain

 彼の父親の長谷川秀造という人は、横浜の開港時に人入れ稼業で儲けた元締めで、言ってみれば地元の顔役、今の小泉首相のおじいさんみたいな存在だったようですが、この父親もまたさまざまな伝説を残したおもしろい人物でした。

 たとえば、当時では珍しい大きな柱時計を買って店の真正面に置き、「時刻が知りたかったら遠慮なく見るがいい」と町内に触れ回った。ところが、当の本人は時間が読めずに義弟をいちいち呼んでは「今、何時だ」と聞いていたといいます。

 また、当時流行り始めた洋服と靴をさっそく買ってきたものの、足が痛くて靴が履けない。それで、洋服に草履を履くことにしたが、「靴がないのは面白くない」と言って、道行く人に見えるように靴を腰にぶらさげて歩いたそうです。

 さらに、秀造が古希を過ぎた頃、家族や舎弟を集めてこのように宣言した。

「倅の女房を見付けて来た、俺あその子に惚れ込んだ、倅がもし厭だというなら俺が娘に貰って婿をとり、俺の跡をとらせるからそう思え」

 まあ、今の感覚からするとメチャクチャな話なわけですが、でも、このように家父長として断言し得る、それだけの確信が何かこの秀造にあったことは間違いないでしょう。また、そのような秀造が当時としても突出した個性の持ち主で、まずその一族で、そしてその一族が生きて暮らす共同体たる地元で、いわゆる巷の話題になる人物であったこともまた間違いない。そのように語られるだけの何ものかを持つ人物としての秀造というのは、語られるからこそまた自分の「個」を際立たせてゆくような感覚を研ぎ澄ませてゆくこともできる。ここでひとつ注目したいのは、その「話題になる」こと、「語られる」ことのはらむ健康さです。

 晩年の秀造は確かに困った老人でした。そのように強引に引っ張ってきた嫁も結果的には裏目に出ることになり、家もみるみる没落した。けれども、そのようなネガティヴなこと、困ったこともひっくるめて皆に受け止めてもらえたし、語ってもらえた。その意味で、彼に対して彼の周囲の人間のまなざしが保障されていたわけで、そういう関係の中でこそ、彼はすこぶる健康な老いの日々を生きられたに違いない。語られるに足る「個」を表出してゆけること、そのような身振りや言葉を持っていること、それがこれからの健康な老いのためのひとつの条件ではないでしょうか。

 また、最近のサブカルチャーの中からも、いくつかの不良老人の事例を取り上げてみましょう。たとえば、森下裕美四コマ漫画『ここだけのふたり!』に出てくるじいちゃんなんかどうでしょう。

 最近のマンガでは、老人が何かペット化して描かれる傾向があって、この森下裕美の作品も基本的に例外ではありません。このじいちゃんもその一例ではあります。なるほど、昨今の核家族化によって老人と日頃接する機会はどんどん少なくなり、身近な老人でさえもたまにしか会わない珍しい「動物」になってしまっている。それはそれで問題なのですが、同時にまた、そのように身近でないからこそ、却ってすんなりとかわいがられる、言い方は悪いですがペットのように愛玩の対象になっているところもあります。

 このじいちゃんは、主人公夫婦の嫁の母方の祖父に当たるらしくて、主人公夫婦の家にもよく泊まり込みで遊びに来るのですが、ワガママを言ってはいろいろと問題を起こし、周囲に迷惑をかけるとんでもないワガママジジイではあります。たとえば、いいトシしてダイヤルQ2で一ヶ月に一五万円も電話代に使い、ばあちゃんに叩き出されたり、孫夫婦に旅行に連れて行けと言って、断られると近所の奥さんに娘婿の悪口を言いふらしたりする。湯治場にひとりで出かけてフィリピン人のコンピニオンなどを連夜呼んでは散財し、カネがなくなると孫夫婦に泣きついてくる。で、支払いがすむとまたケロッとして遊びに走る、という、いくらマンガでもこれはちょっと、という困り者のじいちゃんです。

 けれども、この作品世界でもこのじいちゃん、連載が進むにつれてどんどん光ってきます。マンガ業界用語で言う「キャラが立ってくる」わけです。それは単に極端な性格設定がされているというだけのことではなくて、そのようなキャラクターが作品世界の中でさえもまわりの登場人物たちからある意味認められ、しょうがないなあ、と言いながらもつきあわざるを得ないような存在になっている、だからこそなのだと思います。

 このじいちゃんから学べることは、たとえば「嫌われる」「いやがられる」ことの利点とでも言うべきものかも知れません。

 年寄りは子どもや孫、周囲に好かれよう、嫌われないようにしようとしがちでしょう。すると、どうしてもそれが重荷になってしまう。「イエ」制度が崩れた今、老人が老人であるというだけで家族の尊敬を勝ち取ることは容易ではないと考えた方がいいでしょう。

 であるならば、いっそのこと嫌われてもいい、と開き直ってみたらどうか。尊敬されなくてもいいと割り切って、ありがちな分別は一旦捨てて好き勝手に生きてみたら、意外に楽しい老後が待っているのではないか――いささか無責任に聞こえるかも知れませんが、そういう仕掛けを自身に敢えてしてみることで開けてくる自由というのも、いまどきの老いにはあると思います。

 もうひとり、マンガで忘れ難い老人は、はるき悦巳の人気漫画『じゃりん子チエ』に出てくる花井拳骨というキャラクターです。

f:id:king-biscuit:20210806210049j:plain

 花井拳骨は主人公チエちゃんのろくでなしオヤジであるテツ、さらにはその嫁のヨシエさんの小学校時代の担任でもあります。病弱な妻と死に別れ、やはり今は同じ西荻小学校の教師をしている息子と二人暮しをしている。インテリではあるが街の不良老人で、乱暴者のテツの仲人をしたり、いろいろと街の人たちの面倒をみているいう役どころです。

 ところが、ある時、花井拳骨が実は偉い人間だったことがわかる。李白の研究で毎朝出版文化賞を受賞し、母校で受賞記念講演を行うことになるのですが、ここでこの花井センセイは、どうやら京都大学とおぼしき一流大学を首席で卒業、当時の李白研究の第一人者だった横縞教授の下で李白の研究を続け、横縞教授の名著『李白大論』もほとんど花井センセイの手によるものだった、という傑物ぶりが明らかになる。ところが、どういういきさつがあったのか、花井拳骨は横縞教授をフルチンにしてポプラの木に吊るすという伝説の事件を引き起こし、大学から去ったということまでわかってきます。

f:id:king-biscuit:20210806210128j:plain

 以来四〇年、一度も母校に立ち寄ったことはなかった彼が、この受賞記念の講演会を受けた理由というのは、この自分がかつて捨てた世界に今いる世界のテツやチエという、いわば全く文化の異なる存在を連れていくことで、これまでの自分の人生にひとつの落とし前をつけようとした、その点にあったらしい。彼は大学時代、相撲部に所属し、学生横綱になったこともあったほどの力自慢で、そのへんもいわゆるインテリのキャラクターとは違うのですが、型通りの講演も何とかこなした後、なぜ自分たちを連れてきたのか、とテツやチエに聞かれる場面で、花井センセイは屋根が朽ちかけた土俵を前に、こう言います。

「ワシ 訳あってな 二度と この学校には 来るまいと 思とったんや」
「そやから 講演 頼まれた時も 断ったんや」
「そやけど その時 相撲部が つぶれたゆう 話 聞いてな」
「この土俵も とり壊す ゆうんや」
「ほんなら ワシ 無性に ここが 懐かし なってな」
「講演会 みたいなもん 引き受けて しもたんや」
「ワシ ここで・・・ ここで どおしても もおいっぺん 相撲をとって みたかったんや」
「それで テツ 連れて 来たちゅう わけや」

 この後、花井拳骨はテツを誘って土俵で相撲を取ります。しかし、いつしかプロレスの技の掛け合いに発展し、いつものドタバタになってしまう。そして、チエの「あの オッちゃん ホンマに 偉いんやろか」というつぶやきで幕、というあんばいです。

 それこそ、勝新太郎の名演で知られた映画『兵隊やくざ』(これも原作は、有馬頼義の『喜三郎一代』という小説でしたが)での、田村高広演じる上等兵のような、あるいはさらにさかのぼれぱ『天保水滸伝』の平手造酒のような、落魄したインテリキャラの系譜に連なる何とも味わい深いキャラクターなわけですが、しかし、思えばインテリ老人に対する周囲からのこういう認められ方も、これからは結構普遍的なものになっていくような気がします。なぜなら、誰もがある程度高学歴になり、かつてのインテリ的心性というものを共有するようになったのが「豊かさ」の果実だとしたら、型通りのインテリ的な老いだけでなく、このような場違いなところに活路を見い出していった物語世界でのこれらのキャラクターから、学べるところは少なくないはずです。

 単に学歴が高い、知識がある、ということではなくて、自分の生きてきた場、いわばフィールドで得た知識とか経験とかを、自分のフィールド以外の人間に惜しみなく与えることによって尊敬してもらえるような機会はあっていいし、もっとあるべきだと思うのです。

 人は皆、何か他人より秀でたものを持っています。これは何もありがちな戦後民主主義的な意味ではなくて、秀でたものを発見し、そしてそれによって自分もまた秀でたものになってゆける、そんな相互性の内に生きているという意味において、です。

 花井拳骨ほど強烈ではないにしても、そういう「秀でたもの」を自ら発見しようとし、そこに依拠しながらキャラクターを前面に出せば、おそらく誰でも、まわりから一目置かれる老人になれるのではないか――あたしはそう思います。老いてこそ光芒を放つ言葉本来の意味での「個性」、自分にしかないキャラクターに、これまでのありきたりな「老人」イメージによって埃を被せておかずに、それらを敢えて取り払って輝かせようとするこそ、それが重要なのだと思います。


○●●●不良老人のすすめ

 実在の人物、物語世界上の架空の人物を問わず、ランダムに六つの事例を挙げて、独り身の老いについて考えてみました。

 無法松のように、文字通り無法者として生きてきた人は、老いたからといって「イエ」の幻想にそのまま囚われるのは決して得策ではない。老いてもなお、それまでのように不良老人を貫き通すことの方が、どうやら幸せな老後を迎える近道のように思えます。これまで達成してきた「豊かさ」によって、そこに生きる我々の生の選択肢が多様化しているはずの現在、しかし、逆にその多様さに耐えられずに何かよすがを求めてしまう、そのことによってかえってこれまでの物語にすりよってしまう方向への強制が強まっているように感じるからこそ、これまでの自分の生がどのようなものであったのかについて、自ら財産目録を作ってその作風を点検しておくことが必要なのではないでしょうか。

 一方、家族に囲まれ、あるいは妻と二人で老後を送るケースでも、これからの時代は自らの独り身としてのあり方を見直しておかないと、悔いの残る老後を送ることになりかねないと思います。 人生の最後に、厭な思いをして生きるぐらいなら、人に嫌われても構わないと覚悟を決めて、好き勝手に生きてみたらどうでしょう。

 このように不良老人を勧めてみるのは、何もあたしの趣味嗜好からだけではありません。不良と呼ばれてきたような「それ以外」、まさに例外的な生こそが、今の「豊かさ」の中で多様化している我々の生にとって織り込むべき内実をはらんでいるかも知れない。まして、老いという生の最後のステージにおいてこそ、そのような内実は最も切実な処方箋として作用できるものかも知れない。そこで、自分しかなり得ないキャラクターを屹立できたとき、案外すんなりと豊かな老いが自分の手に入るのではないか――そんな想いが、自分自身はみ出し者として民俗学者をやってきたあたしの中には強くあるからです。

*1:和田秀樹氏との対談というか対論形式の単行本。講談社のノンフィクション系辣腕編集者だった某氏肝煎りの企画だったはず。