成田空港、あるいは海外旅行

 海外旅行、という言葉が輝かしかったのは、はて、いつ頃までだったでしょうか。

 昨今、そういう記憶自体がもうあやしくなっちまってますが、でも、一生に一度くらいは海外旅行に、という願いがほとんどの日本人にとって当たり前だった時代というのも、今みたいな「豊かさ」がこの列島に遍く行き渡るようになるまでには、確かにありました。

 そんな時代、空港というのもある特別な想いと共に語られる場所でした。実際にそのような旅に出る時に赴く人などまず例外の少数派、飛行機に乗った、というだけでもひとつ話になるような頃、見送るべき人など何もなくても、人は遠い「外国」へと飛び立つ旅客機を、ただ眺めにゆくことさえあった。今でもたいていの空港に送迎デッキという名前の展望台がしつらえられてるのは、そういう見送りのためだけでなく、何となく飛行機を眺めに来る人たちがいた頃の名残りであります。

 それは、ゆるやかな歴史をたどってみるならば、波止場にたたずみ外国航路の客船を眺めていた若い衆や、通りすぎる夜行列車の灯りに線路際で見入っていた少年などとも、ココロのありようにおいてどこかで連なっているはずです。ここではないどこか、へ向かってゆくココロと、それを駆り立て、共に乗せてゆくかのように見える乗り物たち。かつて、旅というのが日々の暮らしと違う世界に生きる、その意味では死ぬこととも隣り合わせな営みだった頃と、今のあたしたちのように日常をそのままなめらかに延長してゆくような旅行との間には、このような距離と時間を一気に埋めてゆくメディアとしての乗り物の介在があり、そしてその乗り物によって刺激され、拡張され、加速されていった心の変化が横たわっている、と。旅を抵抗なく受容する心の拡散と偏在。ここではないどこか、への憧れや渇望が日々の中、知らぬ間に仕込まれるようになってゆき、あたしたちのココロをうっかりと夢見がちにしていったのも、大きくはそういうからくりによるものであります。

 思えば、一世一代の満艦飾で盛装し、親戚一同から隣近所にまで見送られ、うらやましがられての海外旅行、てな大層なノリは、海外渡航自由化から一時期、ニッポン観光客の典型として悪評さくさくだった「ノーキョー」的団体旅行はともかく、その後の旅行代理店の大躍進に寄与した至れり尽くせりのパックツアーにおいてさえも、どうやら影が薄くなってきました。それはまあ、ここ三十年近くかかって現実化されていった「強い円」による恩恵、海外旅行の価格崩壊によるものなわけですが、いまどきの海外旅行は「今すぐとにかくどこかに行きたいな/どこかで格安チケット手に入れて/バッグに水着とTシャツつめこんで/パスポートととにかくビデオは忘れずに」(Puffy“V・A・C・A・T・I・O・N”)てなわけで、思い立ったが吉日、身軽に海の向こうへ飛び出してゆくくらい、身近で気軽なものになっています。少なくとも三十代から下、自明となった「豊かさ」の中で生まれ育った世代にとっては。


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 それに伴って、飛行機に乗ること自体についての緊張感もどんどんなくなっていってますな。あ、いや、もちろんこの九月のニューヨークでの例のテロこのかた、国際線に関しての状況はひとまず一変しちまいましたけれども、それでも、国内線を始めとして飛行機に乗るということの意味まで一変したわけでもない。バスや電車に乗るように飛行機に乗ることが当たり前になり、いきおい空港の意味も変わってきました。実際、先に触れた「見送り」なんてのは、もうよほどのことでもない限り見られなくなっている習慣です。これって以前は空港はもちろん、新幹線のホームでさえも、別にそう珍しくもなく見られた光景なんですが、昨今は転勤や新婚旅行でもそんな見送りはみっともないという感覚の方が先立つようで、過密なダイヤやフライトスケジュールのもたらした移動の常態化は、日常から旅へと身もココロも切り替える節目の場所としての空港のありようも変えています。

 海外旅行に行くぞ、という気合いの入った満艦飾の盛装が空港から後退して、代わりに台頭したのが、何と言えばいいのか、ひとまずニッポン的カジュアルとでも言うべき装いです。トレーナーやTシャツにソフト系ジーンズやチノパンなどを合わせて、足もとも動きやすいウォーキングシューズ系が定番。そして機内持ち込みはセカンドバッグか小さなショルダー程度のものに納めた、まあいずれごくラフな軽装の類。あ、一時期からはこれにウエストポーチもお約束になりましたし、寒めの季節ならば今や新たな人民服の様相も呈している、かのフリース素材のアウターなども。持ってゆくスーツケースも無骨なものより軽い、カラフルなものになり、いかにも「アタシ、旅慣れてるの」的に航空会社や海外のホテルのタグやステッカーをベタベタ貼って見せびらかす、そんな恥ずかしい物件も今では稀になりました。そういう意味で、お盆や年末年始に「海外脱出」でごったがえす成田空港のたたずまいは、さしずめそんなニッポン的カジュアルの展示場、とりたてて海外旅行への出発点などと肩肘張らずとも、ちょっとしたドライブやお出かけと変わらない、どこにでもある日常がのべたらに広がっただけの場所になっています。

 飛行機に乗ることも、乗って海の向こうに出かけることも、少なくとも外面的にはかつてのように儀式めいた大層な手続きや約束ごとを踏む必要はなくなった。なくなる程度に「豊かさ」はそんな「旅」体験の平準化をもたらしてくれた、と。

 それはおそらく、バブル期前後に一気にもてはやされたあの「リゾート」というすわりの悪いカタカナのもの言いにどうしても内実が伴わず、いや、もっと手前では「レジャー」もどこかビンボ臭く、「週末」という感覚もいまひとつピンとこないままであることなどともどこかで関連してくる、「豊かさ」に浸されてからこっちの、われらニッポン人の暮らし全体の傾きに連動したもののはずです。

 とは言え、それでもかつてのような「海外旅行」の満艦飾、常ならぬ旅への畏れやおののきが、きれいさっぱり死滅しちまったというわけでもないらしい。

 たとえば、海外旅行用品の店、というのがありますよね。各種スーツケースからポーチ、ACコンバーターに携帯枕、果ては乾燥味噌汁に至るまでが取り揃えられているわけですが、考えたらあれって結構不思議な店構えじゃありません? 

 だって、あそこで売られているグッズって、普段の暮らしじゃあまり役に立たないものが多いじゃないですか。多くは一回限り、海外旅行に限って使われてそれっきり、と。第一、同じポーチならポーチでも、いまどきディスカウントショップにでも行けばもっと安く手に入るような代物なのに、ああいう店で海外旅行を前提にあのテの「もの」を買う、という行為だけが何か儀式のように残っている、そんな感じじゃありませんか。あそこにだけ、何となくまだかつてのお祭り的な「海外旅行」感覚が残ってるんだなあ、と。ほれ、縁日の露店でくだらないものを高い値段でつい買ってしまう、みたいな。そしてそれは、ハワイと言えばマカデミアナッツチョコ、カナダだとメイプルクッキー、香港だと……え〜と何になるっけか、とにかくそういう土産物の定番をつい買ってきてしまうことともどこか似ているなあ、と。

 そう、消費というほど大げさでなく、まあ、ちょっとした浪費、ムダ金使ってみせることが、いまどきのニッポン人にっては、常ならぬ旅の体験を一番手軽に思い起こさせてくれるってことらしい。そう言えば、免税店って成田空港での売り上げが結構バカにならない、って話、ありましたっけねえ。