クリスマスのかたち

 

 年越したハナシで申し訳ない。あの、クリスマスの前に何だか知らないけど、おのれの家のまわりをやたらめったら飾りたてるのって、これまで以上にはびこってません?

 関西方面がどうなってるのか、いまひとつわからないんで首都圏ローカルな現象だったらすまぬ、なのでありますが、一戸建てだと玄関まわり、マンションその他の集合住宅だとベランダや出窓なんぞがしつらえてある周辺を、電飾張りめぐらせたりクリスマスツリー置いてみたり、どうかすると内側に電球仕込んだ行灯状のサンタクロースだのを立ててみたりと、それはそれはもう、いったい何が起こったんだこりゃあ、状態。そこらの商売家でもやらないくらいの恥知らずなゴテゴテベタベタを、何でもない民家が得意気にやらかしてる、と。ありゃいったいどういうココロのからくりに支えられてのありさまなんでありましょうか。

 思い起こせばこの現象、五、六年ほど前からちらほらと見かけるようにはなっていました。最初は一戸建てよりも、やっぱりマンション系からだったように記憶しますな。先にも言ったベランダとか出窓とか、不特定多数の視線をうっかり集める仕掛けがあって、なおかつそれが二階とか三階くらいの高さにある、そんな世帯から感染していったように思います。高層マンションの十五階でやったって、そりゃあまり意味ないわけで、ふだんの暮らしの場がうっかりと不特定多数の眼にさらされている、という自意識が、クリスマスという引き金でこういう現れ方をしてしまった、ということなんでしょう。 

 アルミサッシの普及が家屋の密閉度を増し、それはエアコンの普及と比例していたのでありますが、それによって本来ほこりの多かったニッポンの生活環境に新たにハウスダストだのダニだのという代物までが意識されるようになった。昔の日本家屋みたいに風通しのいい造りならば開けっ放してほこりを外へかきだす、という処理の仕方が基本だったのが、それらを全部閉じ込めて循環させて、なおかつ温度や湿度までコントロールして、となると、そりゃもう室内は雑菌その他の培養基状態になりそうなのは、あたしみたいな理系オンチでも容易に想像はつきます。

 で、そんな環境の変化と裏腹に、住むニンゲンたちのココロの方はどんどんしまりが悪くなってった。水道・電気などのライフライン系インフラからさらに進んで、テレビだ電話だファックスだ、果てはインターネットだ常時接続だ、となってくると、閉じた部屋にいながらココロだけは逆にうっかりどんどん開かれていっちまう。物理的には閉鎖した環境にいながらココロだけはゆるみっ放し、というのが、いまどきのニッポン人が最も快適と感じる身のありようなのかも知れませんな。

 だから、ベランダだのテラスだの出窓だのが求められる。で、そこは小物その他で飾りたてられるべきショウウィンドウになっている。外からは見えなくて――いや、正確に言えば自分の見せたいような見せ方だけをできるようになっていて、でも内側からはよく見える、という、そんな仕掛けへ傾いてゆくのは、クルマのウィンドゥに貼る目隠しフィルムの普及が最初の兆候だったように思いますが、それは今や家屋まわりにまで進展する事態になっています。プライバシーだの何だのと、都合のいいようにおのれの自意識を守るための物言いが社会的にはどんどん肥大していて、なのに、おのれの都合のいいような目立ち方だけはきっちりしたい、という横着きわまりないココロもまたそれに比例してふくれあがる、そんな難儀な貼り合わせが今やデフォルトになっております。

 クリスマスはダシに過ぎない。クリスマスをこうやって祝う、それも「まわりのみんなと」――この気分が重要なわけですが、いずれにしてもクリスマスをそうやってうれしがっちまうくらいの「家族」(これも重要。だって、ひとりもんがあんな飾りつけやってたらまずあやしまれます)なんですよ、うちらは、ということをことさらに表現したい、押しつけたい、まわりにわかってもらいたい、という何ともうっとういう自意識が、あのキラキラピカピカの花電車家屋にはこってりとなすりつけられている、と。だから、あれら電飾その他を全部ぶっこわしちまいたい衝動にかられるんですなあ、あたしなんぞは。

 正月の門松や、盆の盆棚なんぞにはそんな破壊衝動は感じない。それは嘘でも伝統行事だから、とかそういうことでもないと思います。何というか、それ自体はあまり意識しないで「そういうものだから」でできるようになってるくらいに形式化してしまった「かたち」になっている、そのことが重要なんだと思いますね。「文化」とか「伝統」とかって物言いも、そういう「かたち」を介してしかモノにならない。もとはと言えば、水商売方面のイベントから始まったニッポンのクリスマスですが、そういう意味の「かたち」にはどうもまだなりきれていないようであります。