「書評」はいまどきタイヘンなのです

 書評とそのまわりのあれこれを、それらを成り立たせている仕組み(ここが実は重要)も含めてこれだけ好き勝手に書いていると当然、あたし自身に書評の仕事が舞い込む、ということもなくなってきます。あたし個人の営業的には笑いごっちゃないんですが、でも、引いて考えてみたら、それもまた必然なのかもなあ、と思ったりします。

 ふつう、工業製品としての商品の場合、「批評」があるとしたら、それはまず消費者の選択であり、市場の評価であります。仮に評論家というのがいても、洗濯機評論家、電子レンジ評論家、なんてのはまず成り立たないし、野菜や魚なんかだと、こりゃもう「批評」なんて冗談でしかないですしねえ。キャベツ評論家、カイワレ評論家、サバ評論家、ホタテ貝評論家……なんてそれぞれいたらおもしろいとは思いますけど、そんな必要を消費者=「お客さん」は感じていないわけですから。

 そういう意味で「書評」――つまり、本という商品についての「批評」というのは、むしろ例外、敢えて言えばけったいなものかも、と思ったりするのでありますよ。これといくらか近いのは、自動車やパソコン、CDなどの商品音楽などなど、いずれ「こだわり」と称する部分に頼る自意識商品の類でしょうが、これらはもう生産企業とその流通によって成り立つ「業界」におんぶにだっこ、良くも悪くもいわゆる「批評」なんぞまず成り立たないのは周知の事実。とすれば、本の「批評」である書評だって、今や生産者=版元と流通によって囲い込まれてたって何も不思議はない。書き手の才能もヘチマもあるもんかい、中味はパーでもちょっとキレイな装丁にして、宣伝費用をかけて、アホな評論家をまるめこんで提灯つけてもらい、場合によっちゃ雑誌その他とタイアップもして露出をガンガンやってけば、そこそこ売れるブツはこさえられる。っていうか、そういうやり方を開き直ってやってかないと、これから先、本なんてもう商品として生き残れないぞ――どうやらそんなことを考えているのが、いまどきの出版まわりの「プロ」のようであります。

 なるほど、本はますます売れなくなっています。そんなもの、別に今始まったこっちゃない。ただ、その「売れない」ということの中味が、これまでとはどうやら全く違ったものになってきているらしい。そんな状況でなお、本当の意味での「批評」が成り立つのだとしたら、個々の本だけを取り上げてあれこれ能書き垂れるのでなく、その本と本を取り巻くそういう商売の構造――「プロ」の思惑ややり口なども含めて、立体的にまな板に乗せて行く、そんな視点と脚力、腕力を持った書き手によってだけだろう、と、あたしゃ思っています。というわけで「書評」って今、結構タイヘンなんですから、もう。