「若さ」で世の中は変わらない

 政治もまた芸能である、というのは、あたしの持論であること、それは前回も申し上げました。

 例の鈴木ムネヲの「馬一頭」の美談にしても、そういう芸能の脈絡で見たらそれなりの背景とか文脈がある。あるんだけれども、ただ、それをきちんと評価する観客も、また何よりもご本人自身がそれをうまく演じきるだけの器量に欠けている、言い換えれば「オヤジ」芸をきっちりやってのけるだけの「オヤジ」ぶりに確信が持てていない、それが哀しいところであり、〈いま・ここ〉の政治としては決定的にダメなところである、と。まあ、そういうことをこの間は言わせていただいたような次第なんですが、あれからわずか一カ月で、今度はまたとんでもなくトホホな物件が政治がらみで飛び出してきてくれちまいました。ええ、そう、言わずもがな、あの辻元清美のバカであります。

 衆院予算委員会でのムネヲの証人喚問で、「疑惑の総合商社」などの三文コピーを振りかざし、ここぞとばかりのええかっこしいぶりで目立っていた社民党ホープ(ということにいつしかなってたようです、よくわからんけど)が、今度はあっという間に攻守ところを変えて糾弾される側にまわってしまったばかりか、ムネヲ以上に情けない見世物になった、依拠する立場や思想の違いとはひとまず別に、そのこと自体、きちんと考えるべきことだと思うのでありますよ。

 ざっくり言ってしまえば、「オンナ」であること、「若い」ということ、「シロウト」であるということ、それらが彼女の武器でありました。それらを武器にして、そして既成の政治に対して威勢よく噛みついてみせていた、だからこそテレビや雑誌や、いわゆる「マスコミ」もまた、彼女をことさらに取り上げてネタにし続けていた。その向う側にあったのは、その既成の政治というやつがとことんオモシロくないものであり、かったるいものであり、どうやっても風穴のあけようのないものである、というあきらめに立った、おおかたのニッポン人のいまどきの政治認識です。で、ひとことで言うならば、それってつまりは「オヤジ」である、と。

 「オヤジ」的なるもの、に対するこのような「若さ」を対置して何か価値の変革をめざす、というのは、あたしたちの「戦後」にからみついた根深い神話のひとつです。「若者」が「未来」を担う、ということに過剰に、それこそかつて敗戦で自信をなくした大人たちのうしろめたさの裏返しとして必要以上に強調し、わけもなく若い衆をつけあがらせて道に迷わせてきたのが「戦後」という時代でありました。「オヤジ」と「若者」とはその程度に相互補完的なのです。あのムネヲの政治が芸としてどうしようもなく「オヤジ」の内側にあったのと同じように、辻元の政治というやつ(そんなものがあったとしたら、ですが)もまた、芸としてそのような「オヤジ」との関係でしか成り立たない、その意味でズブスブに「戦後」に縛られた「若さ」ぶりっこ、でしかなかったということです。

 もう40代になったけったいな中年オンナがそんな「若さ」ぶりっこを武器に、国政の場でそこそこ暴れられてしまっていたことのグロテスクさ自体、それらを増幅させたいまどきのメディアがそういう「若さ」を属性として持っていたからこそのシンクロニシティの結果だったと言えるのですが、それとは別に、「野党」であり「変革」を担うという立場が、未だにそういう陳腐な「若さ」しか武器にしきれなくなっている貧しさも、正しく恥とするべきでしょう。辻元ひとりだけでない、「オンナ」」で「若い」で「シロウト」であることしか武器にできなくなった「野党」社民党ありさまこそが、これだけ状況が変わっているのにも関わらず、やはり「オヤジ」でしか政治を演じられなくなっている自民党のていたらくと裏表、どちらも「戦後」のパラダイムにがんじがらめになっているという意味で、その芸としてのダメさ加減というのは全く同じ。今、本当に問われるべきは、そういう図式の内側でしか政治を語れず、演じることもできない、その情けなさのはずなんですけど。

 「オヤジ」と「若さ」、陳腐に見える「古さ」にたてつく「元気な若者」――そんなものだけで世の中がほんとに変われるのならば、とっくにニッポンは変わってますって。「もっと国会で質問したかった」――議員辞職の記者会見で、辻元はそう言いましたが、結局こいつにとっては、テレビカメラの前で「オヤジ」に食ってかかってみせることだけが、政治だったんですよねえ。