「新・教養主義」の昂揚ぶり

 街をぶらぶらしていて、見つけた古本屋にふらっと入るのが楽しみ、でした。

 でした、と、過去形にしたのには、少しばかりワケがあります。

 大学を辞めてこのかた、不見転で古本をうっかり買い込んでしまうような財布の余裕がなくなったことがひとつ。もうひとつ、こっちが本質的だと思うのですが、ちょっと前まであたしなどがなじんできたような古本屋そのものがもう、その姿を消しつつある、という理由からです。

 それは、古本を一律にひと山いくら、目方で取引する「故紙」としての価値観がほぼ全面的に浸透してしまったことの、ひとつの現われではあります。そして同時にそれは、これまで古本一冊一冊の価値を決めていた、その本の「質」を「評価」するものさし――言い換えれば「教養」という枠組みが今、最終的に崩壊しつつあることの現われ、でもあります。

 具体的には、「文学」や「思想」と言われてきたような分野――わかりやすく言えば「文科系」の、それもどちらかというと「人文科学」系統のものが、あれっ、と思うくらいに値段が安くなっています。学生時代から培ってきたはずの古本の相場感覚の、そうだなあ、三割から四割、ヘタしたら半分くらいにまで値下がりしちまってる。値崩れしてますねえ、と、レジに陣取るオヤジ(ほとんどもうジイさんですが)にぼやいてみても、もうどうしようもないですねえ、と弱々しい答えが返ってくるばかり。いや、そりゃ欲しい古本が激安で手に入るようになったのは、今のこの無職渡世の身の上にはとてもありがたいんですが、少なくともあたしなんぞがこれくらいの価値があると思い、そしてそれが確かに相場でもあったような古本の値段が、明らかに値崩れしているということは、その「価値」のものさしである「教養」が値崩れしていることに他ならない。ぶっちゃけた話、そんな「教養」なんて、もう世間は必要としてないんだよ、ということを、ひと山いくらの論理の浸透し切ったいまどきの市場の側から、最終的に言い渡されている、ということであります。

 「文化」というのは、実にこういう具合に、ミもフタもない具体的な部分から、その姿を変えてゆくものののようです。そして、そういう情報環境の大変動期、文明史的規模での過渡期にあることをこのように実感できるのは、あたしのような四十代そこそこから三十代前半くらいまでの世代のようです。ここから上の世代は、未だにその「教養」に縛られたまま市場の外側で古色蒼然たるコトバを繰り返すだけ、逆にもっと下の世代はそんな「教養」の脈絡すら初手から知らないまま、電子メディアの手助けでうっかり拡大された能力任せにあらゆる「情報」をランダムに、考えなしに順列並べ替えするパズルワークを知的生産と勘違いしている。

 なのに、というか、だから、というか、あたしらの世代の中の、少なくともいくらかはましにものを考えられそうな連中に、この「教養」の復権を説く者が出てきています。浅羽通明も、山形浩生も、坪内祐三までもが、角度はそれぞれ違っても、つまりはこの「教養」の再構築をアジるようになっている。そのココロはあたしとてものすごくよくわかるのですが、しかし、それってやっぱり「教養」世代の優等生たちが優等生であることにあぐらをかいた高みからのもの言いとしか、もはや聞こえないんじゃないの?、というギモンも、同時にあたしにはあったりします。ひと山いくらでしか本の「質」を評価する必要がなくなり、それこそインターネットで等価にくくられた「情報」としてのみ解釈するのが当たり前の状況で呼吸している若い衆にとっちゃ、そんなもん、時代遅れのインテリオヤジのたわごとでしかない。

 彼ら優等生が優等生の身振りともの言いとで、どんなに精緻な理屈を繰り出して「教養」の必要を熱く力説しても、そんなものにうかうかと呼応するのは、逆に「教養」の初志から最も遠いプチ優等生ばかりという悲喜劇が関の山。古本屋がブックオフに対抗できる可能性はもはや限りなくゼロ、です。このように閉じたシアワセなムラの中で信心されていた「教養」が、実は役立たずだということが広くバレてしまった、それは時代の必然だとあたしは思いますし、いいことだったとさえ思います。脈絡抜きに獰猛に集積され、フラットに整序された厖大な「情報」に、かつての「教養」が担っていたようなオリエンテーションをどうやって与えるのか、そしてそれこそが実は「文科系」本来の役割だったことをどのようにわかってもらうのか――今みたいな情報環境だからこそ「教養」はこんなに「役に立つ」のだ、ということを身をもって、それぞれの生き方も含めてゆったりと示してゆくことしかないじゃないか、と、このところにわかに声の大きくなってきたように思える「新・教養主義」な同時代たちの昂揚ぶりをうかがいながら、あたしゃ買ってきた古本の値崩れした値札をじっと眺めています。