「論争」がなくなったワケ

*1

 最近、論争というのが表立ってなくなっちまって久しいですねえ。

 どうしてこの論争がなくなっちまったのか、以前、あたしゃ総括して説明したことがあります。はしょって言えば、そんなことやらかしたってトクにならない、ってことをみんな気づいちまったから、ってことなんですが、これをもう少していねいにほどいておけば、世渡り的には損得で考えるしかないしそんな損なことやってもしょうがない、でも、その分本音の部分、気に入らない奴をぶっ叩いてとにかくスッキリしたい、という欲望はどんどん鬱屈して蓄積してるから、そういうもののはけ口はなおのこと必要になってくる、と。

 だから、表立っての論争がなくなった分、裏口でのぼやきや非難中傷は広まっている、という構造が昨今、あるんですな。

 なにせ罵倒や煽り、ネタとしての悪口雑言ならば、活字の表舞台にはなくなっても、たとえばネットの世間じゃお約束。ネタと煽りはネットの華、てなもんで、誰が誰のことをどう言った、いや実はあいつはこういう奴で、てなハナシならば、虚偽入り乱れて日々大量に流通している。それは、表立っての論争がなくなった分、かつての論争にも正しく含まれていたはずの「スッキリしたい」欲望だけがビミョーに歪められつつ、まあ、まっとうに蜂起(この字ヅラ、好きだなあ)や暴動、騒乱などに至らず、そういう言わば公衆便所にだけ虚しく捨てられている、という感じであります。

 論理的に、とか、感情的にならずに、てな抑制のもの言いがネットに過剰に出回るのは、かつての論争の作法だけが形式的に化石化したものに過ぎない。論理的でなく、感情的でありたいからこそ、ネットのような表ならざる場で「スッキリしたい」欲望が爆発するわけで、それを化石化したもの言いで抑制しようとするのはむしろ逆効果、ってのは、少し前の「ネチケット」論争などを見ても明らか。いい子ぶりっこで優等生主義な大文字のマナーなんて代物は、本質的にこういう場にはなじまない、というか、正しく「反動的」なのであります。こういう認識を身をもって持つことこそ、メディア・リテラシーと言うんじゃないのかなあ。

 なんか、論理的でなきゃいけない、知識がないとツッコまれる、アタマが悪いと思われたら負けだ、てな意識が、論争の場で必要以上に持たれるようになったのは、おベンキョだけはできる、でもおベンキョだけしかできない偏差値世代以降がいまどきの情報環境のマジョリティになってきてこのかたって気がします。具体的には、そうだな、80年代半ば以降。それまでだって、どんなに大御所がからんだ論争でも論争である以上、必ず感情的な局面をはらんでいたものだし、「あいつ気に入らねえ」的なくだらぬ気分も含めてのものだったはずで、またそれを折り込んで論争を観客として楽しむ、という態度もある程度あったはずなんですが、なんかそういう共通の了解事項があやしくなっちまった。だから、しょうもない論理至上主義、知識ひけらかしを目的としたおたくのマラ比べ、しか活字の舞台に載らなくなった。思いっきり体重乗せた言葉ともの言いとで、「思想」を武器としてわたりあう、そしてそれを芸として楽しむ、という関係が、どうもいまどきの表の情報環境からは失われちまってます。雑誌がおもしろくない、というのも、ひとつにはこのへんが根深くからんでるはずで、で、先走って言えばそれって、広告代理店のゼニがメディアにこってりと還流するようになった結果の病理って気が、あたしゃします。

 てなことをずっと考えてきて、「コスプレ保守」なあんてもの言いもそういう脈絡で持ち出したりしてたんですが、最近、小谷野敦が『新潮』で同じようなこと言ってるのを見て、ああ、似たような感じ方する御仁はやっぱりいるんだな、と思った次第。福田和也をぶっ叩いてて(それはそれで正しい)、実は福田だけでなくこりゃ、いまどきのそういう情報環境とその中にデフォルトになっちまってる「政治」の構造についていらだっている、とあたしゃ読みましたな。で、その読みについてもほぼ異議なし、であります。まあ、小谷野自身は一匹オオカミならぬ一匹もの書きを信条としているサムライ(笑)だから、こういう援護射撃は迷惑だろうけど、でもまあ、ここは渡世の仁義ってやつで一発、エールを送っておきます。ほんと、いつまでもそういう「政治」で小ずるく世渡りしようなんて卑しい了見なんざ、お天道さまが許さねえ、でありますよ。

*1:bk1』(ネットメディア) 連載、掲載原稿