ナンシー関 追悼 for 週刊朝日

f:id:king-biscuit:20200603201450j:plain

*1

 彼女は、単なる「辛口コラムニスト」とか「ユニークなエッセイスト」じゃなかった、ということが、大方のメディアは最後までうまくわからないままだったようですね。広告業界とのつきあいもあったようだから、テレビやFM放送などでも言及されてましたが、やはりそういう通りいっぺんの理解でしかなかった。しょうがないんですけど。

 「80年代出自の価値相対主義思想の最も良質な部分が死んだ」と、あたしは敢えて言ってます。冗談でなく、彼女の死はそれくらいの、言わば思想的な事件だと思います。そのことの意味はこれから、あたしたちが腰すえて言葉にしてゆかねばならないでしょう。単に売れっ子雑誌コラムニストがいなくなった、なんてもんじゃない。少なくとも、四十代半ばから三十代いっぱいくらいの世代にとっては、それくらい大きな影響力を実はひそかに持っていた、そんな書き手だったんですから。世間の表層からはそれはなかなか見えにくかったかも知れませんけど、でも、いくつかの週刊誌などは彼女の連載で持っていたところもあるくらいで、それはわかる人にはよくわかることだと思いますよ。

 高度情報社会の中でうっかりと自意識をふくれあがらせたり、勘違い垂れ流しになってしまったり、といった物件について、彼女は敏感に反応していました。といって、ただの悪口ではなくて、言葉本来の意味での「批評」に昇華させてゆくスキルも十分に持っていた。テレビにかじりついているひきこもりのおたく、的なイメージがあるようですが、それはちょっと違うと思いますね。テレビはつけっぱなしに近かったようですけど、かじりついて凝視する、っていうのとは違ってたし。テレビの中に成り立っている場の空気や、それを成り立たせている関係のありようを瞬時に見抜いてしまうという、ある種良質の「演芸評論家」みたいなところがあった。かつての安藤鶴夫さんみたいなもんですね。だから、芸人さんたちのある部分には相当信頼されていたはずです、彼女の書いたものは。

 「こころにひとりのナンシーを」というのは、彼女との連載対談の単行本を文庫版にした時、あとがきがわりの対談の中であたしが言ったことなんですが、ほんとに誰もが心の中にナンシーをひとりずつ置いておけば、うっかりと舞い上がったり勘違いしたり、自分の足場を見失ってジタバタすることも少なくなると思います。メディアリテラシーなんて横文字の能書きを言うなら、ナンシーの書いたものをきっちり読み込んでみることからしか始まりませんよね。

 「消しゴム版画家」という肩書きを好んで使ってましたが、でも、あの版画だけで彼女の表現が成り立っていたわけじゃない。第一あれ、似顔絵としてはそんなに似てませんもの(笑)。自分でもそれは認めてたし。版画につけられる絶妙なキャプションとの関係で立ち上がる世界がまずひとつ、そこに彼女のあの文章がくっついてさらに立体的になる、と。そんなものを全部ひっくるめてナンシー関、だったんですから。

 ナンシーと最初に会ったのは、女性誌『クレア』の連載対談でした。中沢新一山田詠美の対談企画の後釜という、なんだかとんでもない場所で(笑)。岡崎京子ナンシー関、って、担当は言ってたんですよ。岡崎京子がNGで結局ナンシーになったんだけど、ナンシーそれまであたしのことなんかまるで知らなかったようで、その少し前に同じ『クレア』で似顔絵カット頼まれて彫っただけ、というお粗末。それが結局、結構人気企画になったんですから、編集者が偉かったんでしょうね。

 そんなわけで、足かけ4年間ほど、毎月必ず顔を合わしていた時期がありましたね。また、それが縁で、あれほどテレビに出ることを避けていた彼女を、当時あたしがキャスターやらせてもらっていたNHKの番組に引っ張り出したり、その他の場所でも対談などをやったりと、仕事の上でのつきあいも結構あった方だと思います。

 ナンシーさんってどういう人ですか? と、よく尋ねられてたんですが、「いいオトコですよ」と答えることにしてました(笑)。これ、かなりマジに、です。とにかくそういう「まっとう」な人、でしたね。兄貴っぷりというか、いい意味でのオヤジぶりというか、そういうところがありました。ある種の女性編集者に慕われまくってたのも、そのへんだと思います。

 テレビネタのコラム、ってのばかりが目立ってましたけど、『信仰の現場』なんてのはあたしは「大宅賞やれ」って文春に言って困らせたくらいの、いい現場ルポです。彼女を現場に引っ張り出した編集者が、これも偉かったと思いますね。テレビの前では視力20.0、って言ったのは確か高橋春男だったと思うけど、その視力というか、ものを見る力っていうのは、現実に対しても十分応用がきくものだったわけですよね。あたし的には正しく「民俗学者」の眼と視点を持った知性だったと思ってます。

 あと、最後にやっていた連載のひとつ、『通販生活』のあれもよかったなあ。メンタルマップじゃなくて、なんて言えばいいのか、つまりは、民衆的想像力におけるイメージ形成の検証、ってことなんですけど(苦笑)。あたしもよく実験台にされてましたよ。「大月さん、ウサギ描いてみてください」なんて。「結構正確ですね」とかほめられたりして。あれ、ほんとに正真正銘、民俗学者の仕事ですよ。

 あと、なんでもない小文がよかった。確か、『毎日小学生新聞』に書いた小文があるんですけど、あれ、絶品でしたね。「おとなってちゃんとしているもんだとわたしもずっと思っていたけど、自分がおとなになってわかったことは、おとなも実は案外ちゃんとしていない。だからみんな安心していい」みたいな話。あと、芸人ネタのショートショートともエッセイともつかないのも、味があって好きだったなあ。「小説書かないの?」なんて聞いたこともあるんですけど、「ああ、たまに言われることあるんですけど……でも、あたし小説ってよくわかんなくて」と苦笑してました。おそらく、小説がわからない、という以上に、小説も含めたブンガクみたいな世界そのものに対して、なんだかなあ、と思ってたはずです。

 電話をかけると「はい、関です」って、くぐもった声で出るんですよね。そりゃ確かに「関」だけど。何度かけてもそれ聞くと笑っちゃう。でも、「ナンシーです」って出られてもそれもまた困るんですけどね。

 あのほんとにグローブみたいな、分厚いクリームパンみたいなでっかい手が、すっごく器用に動くんですよ。あの消しゴム彫るのも彼女、ずっとカッターナイフだったでしょ。そのことは自慢だったみたいですよ。「これできるの、きっとあたしぐらいだと思いますよ、へっへっへ」と、珍しく自慢してましたもん。彫刻刀とかで彫るよりずっと難しいんだって。だから、弟子にしてください、なんてこと結構言われてたみたいですけど、結局人に教えるのはムリ、ってこともあって、冗談じゃないすよ、って言ってました。

 そのくせ、自分の「作品」については、ありがちなアーティスト的な愛着とかはあまりなかったみたいですね。最後の方は個展やったりして少し違ってきてたのかも知れないけど、でも、それより前は番組のためにこれまでの「作品」撮らせてもらおうとした時でも、引っ張り出してきたの見たら、なんか段ボールみたいなのに彫った消しゴムが山ほど詰まってるだけなんですよ。少しは整理したりしてないのか、って尋ねたら、だって偉そうなこと言ったってしょせん消しゴムじゃないすか、だって(笑)。そりゃ確かにそうなんだけど。まあ、そういうところはほんとに潔かったですね。

 これはみんな言うだろうけど、カラオケも絶品でしたね。特に、松田聖子!(笑) いやほんと、カンドーしましたよ、マジに。泣きましたもん、不覚にも。あたしは「浪速恋しぐれ」をデュエットで、という、今にして思えば超豪華でもったいない経験をさせていただいただけで満足してます。

 『クレア』の対談では毎回、カメラマンがついて結構ムチャなポーズとかつけさせられたんですが、ナンシーとからんでて、ちょっと身体に触れたりすると、彼女ほんとに照れくさそうにするんですよ。態度だけじゃなくて気配からしてそれが伝わってくる。まるで少し前の田舎の高校生みたいで、おかげでこっちもなぜか妙にドキドキしてたりしたんですから(笑)そういう意味でもほんとに常民、まっとうな日本のおねえちゃんであり、オバサンであり、そしてかつまたオヤジでもあったなあ、と。なんかよくわかんないでしょうけど、でも、それくらいにチャーミングだったってことですよ、ほんとに。

 目黒の高級マンション買ってから、仕事頼むついでに遊びに行ったことがあるんですけど、バブル期にとんでもない値段だったのを三分の一以下に下落したところで買ったっていう物件で、ほんとにドラマに出てくるような広いマンションに、気に入って買ったっていう輸入家具のでっかい赤いカウチがあって、でも、テレビはつけっぱなしにはしていても、ずっとかじりついてるわけじゃないってのは、ほんとでしたね。まめに中国茶なんか煎れてもらって二時間くらいかなあ、だべってたんですけど、そういう時の物腰ってほんとに田舎のおかあちゃんみたいでね(笑) 親戚にひとりいたらそこらのガキはみんなまっとうに育つだろう、って感じ。不思議でしたね。どうひいき目に見ても「おたく」系の見てくれとキャラクターなんだけど、そのことと「まっとう」が平然と両立してる。

 おそらくそれは、いろんなものに対する「前向きなあきらめ」が厳然とあったんだろう、と。彼女が彼女になったその第一歩のところから、そういう「あきらめ」が刷り込まれていて、その分、彼女は圧倒的に「まっとう」であることを獲得できたんだろう、と。そのバランスシートが彼女にとって幸せなものだったかそうでなかったかは、それこそ彼女自身が判断するべきことだったでしょうけど、でも、あたしたち同時代の人間にとっちゃ、ものすごくありがたいことだったと思いますね。

*1:電話取材、それもコメントを、というのは、原則的に断ることにしています。よほど気心の知れた、信頼できる記者や編集者が相手でない限り、コメント取材というやつ、相手の欲しい形、聞きたいようにしかつまんでもらえない、というのを、それまでに思い知っているからなのですが。だから、質問の内容だけをメイルかファックスでもらって、それに応える形でしゃべり言葉で草稿を出すことにしています。多めに書いておくから、そっちで適当に取捨選択していいから、ということで。まあ、質問項目もらえばどういうコメントほしがってるか見当はつきますから。このナンシーの追悼記事でも、このうちどれくらいがどう使われたのか、手もとに掲載誌も切り抜きも見当たらないので確認できないのだけれど、記録の意味で。