「ぼくのなつやすみ」の謎

 夏休み、であります。井戸で冷やしたスイカであたり一面のセミの声で灼けた麦わら帽子で背の高いヒマワリで縁側でイナカのバアちゃんで半ズボンでランニングシャツで線香花火で蚊とり線香で墓参り、であります。ほんまかなあ。

 ドラマであれ何であれ、夏休みというのはとにかくこういうもの、ということになっています。実際、最近ではゲームにまんま「ぼくのなつやすみ」なんてのがあって、結構売れているらしいし。

 でも、あたしゃ疑問なんですけど、こういうすでにお約束になっちまってる「夏休み」のイメージというのは、さて、どれだけ切実なものなんでありましょうか。

 これらのイメージの前提になっているのは、言うまでもなく「イナカ」であります。自分の親が生まれ育った土地で先祖の墓があって、という文字通りのイナカ=故郷、でなくても、ただ何となく都市じゃない、ふだん住んでいる場所と違う「地方」――そんな感じでとらえられているような「イナカ」。しかし、いまどきそんな都合よく絵に描いたような「イナカ」というのは、果たしてどこにあるんでしょうか。

 そりゃかつては、確かに「マチ」と違う「イナカ」というのがあり得ました。それは農業や漁業や、とにかくそういう一次生産に依拠した「ムラ」がまだ活きている場所と、そうでない都市部、というわかりやすい対比で語ることができたし、なにもそんな大文字のハナシをしなくとも一目瞭然、具体的な暮らしのありようからして「マチ」とはまるで違うものだった。水道はないわ、ガスはないわ、どうかしたら電気だってあやしかったりするイナカ――そんなのが平然と同じこのニッポンの中にあって、なおかつ自分の親なんてそんな中で育ってきたという具体的なつながりだって感じることができた、と。

 ジイちゃんバアちゃん、というのも、そういう「イナカ」と併せ技で存在していたからこそ特別なものでいられたわけで、でも今やそれがあなた、郵便貯金に代表される莫大な金融資産の大部分を留保している一番裕福な層だったりするわけでしょ。身体さえ元気なら、年に数回海外旅行しまくってるようなジイちゃんバアちゃんだって珍しくない。「マチに出て頑張っていまどきの暮らしをしている息子や娘」対「イナカで昔ながらの暮らしをしている親」という図式自体、もうかなりあやしくなってたりするわけですから。

 ここまで夏休みのイメージがあまり根拠なく蔓延しちまってるというのは、裏返せば、それだけあたしたちの暮らしがかつての「イナカ」のそれから、一律に遠いものになっちまってる、ってことなんじゃないですかねえ。あ、いや、何も「文明の毒のまわった都市生活者」てな新聞社説みたいなもの言いをしようってんじゃありませんて。そんなものは別に今始まったことでもないわけで、第一、毒だろうが何だろうがその中で生まれ育っちまってるんだからとりあえず受け入れるしかないだろうが、というのがあたしなんぞの一貫した立場ですが、昨今気になるのはこの「一律に」ってところがキモなんでありますよ。だって、ヘタしたら当の「イナカ」に住んでいるシトたちまでが、「マチ」であくせくしている連中と全く同じような夏休みを思ってたりするんですから。ハーブティーやら有機食品をウリにした国道沿いのどこか場違いな喫茶店や、突然現れる南欧風のペンション、意味なくだだっ広い駐車場と共にそびえ立つ巨大パチンコ店に不気味に明るい野中のコンビニ……いまどきの「イナカ」に必ずあるそんなものが正しく「夏休み」のイメージに繰り込まれるようになってゆく回路ってのは、もしかしたらもう初手から切断されちまってるのかも知れない、とか思います。

 そう言えば、先の「ぼくのなつやすみ」(「ぼくなつ」ってんだそうです、ああ、けったくそ悪い)の設定って、70年代半ばくらいなんですよねえ。え、なにそれ、昭和四十年代後半? ってことは高度経済成長なんて終わっちまった後、オイルショックでニッポン経済が一度えらいことになったあたりのこと? てなわけで、なんかもう、歴史とか時代とかが前後左右ごちゃまぜにされて「夏休み」イメージに突っ込まれてるなあ、と。まあ、イメージなんてそんなもの、なんでしょうけど、何にせよ今、こういう「なつかしさ」ってのがますます消費のプロモーションの中核に居座り始めているようであります。例の『プロジェクトX』からグリコの高度成長期フィギュアから、これまでなかったことにされてきた「戦後」の、それも「豊かさ」が具体的な形になり始めてからこっちの歴史を何かの手だてで回復したい、という想いが、いろんなところで消費と結びついて噴出しているなあ、と。それ自体は時代の必然だと思いつつ、でも、その「なつかしさ」ってのもここまで全国一律、それぞれの立場や出自背景までまるで無視したものであるはずもないだろうに、ってのも、あたしゃあるんですけどねえ。