中津競馬場・聞き書き ③

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●Tさん。61歳。

 もう、25,6年この仕事やってます。前の仕事はバスの運転手やってました。なりゆきで競馬場に入ってきたんです。競馬は好きでしたね。もともと、東京にいたんですよ。大井あたりで、よう競馬しよったです。田舎がこっちやから帰ってきたんです。あの頃は、競馬場も一番景気のいい頃で、仕事は一番よかった頃です。中津に来た頃が一番景気よかったですねえ。


●Yさん。75歳

 最後は畠中厩舎にいました。ウマヌシベットウがでけんようになって、厩務員として雇ってもらったんです。その前は伊藤厩舎におったんです。中村厩舎がいっときそれを引き継いだんですね、北海道から来て。都留さんは中尾厩舎です。ほんとは、福山の方にまだ三頭くらい(持ち馬が)いるですかね。

 もともとは、熊本の出です。うちはもう先祖からの競馬モンやから。ジイさんがこっちに競馬しに来よったからね。弟が向こうで調教師やりよったし。もともと家内が馬主の関係やってもんで、とにかくみんなで競馬しよったんですね。うちはもうバクリョウ(馬喰)、ジイさんがバクリョウで、競馬始まったらあちこち回ってた。そいでここにしまい座り込んだということです。また中津は、競馬の条件がよかつたんですねえ。そりゃあのんきなもんでした。よそはせわしいでしょ。賞金も当時は一番下でも、あれは確か26万か7万くらいあったですからねえ。

 あたしはだいたい自分のトラックで馬積んで、あちこち回りましたよ。ほとんど日本国中回ったですよ。多い時は二十頭くらいおったですね。調子いい時は一年間で表彰台相当あがったですもんねえ。まあ、家内の名前で持ってたから家内が上がるんですけどね(笑)。中津はそうやって十年くらい(ウマヌシベットウを)やってたら、調教師の資格がもらえたですね。試験が受けられるようになってたんです。

 競馬で行った先ですか? 春木も紀三井寺も、道営もいっぱいいきました。新潟が一番少なかったかな。

 四トン(トラック)で横積みで五頭積んでいったですよ。横積みの方が馬が暴れないんですよ。ああ、貨車積みもやりましたよ。八幡の駅があった頃はそこで積んだんです。水やらカイバやら一緒に積んで、馬と一緒に乗ってくんです。(中津から)荒尾まではかえって時間かかるからトラックで積むんです。そうしたらみんなが積んでくれえ、積んでくれえ、と頼みにくる。当時はまだトラックで馬輸送するのはわしと、佐賀の鍵坂さんというジイさんとふたりしかおらんかったはずですよ。あとは、熊本の油田さんかな。ほとんどが貨車積みやってた頃ですから。

 だから、馬も荒尾とここ(中津)とで、交代交代で持ってきよりましたよ。うちの弟がそのころ荒尾で調教師やりよったですから。熊本には山鹿にも競馬場がありました。あんな山奥ですからねえ、なくなったのも早かったんじゃないかな。四国も行きましたよ。肉馬をとりに行くんですよ。その時は、二トン車で二頭積みですね。今も、肉屋さんから電話がかかってきよりましたよ、馬取りに行ってくれ、言うて。こないだまでわたしのトラックが厩舎団地の外に置いてあったんですから。まあ、最後の方はわしらもトシとったけ、宇佐の人が専門でやってましたけど、事務所から言われて馬をあちこち運んでたんですよ。最後にもまだ、(自分で持っている馬が)八頭くらいおったですかね。でも、まあ、そのころは赤字になってましたけどね。この仕事、馬が扱えて、そして運転もできないとできないんですよ。どっちにしても素人じゃ扱えない。競馬さえしよりゃですね、そういう仕事もまだ十分あったんですがねえ。

 そりゃあ、昔の賞金の方が多かったですよ。オープンでは100万くらいありましたから。賞金安なってからはなんぼ使っても使っても赤字でしたから。わたしも、馬糧屋さんにまだ二百万くらい未払いがありました。

 儲かった時は(持ち馬を)25頭くらい持ってましたね。愛馬クラブみたいな形で。そう、外厩時代ですね。厩舎団地に入ってからも13頭くらいいましたかね。回転早くして競馬使うんです。で、自分で馬運車持ってますから自分で運ぶ。競馬場ではレース見て、気に入った馬がいたら買うんです。やっぱり失敗もありますけど、でも、100万の馬が800万になったりもした。中央下がりがやっぱりよう走りましたね。栗東トレセン)に知り合いがおって、やっぱり厩務員さんがバクリョウやったりするんですが、馬動かす時にはその人に許可とらないと動かせなかったんですよ。そういう株みたいになってたんですね、この仕事は。今は坊主に譲ってそっちが福山を本拠地にして新たにやりよりますけどね。

 何年か前からウマヌシベットウがでけんようになって、わたしも一年か二年自重してたんですよ。その時しょうがなくて出した(移籍させた)馬が、山形(上山競馬場)に行ってずいぶん稼いだりしたんですよ。勝ちっぱなしで、名古屋のオープンを四戦して、荒尾に戻っても勝ってね。オギトップオーというんですがね。矢野厩舎で、3歳で六回使うて四つ勝ったですよ。佐賀に持ってこうと思ったら一万円賞金足らんかったんで、(上山に)買い手がついたんですね。中央下がりでしたよ。中央で一回使ってタイムオーバー食らった馬だったですよ。値段は、確か百万くらいやったと思います。石川が乗って、こりゃ能検はまだ受けないがええ、と言うてね。山形あたり行くバクリョウさんたちは、吉田さん、どこであんな馬安うに買うてきた、と言うてね。荒尾は、こっちに持ってこい持ってこい、言うたんですけど。その他、矢野が乗ってたガーネットローマンとか、強かったよ。ほんとにねえ、競馬さえありよりゃ、まだ何とかなってたんですけどねえ。

 仕事探しにシルバー人材センター行ったですけど、月に三回か四回しか(求人が)ないちゅう。そんなの待っとってもしょうがないですからね。競馬あったらまだ何とでもなったという気はありますね。馬やってりゃ身体動かしますしね。他の病気はしたことないな。
 他の競馬場ですか? そりゃもう、わたしらの年になると、雇い手がないから入れないでしょ。佐賀でも荒尾でも雇うてくれるちゅうなら行きたいですよね。とにかく、(廃止が)唐突やったですけねえ、ほんまにめちゃくちゃです。一年なと二年なと言われて、その間に準備がでけたらよかったんですけどねえ。

*1:『中津競馬物語』取材メモより