追悼・青木雄二という身体

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 青木雄二について述べる。

 最初に会ったのは、雑誌のインタヴューだった。今は亡き『マルコポーロ』の企画。当時すでに『ナニワ金融道』が大ブレイク、あの型破りの絵とおはなしとで、小うるさい能書き並べるマンガ読みはもちろんのこと、使い捨て読みっぱなしの消費財としてだけマンガとつきあういまどきの大方の読者たちも、「あれはおもしろいよ」と太鼓判を押し始めていた頃とおぼしめせ。

 インタヴューに応じるのはこれが初めて、ということだった。もちろん、今を盛りの売り出し中の描き手のこと、それまでも目論んだ雑誌はあったらしいが、いずれもなぜか失敗。編集部のガードが堅い、とか、いや、当人があまりにハチャメチャで人前に出せないらしい、とか、それなりの「噂」もすでに耳に入ってきていた。

 おもしれえ、だったらうちが一発一番槍を、と腕まくりするようなバカな編集者を飼っていたのが、当時、まだ持ち前のイケイケで何とかなっていた頃の花田紀凱マルコポーロ』のエラいところ。Kという、生物的にはオンナでも中味はオヤジ丸出しな名物編集がどこをどう工面したのか、敷居の高さも何のその、OKの返事をとりつけてきていた。

 大阪で、ということだったので、担当のKやカメラマン共々ノコノコ出かけた。型通りに小ぎれいなシティホテルの一室、猛獣の飼い主よろしく講談社青木雄二担当編集者(実は、彼あっての青木雄二であり、『ナニ金』であったことをこの時、あたしたちははっきり思い知るのだが)ががっちりガードする形で、青木御大、おもむろに姿を現わした。思ったよりも腰は低かった。緊張してもいたのだろう、生い立ちから始まるこちらの問いかけにも、律儀にちゃんと答えようとしてくれた。まあ、当時はあたしもまだ大学のセンセイという肩書きがありましたから、そのへんで御大、余計にしゃっちょこばっていたのだろう。

 ひと通りインタヴューが終わり、注文のつくカメラマンの撮影も無事やりすごし、上着をひっかけた彼の口から、「じゃあ、ちょっと一杯いきましょか」というセリフがごく自然に出た。ええ、おつきあいしますよ、ということで外に出た、その瞬間に身のこなしが変わった。それまでどこかお行儀よしを演じていたのが、一瞬にして崩れた。大阪はキタの雑踏、黄昏どきの淡い紫色した街並みを、まるで釣られたサカナが再び水に放たれたように、ひょいひょいひょい、とかきわけかきわけ泳いでゆく後ろ姿は、いやもう、まごうかたなく『ナニ金』の登場人物、あの桑田そのものだった。

 行きつけだというキタのクラブで、店の中でも一番目立つボックスにどっかとおみこし据えた御大は、両脇におねえちゃんを抱きかかえ、今度はあの肉欲棒太郎のような身振りでひたすら彼なりの「接待」をやらかしてくれた。必要以上に両足を大きく広げ、油断なく眼を光らせて、その場のあらゆる会話に少しばかり過剰な反応を必ずつけてゆくことで「ここはオレの仕切っている場なんだ」ということをそこに居合わせた者にきっちり思い知らせてゆく、そんな小心さ、繊細さを裏返しにある種の政治に転化してゆく、関西に根づいたあのやり口で、青木雄二青木雄二であることを徹底的にあたしたちに思い知らせようとした。しつらえられた席でのインタヴューは前菜みたいもので、彼が初手からこのキタでの身振りに勝負を賭けていたことは明らかだった。
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 二度目に会ったのは、手塚治虫マンガ文化賞の授賞式で、だった。

 あたしが司会をずっとやっている番組『BSマンガ夜話』で、『ナニワ金融道』をとりあげた、それは当時すでに足かけ三年ばかりも続いていたその番組の中でも、未だに語り継がれるくらいのいいデキの回だったのだが、そこでの作品の評価のされ方について、どうも青木御大、いたくご立腹らしい、ということを風の噂に聞いていた。いや、噂だけではなく、『朝日新聞』のコラムか何かで具体的に文句を言ってもいた。その年の手塚文化賞に輝いた『ナニ金』だったけれども、審査員の中にあたしも含めたその番組のレギュラーたち――いしかわじゅん岡田斗司夫がいる場に、受賞者という立場とは言え、あの青木雄二が姿を見せる。口さがない編集者たちの間などでは、こりゃあひと悶着あるのでは、と、例によって面白がって困ってみせる手合いがいくらもいた。

 型通りの授賞式の後、立食パーティーになった時、いしかわじゅんが先に青木雄二に近づいた。先手を取ろう、という戦術だったのだと思う。それは、意外なほど功を奏した。つかつか、っと近づかれていきなり握手を求められた御大は、こちらが拍子抜けするほど慇懃に応じ、そのままソツのない時候の挨拶などを交わして談笑さえして、番組に対する文句や自分の作品に対する評価の不満などは、最後までおくびにも出さないままだった。

「センセイ、その節はお世話になりました」

 その場のやりとりを脇で眺めていたあたしに向かっても御大、びっくりするくらいに深々と頭を下げ、手を握ってきた。あのキタの新地のホームグラウンドで見せた肉欲棒太郎の身振りはどこにもない。ひらりと上着を羽織ってホテルの表に出た瞬間に見せた、あの変身ぶりもまた感じさせない。世なれた社交の身振りをやや卑屈なくらいにやってのけてみせる、そんな「商売人」の身体がそこに厳然とあった。

 その頃から、青木雄二はマンガの筆を折った。少なくとも、当人がそう宣言し、その代わりに、と言っていいのだろう、語り下ろしの人生論、経済論、御大一流のマルクス主義説教本などを乱発し始めていた。

「わしは人生の勝者や。もうあくせくマンガなんか描かなくてもかまへんくらいにゼニを儲けたんや。これからは遊んで暮らしたる」

 ああ、そのあまりと言えばあまりなわかりやすさ! あの絵柄、あの調子の、よく言えば粗削り、悪く言えばハチャメチャ勘違い全開の力任せなマンガ原稿に、何か見るべきものを嗅ぎつけ、まさに身体を張った一対一の「調教」のような関係でギリギリと縛り上げながら『ナニ金』を、少なくとも週刊誌ペースの商品として読むに耐え得る形にしていったという、あの講談社の担当編集者も、連載途中で退社していた。単行本でいえばおよそ十巻目くらいから後、少し気をつけて読めばそれまでの調子がかなり変わってきているのがわかるはずだ。彼との緊張関係の中でのたうちまわりながら、青木雄二は商業ペースの描き手として何とか輪郭を整えていた。その縛りがなくなったが最後、こうなるのはある意味必然だった。

 彼と、彼の『ナニワ金融道』は、九〇年代ニッポンマンガのある突出した作品となって名を残し、単なるマンガであることを超え、大学の経済学部での推薦テキストになり、裁判所の裁判官たちの書棚にも平然と並び、「これで世の中のことを勉強しました」と素直に言う読者を本当にたくさん生み出した。その意味で、彼は確かに「成功」した。金銭的にも、そしてまた商業マンガの描き手としても。


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 ただ、『ナニ金』を語る者たちが、小うるさいマンガ読みや評論家も含めて、「リアル」ということをお約束のように口にする、そのあまりのお約束具合、考えなしのお手軽ぶりに、あたしなどはちとヘソを曲げて見せたりもしたくなるのだ。

 マンガにとって「リアル」とは何か? いや、そこまで大風呂敷を広げずとも、少なくとも『ナニ金』について彼ら彼女らが「リアル」と言いたがるその内実とは、果たして九〇年代のニッポンの〈いま・ここ〉にとってどのような位相を持っていたのか。もっと言えば、活字のジャーナリズムでもなく、ブンガクでもなく、映画でも音楽でもなくマンガで、しかも他のマンガではなくあの『ナニワ金融道』が獲得し得たと大方が思ったその「リアル」とは、どのような手ざわりを持つものだったのか。

 少し前までならばルポルタージュとかノンフィクション、社会派ドキュメントなどと呼ばれた表現が多少は担っていたはずの、そんな「リアル」。〈いま・ここ〉を生きる同時代の感覚にとって間違いなく「あり得る」と感じられる何ものか、を、あるおはなしの形に盛りつけて示してやる。それをあるギリギリのところで可能にしたひとつの答えが、青木雄二と『ナニ金』だった。それは、キタの新地をまるで根っからの遊び人のような身のこなしで飄々と歩いていったあの後ろ姿と、日常をどうしようもなく縛る「商売」の約束ごとの中では徹底的にその「商売」に忠誠を誓えるしたたかさとを、共にひとつの身のうちに宿さざるを得ない生があって、初めて可能なような奇跡でもあった。

 あたしゃ民俗学者だから、ここはもう横向いてぼそっと言うしかないんだけど、あれはもっと前なら、そう、宮本常一が獲得したような種類の、きだみのるが提示してみせたような類いの、晩年の赤松啓介がはじけながら繰り広げたようなタイプの、そんな民俗学的知性と身体とが本来、うっかりと切り取ってしまうような「リアル」、なんだよねえ。マルクス主義も経済論でも何でもいい、あれだけはっきりと「隠遁」を宣言しながらもなお、そうやって能書き言いたがるしかない御大の性癖だってまた、世と関わりながら生の手ざわり確認してゆくしかない世間師の手癖そのものなんだし。

 『ナニ金』に心奪われた読者のかなりの部分はその後、たとえば『カイジ』の「リアル」に引き寄せられたりしている。「マンガ家」青木雄二の働くべき領域は、まだ確かに、このニッポンの〈いま・ここ〉に存在している。
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