このささやかな本について――『中津競馬物語』まえがき

ちいさな競馬場、の人々
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 この本は、大分県中津市にあったちいさな競馬場の、厩舎で馬と共に暮らし、働き、競馬を仕事としてきた人たちの、ささやかな記録です。

 競馬、と言った時に、誰もが思い浮かべるのは、華やかな中央競馬――JRA(日本中央競馬会)の主催する毎週末、土曜・日曜にきれいなターフ(芝生)の広い競馬場に十万人もの、時にはそれ以上の大観衆を集めて行われ、テレビやラジオでの中継はもちろん、新聞や雑誌などにもカラー写真と共に報道される、あの競馬、でしょう。

 けれども、ニッポンにはそんな中央競馬ともうひとつ、全国各地に三十個所、ちいさな競馬場での地方競馬があります。南関東の大井や川崎のようにナイター開催をしているところもありますが、その多くは平日開催。賞金も中央競馬の最高一億円以上というレベルに比べれば、重賞でさえも数百万円、平場の競走ならば一着十数万円という競馬場まであります。

 走るのは同じ競走馬、戦後の地方競馬をずっと支えてきたアングロアラブ(アラブとサラブレッドの混血種)もいますけれども、最近ではこの地方競馬にも、もうサラブレッドがまんべんなく行きわたるようになっています。北海道であれ青森であれ、はたまた鹿児島であれ、同じ牧場で生まれたサラブレッドたちのうち、たまたま地方競馬に行くことになった馬たちが、そんなちいさな競馬場で走ることになる。そしてまた、その馬たちに寄り添って、仕事としての競馬を生きる人たちもまた確実にいます。

 それは、華やかな中央競馬でだけイメージされる世間の「競馬」からは見えない「もうひとつの競馬」、です。

 いま、そんな地方競馬の競馬場は、どこも深刻な売り上げ不振と、それによる廃止の危機にあえいでいます。そんな中、中津競馬は2001年の3月末、ほんとうに紙切れ一枚で、主催者である市側から競馬の「廃止」を宣言され、厩舎関係者はなんと一銭の補償もないままに競馬場から放り出されそうになりました。

 そんな理不尽なやり方で、職場であり、生活の場でもある厩舎ごと競馬を奪われようとした彼ら厩舎の人たちが、調教師から騎手、厩務員に至るまで一致団結して、その後一年という長い間を闘い抜き、そして、決して満足なものではなかったにせよ、ある程度の補償を勝ち取るまで頑張った、そんな闘いの過程が現場の記録と証言とでつづられています。

 と同時に、戦後半世紀以上にわたって市財政に寄与し、競馬の開催を支えてきた中津競馬場の厩舎に生きた人たちの、「オレたちは確かにここに、こんな馬たちと共にいた」という声を、ことばを、中津競馬の歴史の証しとして、できる限り盛り込んであります。

 競走馬は消耗品です。新車で工場をロールアウトしたクルマが使い込まれ、走行距離がかさんでゆくにつれてあちこちすりへり、ガタがくるように、馬もまた競馬をつかうごとにどこかしら不都合や故障を抱えるようになります。それはある種の職業病であり、競走馬の宿命でもあります。

 中央競馬地方競馬は、同じ競馬法の管轄の下に競馬を開催していますが、そこで働く調教師も騎手も、厩務員も、ひとまず別の免許制度によってコントロールされています。仕事としては同じ競馬であっても、たまたま地方の調教師、地方の騎手であったために、あの中央競馬の華やかな舞台で腕を存分に振るう道は、ほとんど閉ざされたままになる。

 けれども、人は免許制度でわけへだてされていても、馬の流通は同じ競馬のこと、人よりはまだお互いに関わりがあります。賞金水準の低い、ちいさな地方競馬には、中央競馬を頂点としたより賞金の高い競馬場から馬たちが流れてきて、そして走れる限りは競走馬としての生を全うします。そんないずれわけありの、どこかしら故障持ちの競走馬をうまく治療しながら、中央などに比べればはるかに過酷な月に二回、三回というローテーションで競馬を使う――それが、多くの地方競馬の厩舎の仕事の本質でした。

 西に行った馬はいても、戻ってきた馬はいない――競馬場ではこんなことが言われてきました。西日本の競馬場、特に地方競馬の競馬場は中央競馬に比べてはもちろん、同じ地方競馬の中でも東海や東日本といった大都市圏の賞金の高い競馬場に比べてさえも、まだ賞金水準が低いところが多かった。だから、競走馬としてのキャリアを積んでゆくほどに、西へ西へ流れていった馬たちは、多くの場合そこから東の方へ、生まれ故郷の北海道や東北に戻ってゆくことはない――そんな意味がこのもの言いには込められていました。

 けれども、そんな西日本のちいさな競馬場には、地方競馬ならではの技術も知恵も宿っていました。脚もとのあぶない故障馬、どこか悪いクセのついた高齢馬などを持ってきては、何とか治療し、矯正して競馬を使う、そんなまさに言葉本来の意味での「文化」としての競馬を支える何ものかかが、そこには確かに宿っていました。

 売り上げ減少、赤字経営で、競馬の主催者である自治体は、安易に競馬の「廃止」を口にします。しかし、今言ったように、華やかな中央競馬の向う側には、少なくとも三十個所の地方競馬場が競走馬の流通システムの一部として、ニッポン競馬全体を底辺から支えている、そのことが自治体にはほとんど見えていない。まして、そこに確実に宿っていた「文化」の意味や、その重要性、歴史的な意義などについて思いをめぐらすことなど、まず絶対にありません。

 この中津競馬についてのささやかな記録が、これまであまり光の当てられてこなかったそんな地方競馬の、さらにその流通の末端に位置するちいさな競馬場での、仕事としての競馬、馬と共に暮らしてきた人たちの「文化」と「歴史」について、少しでも世間に知ってもらえるよすがになれば、と、心から願っています。

*1:『中津競馬物語』(不知火書房)のまえがき、です。