中津競馬場・聞き書き ①

●S調教師

 中津はねえ、よその競馬場に比べたら、ほんとに仲いいですよ。ちっちゃいせいもあるんでしょうけど、いがみあいとかないですね。もし、馬の仕事ができたらそれが一番好きやし、馬でまだ仕事ができるんなら、そりゃあ雇ってもらいたいです。そういう望みはありますね。そりゃあ、これ(馬の仕事)したら他の仕事はなかなかできんですよ、みんなそうやと思いますよ。それだけ毎日毎日、仕事にやりがいがあるっちゅうかね。給料取りにはなかなかねえ……レース見て、ああ、よう走ってくれた、とか、馬に声かける楽しみみたいなもんはないですよね。

 好きでないとまたでけんですしね。厩舎に調教師の部屋があるでしょ。わたしらパンツひとつで布団かぶって寝てるでしょ。冬なんかでも、馬が夜中に馬栓棒落とすんですよ。そういう時でもパンツひとつで飛んでって様子見るんです。その音ひとつでどの馬がどのへんで落としたかわかるんですよ。お客さんなんか泊まってても、あんたようわかるな、と言われたんですが、わかるんですよ、あれは。どれがわるさしよるか、みぃんなわかる。

 それがこんなことになってしもうて……みんな朝起きたら初めて知ったようなわけでね。あたしたちもトシとって他に仕事もないし、これで一生食うてゆける、と思うてたんですよ。そのつもりにしとったら全然ハナシが違う。こんながっかりすることはないですよ。うちの子供も厩務員しよったんですよ、わたしのとこで。だからあんた、親子で失業ですよ。

 思い出の馬ですか。そうですねえ、いろいろいますけど、ハローキングってのがいましたよ。中央にあがって、当時のハギノカムイオーとやりあってね。やっつけたんです。*1 でも、天皇賞に出る前に骨折したんですけどね。こいつ、実は屠殺前のを買ってきた馬だったんです。そうそう、ほっといたら肉になる馬を買ってきた。確か、冬の二月に馬主さんと馬を見に行ったんですよ。いや、その馬が目的じゃなくて、別の馬を見てくれ、っちゅうんで行ったんです。目当ての馬はいい馬服来てるけど、そいつはその馬の隣の馬房におって、ドンゴロスの馬服着てたんですね。五百何十キロかある大きい馬でしたけど、トモがゆるいくらいで脚もとはノーパンだったし、なかなかいい。目当ての馬とは別なんですが、馬主さんも、あんたがよけりゃ買えばええわい、ちゅうんで一緒に持ってきた。で、治療して競馬使ってみたらこれが強い強い。勝ちっぱなしで名古屋行っても勝ちっぱなしで、最後は中央にまで移籍して大暴れした。新聞にも、終着駅が始発駅、ちゅうて大きく書かれた。中津からもう一度生き返って中央にまで行ってくれて、うれしかったですよ。

 中津で調教師やりよる人はたいていノリヤクあがりなんですが、わたしだけはそうじゃない。前ですか? 大分の県庁におりました(笑)。厩務員十年やって、それから資格とって調教師の試験受けたんです。県庁での仕事ですか? 教育委員会にいたんです。事務をやってました。あの県庁の前のお城がまだ県庁やった頃です。そこに半年いて、新しい県庁ができて家移りしたんです。6階にいたんですよ。でも、県庁勤めがいややったんですね。

 実は、オヤジも県庁におったんですよ、それであたしに県庁に入れっちゅうんで入ったんですが。初めは警察受けたんですが、すべったんです。ほしたら県庁受けりゃいい、ってことで受けたら入れた、と。

 あたしのところ(実家)は、耶馬渓なんですよ。そんな耶馬渓の田舎から出てきて大分に下宿しとるやないですか。その当時は八千四百円くらいの初任給で、アパート借りるだけで五千円いりよった。それに食費とかなんか給料より多いくらい仕送りしてもらいよったんですよ。それで嫌気がさしてしもうてね。オヤジとかは辛抱しろ、って言うんですが、こっちはいやでいやでたまらんでね。22くらいの頃ですね。だから県庁辞める時は、そりゃあ反対されましたよ。競馬場に入った、っちゅうたら、じいちゃんからは勘当されるように言われました。そのころ、競馬場に入る、っちゅうたら普通やなかったですもんね。あたしは高校の時におばさんがここの事務所に働きに出よったんで、アルバイトに来たことはあったんです。昔の、着順の板を入れるやつね。で、ああ、馬の走るっちゅうのはすごいなぁ、っちゅうんで好きになってた。

 それでもね、調教師になってからは親も喜んでくれました。おじいちゃんなんかも競馬のたんびに出てきて厩舎に泊まって、馬券買うのも覚えたし。オヤジも四、五年前にあたしの厩舎に来とる時にゴロンと死んだんですよ。耶馬渓からクルマ運転して出てきて、馬主さんなんかと昨日のレースのことなんか話して、じゃあメシ食いに行こうか、言うててそのまま死んだ。競馬場来ても、そのころはあたしも勝ち鞍も上の方じゃったから、オヤジも誇りに思ってくれたんやないですかね。馬主登録もしてくれたしね。そういう楽しみも親に作ることができたんですから、まあ、よかったんじゃないかな、と。

 その当時はここだけの競馬やなしに、荒尾にも馬つれて行きよったからね。ここ(中津)の百姓仕事のある六月と十一月は競馬が休みなんで、みんな荒尾に馬持ってゆきよったですよ。輸送はトラックですね。(荒尾で競馬をした)最後の年は昭和46年ですけど、ちょうど息子の生まれた時に荒尾に行っとったんでよく覚えてます。それが最後じゃったですね。

 だから、二年前に九州競馬ができた時は、ああ、昔はよう荒尾にも行きよったなあ、となつかしく思ったですよ。当時、荒尾に行くのは楽しみもあったですよ。女房子供連れて、馬もつれて、家族ぐるみ移動してね。トラックに荷物積んでね。悪う言うたらドサまわりの芝居みたいなもんです。荒尾行っても厩舎なんかなくて、泊まるのは民家でしたよ。競馬場から離れた遠いところの民家に馬房ちゅうか、牛小屋があって貸してもらうんですよ。そこから三キロも五キロも馬引っ張って競馬場行きよったですよ。踏み切りなんかあると、馬は見たことないからおそろしがってなかなか越えんのですよ。おお、段があるわい、っと立ち止まる。もちろん当時はまだ、舗装してない地道ですよ。だから馬も歩けたんですよね。

 そういう草競馬というか、昔の競馬みたいなのは、今でも宮崎の綾(綾町)でやりよりますね。確か、十一月頃じゃろ。あそこは馬が足らんから馬貸してくれ、とか電話がかかりますよ。今でも賞品はタンスやら 一輪車やらカマやらクワやら、そんなもんやないかなあ。馬も競馬が六日間あったら五日間(競馬に)出た、とかね。まあ、こんなこと知っとるのも、もうあたしらより上やないと知らんでしょうねえ