「江田島」の青春――2003年、春

*1

 「江田島」と聞くと海軍兵学校を思い浮かべる僕など、今どきの三十代としてはちと変わっている類なのだろう。それでもやっぱり「江田島」だもの、緊張する。

 五月末のある朝、僕は江田島海上自衛隊幹部候補生学校にいた。掃き清められた営内で朝の朝礼が行われている。きれいに整列した白い夏服がまぶしい。

 総務課長の大古利二佐に案内してもらう。かつて護衛艦たかつきの艦長も務めたという人。スマートで穏やかで根っから海軍の船乗り、という感じだ。 この日は午後から名物の短艇競技が行われることになっていた。午後、こちらが表玄関という表桟橋から六班に別れて争う。

 校長座乗のランチに同乗させてもらって洋上から見物させていただく。旧軍以来の江田内のおだやかな水面に力漕が続く。ランチの上の教官の人たちは双眼鏡片手に盛り上がっている。あの艇は漕ぎ方がよくない、こっちのあいつは小さい身体で頑張ってる、あそこでは作戦的にこうした方が……いやあ、学生たちより楽しそうですよ、みなさん。

 これは自衛官一般に言えることのように僕は感じているのだが、部下に接する、あるいはここのように学生たちと話す、そういう仕事の関係における言葉づかいや身のこなしはみんな本当に板について堂々としていて、カッコいいなぁ、と思う。僕のような外の人間に対する時とまるで違うのだ。ヘンに思われないか、悪いことばかり書かれるんじゃないか、という身構え方を長い間してこざるを得なかった事情も大きいだろう。そしてそれは、時代状況のせいだけでなく、そのような身構え方をさせてきたわれわれ国民全体の責任でもある。

 とは言え、やはり時代は変わる。そんなこれまでのような身構え方をひとまずしないですむようになりつつある世代も、もう自衛隊の中に育ち始めている。さまざまな「歴史」のまつわった江田島まで今、足を運んだのも、そのことを確かめたかったからだ。


●●
 夕方、学生たちの何人かに集まってもらい、話を聞かせてもらうことになっていた。「こっちがいると緊張して言いたいことも言えないといけないですから」と、大古利二佐。本部でなくわざわざ学生たちのクラブに集まるよう設定して、しかもご自身は席を外してくれた。その心づかいがうれしい。 

  集まってくれたのは防大出の一課程と一般大出の二課程、合わせて五人。部屋に入ってゆくといきなりひとりが号令をかけて、きっちり礼をしてくれたので面食らう。大学あたりじゃまずないことだから慣れてないんだよなぁ、こういうの。ほんとは答礼のひとつもしなくちゃいけないんだろうけど、何だか申し訳ない。


 堂本君。二二歳。大阪府立大学卒。色白の顔に柔和な眼が印象的。学生時代にヨットをやっていたから、船には一度乗ってみたいと思ってはいた。梅田の街を歩いていて地連の人に「にいちゃん、自衛隊受けてみないか」と声かけられた由。感じのいいおっちゃんだったし、世界一周ができる、と言われてグッときた。

「一課程の人はほんとに勝負ごとが好きなんだなぁ、と思いますよ。競技になるとみんなものすごく燃えるんですよ。この間もちょっとしたイベントで綱引きやったんですけど、こんなことやってらんねぇよ、とか言いながら、いざやり出すとみんな本気になって一時間くらい前から円陣組んで作戦会議をしてる。賞品はたかだか栄養ドリンクなんですけど」

 勤務は水上艦艇志望。音楽はボブ・ディランが好き。シブいのだ。


 藤井君。二二歳。防大出。専門は機械系。江田島とは目と鼻の先、地元安浦の出身。だ。ひきしまった顔つきに浅黒い肌の、海しかない、といういい男。防大に入った時には自衛隊に入ることは考えてなかったのだが、野球部で体育会をやっているうちに「男をきわめに行こう」と思って自衛隊に入った。祖父が外国船の機関長で、親戚が船会社経営していたりもするので、志望は艦艇一本の「バリ艦」。防大時代にアメリカの船に乗せてもらったことがある。ブリッジで号令をかけさせてもらった。自分の号令で四万トンが動くのはものすごく気持ちよかった。まわりは見渡す限りみんな海。ああ、ここを思い切り駆け回ってみたいなぁ、と思った。

「やっぱり二課程の人とはいろいろ違うところがありますね。だから、酒飲み言ってもお互いに新鮮で勉強会みたいなところがある。何となく光って見えるんですよ。十八から二十二の間に縛られてないっていうか、自分も防大時代はかなり好き放題やってきたつもりだったけれども、まだまだ甘かったなぁ、と」

 カラオケにもよく通う。森高千里のファンとか。納得する。


 菅原君。二二歳。藤井君と同じく防大出だが、こちらは文科系。ただし、同じところで寝て起きての生活なので、理系も文系も境界がないのが防大の特徴の由。いわゆる体育会のノリの中でも、それらに侵されない「自分」の輪郭を守りながら持ち続ける術を身につけている印象。広島出身。旅行が好きで、学生時代は学生手当をためて夏休みに全部使い切っていた。ひとりで行く。イスタンブールやメキシコにまで足を延ばした。国内も角館などに行った。防大時代は空、海、陸の順に志望していたので、海自は第二志望だった。

「二課程の人を見ていると、時間がないとか、忙しいとか、ああ、俺が防大一年生の時と同じこと言ってるなぁ、と思う。そのうち不条理に慣れて言わなくなるんですけど」

 補給部隊を志望。実戦経験のない自衛隊だけど、補給はどこでも必要だから。もうひとつ、最近は潜水艦もいいな、と思い始めている。船は海上保安庁にもあるけど、潜水艦は海自にしかないからクリエイティヴかな、と。『セキュリタリアン』はよくめくっている由。ありがとうございます、って、僕が礼言ってどうする。


 磯貝君。二七歳。東京理科大修士課程出。専門は物理学。技術幹部として採用された。父親も海自の自衛官でスキー部。二歳の頃からスパルタでスキーを教えられていた。自身も競技スキーの選手で、インストラクターをやっていたくらいなのでスキー関係の雑誌はよく読む。理科系の技術屋というより、むしろスポーツ好きの商社マンという感じ。事実、一般企業の内定も早くからとっていたが、父親が申込み書類をそっと地連から持ってきた。

「体育会ノリは好きだったし制服も嫌いじゃなかったから、とりあえず試験だけ受けてみようと思ったんです。で、受かってみたらやっぱりこっちが向いてるかな、と。自分は一般大の出身ですが、ずっと体育会だったし、ここは究極の体育会だと思っているので結構なじみやすいですね。まぁ、父が一番喜んでますけど」。

 艦艇志望だが、技術幹部は陸上勤務になることが多いようなので、志望通りにゆくかどうか。故郷は山口県。学生時代にバンドをやっていたこともあり、音楽はヴァンヘイレンなどヘビメタ系が趣味とか。


 江森さん。二五歳。この日唯一の女性。上智大の史学科で西洋史を専攻。やはり修士課程まで出ている。国家公務員中級試験を受けて、去年まで防衛庁の職員として横須賀で働いていた。偏差値世代の優秀な女性の中でもあまり余計な葛藤をせずすくすく育ったタイプと見た。生まれは舞鶴。小さい時から邦楽をやっていて琴や三味線は習ったりしていたが、特に身体を動かすことが好きだったわけでも、体育会のノリになじんでいたわけでもない。でも、そんな私でもなんとかなってますから、と笑う。

「楽することと楽しいこととが、世間では一緒になっているように思うんですよ。防大出の人は年下なのに一般の大学を出た人よりしっかりしているように見えます。たとえば、授業でグラウンド走っててあたしが一周くらい遅れると、みんなそれに合わせて余計に走ってくれたりする。上智にはそんな男がいなかったから驚きでした」

 その言葉に、時間があったら走りたいって人間ばっかりだったんじゃないの、という声がまわりからあがる。ひとしきりの笑い声。自身は艦艇でなくやはり経理か補給を志望。後方支援の方で頑張りたい由。


●●●
 PKOについて。

防大時代にPKOを経験した人の話をいろいろ聞く機会があったんですけど、自分もぜひ行ってみたいですね。阪神大震災の時もそうですが、単純に合理性で考えたらおカネを出すのが一番いいのだろうけど、湾岸戦争にあれだけおカネを出して大して評価されなかったじゃないですか。ああ、純粋合理性だけで世界は動いていないんだろうな、と。個人的には海外青年協力隊と同じような感覚です」(菅原君)。

「湾岸の時に掃海艇がペルシャ湾に行ったじゃないですか。呉に帰ってきた時も反対の人たちとか出てて、暑い中長い間頑張って帰ってきた人たちに、なんで一言“ごくろうさま”と言ってくれないんだろう、と悲しかった。困っている者を見たら何かしてあげるのが人間の素直な気持ちだと思う。自分も機会があれば行ってみたいですね」(藤井君)

「世界の中で主役になろうとは思わなくてもいいから、堅実な活動の一環として行くのがいいと思う」(堂元君)

「国会とか上の方で憲法論云々やっているくらいなら、アクションすることの方が大切だと思います。われわれにできることがあるならやった方がいい」(磯貝君)

「やはり手続きをいろいろ考えるより先に、今すべきことをする方がいいでしょう。国際貢献のひとつとしてやるべきだと思います」(江森さん)

 旧軍とのつながりについて。ここはさしさわるといけないから匿名にしよう。

防大は陸海空ごちゃまぜだからここにいる時より強く感じたんですが、旧陸軍は精神主義で海軍はグローバルな視野を持っていて、とよく言われてますよね。だからかどうか知らないんですが、防大の時も陸の人は逆にここまでやるかというくらい厳しく自分たちの行動を律して合理的に考えようとしていた印象があります。逆に、グローバルと言われてきた海の方はいまひとつ反省が足りないんじゃないか、と」

「ここ(江田島)は土曜日曜は観光客も多いから、赤レンガも明治村に寄付するか何かした方がわれわれとしては合理的かも知れないと思います。いらっしゃる方がみんな思いつめた集団になっていて、われわれに頑張れと言ってくれるのはありがたいんですけど、逆に彼らの意に反することがしにくい面もあるんですよ。だったら、建物なんかはもう歴史的遺産にしてしまった方がいい」

「土日に当直に立ったら観光客を案内することもあるんですけど、先日も参考館の中でおばあちゃんが泣きだして困ったんです」

「赤レンガの中にわれわれの自習室があるんですが、この間自分の席にひとり、知らないおじいさんが座ってるんですよ。びっくりしましたよ。自分の方を見て、ああなつかしきわがナントカ、とかおっしゃるんですよ。やはり海兵の何期かの方なんでしょうけど」

「やれ、このレンガはひとつずつ梱包してイギリスから運んできたの、とかいう説明を聞いてましたが、中で生活して掃除とか一切合財やっていると、なんだよこのクソボロい建物はよ、と思うようになったりしますよ(笑い)。赤レンガったって中入って生活してしまうと赤レンガじゃないですからね。世の中に海兵出身の人がどれくらいいらっしゃるか知りませんが、歴史の面はそろそろそうい
う人たちのためのものにしてゆく方がいいんじゃないか、と思います」

 生活面でも改善して欲しいところがある。風呂の水が錆びている。制服で出入りしろ、というのもできればやめて、中から私服を着て外出できるようにして欲しい。時間がもうちょっと欲しい。PXに行く時間もない。遊びには行きますけど、江田島からなかなか出ないですね。島民になっちゃって。昨日誰それとどこにいたでしょ、とすぐ言われる。
「俺はなるべく出ようと思うけど。週に一回は広島か呉に出て街の空気を吸うようにしてるよ」と、これは堂元君。わかるわかる、それって街育ちの感覚だ。

「よくこんなところ見つけたもんだな、と今さらながら感心しますよ。うまくできてますよ。狙いは当たったと思いますよ。でも、それが今は逆に不自由になっている。少々サリンまかれても築地のままの方がよかったんじゃないか、と(笑い)」

 さて、サリンが出たところで、今や国民誰もがみんな尋ねたいと思っているオウム真理教の事件について。

「宗教や哲学に魅かれる人たちがいるというのはわかるし、自分もこれからそういうものが必要になってくるとは思う。でも、なんであんなことになっちゃったのか、というのが全然わからない」

「宗教みたいなものについてはバーカという感じなんですけど、麻原があれだけの人間を自分の指揮下に入れることができた理由は何だったのかなぁ、と思いますね」

「生き方というのは自分ひとりで決めるものだと思います。オウムは知らないんですけどうちの大学は原理研が多くて、あとはおたくっぽい人種ですか。大学院まで行くと勉強の虫ばかりで、まわりはそういう連中ばっかりになっちゃうんですよ。自分はそういうのみんな大嫌いだったんです。文科系のサークル部室なんて中で何してるかわかんないですからね。友だちでそういうの入ったの結構いましたもの。愛と平和について考えるビデオを見ないか、って友達だった奴から電話かかってくるんですよ。それ以来つきあいやめましたけど」

 自衛隊も当たり前の就職先のひとつとして考えて欲しい。何も国のために命を投げ出して、とか悲壮な決意で自衛隊に来たわけじゃない。公務員志向のひとつとして選んだのだから、せめて街の消防士さんくらいの身近な認識を持ってもらえるようになりたい。ふだんの生活何してるんですか、といった質問もやめて欲しい。普通と違うんですか、とよく言われるんですが、じゃあ普通って何ですか、って逆に聞きたい。

山本五十六も、戦争のない時代は酒飲んでたら税金泥棒と石投げられたって聞いてます。私たちのステイタスが高くなったら、その時はもう国が危ないんですよ。だから、縁の下の力持ちをやってかなきゃならない、という認識を強く持ってます」(藤井君)

「高校時代は、あの菅原が防大行った、って言われて、防大時代も、おまえは絶対任官拒否だろう、って言われてきて、今でも、いつやめるんだ、ってたまに言われますよ(笑い)。それくらいまわりから違っていると思われてきた僕でも、ここは続けてゆこうと思える仕事の場なんです」(菅原)

●●●●
 終わってから「どうでした?」と心配そうに尋ねる大古利二佐に、「大丈夫、みんな今どきの若いモンとしては相当しっかりしてますよ」と太鼓判を押した。「そうですか」と本当に安心したような顔。やっぱりいまひとつ理解しきれないところがあるんだろうな。で、それは世間のオヤジたちと全く同じ。もちろん、全くそれでいいのだ。

「彼らも現場に出て部下を持ち、また家族を持つようになったら変わってゆくところがあると思います。また、それでいいんです」

 われわれを裏門まで送ってくれながら、大古利二佐はゆっくりそう言った。そう、時代はそうやって変わってゆく。わからないならわからないなりにそのことを前向きに信じる、信じてしかししっかり見守る、そんな態度こそが今、一番必要なのだと僕も思う。いろいろ便宜を図っていただいた校長の功刀海将補以下教官の人たち、そしてただでさえ時間がないとボヤいていたのに、予定を越えてつきあってくれた彼ら学生に、感謝。

*1:『セキュリタリアン』依頼原稿&取材