文科系の矜持

 イラク戦争が一段落ついたと思ったら、国内では白装束やらSARSやら、油断のならなさそうな騒動が次から次へと起こるおかげで、新聞やテレビにはほとんどまともにとりあげられない国立大学の独立行政法人化問題ですが、ここにきて有事法案と個人情報保護法案の陰に隠れながらもなんとなく法案が成立したようであります。

  これって、もう十年ばかり前から水面下ではいろいろと画策されてきていたことで、特殊法人改革など、小泉内閣が売り物にしてきた「構造改革」の一環として、それこそ郵政省の公社化など並ぶ公務員のコスト削減を目的として導入されてきた代物。例によって大学内部では、教員のセンセイ方を始めとして侃々諤々の議論がここ数年続いてきていたようですけど、実はあたしは大学で給料もらっていた頃から、この独立行政法人化は大賛成。学内で孤立しながらも、とっとと独法化せんかい、とひとりで言い張ってたくらいですから、いまさら何を、なのであります。

 大学の自治が侵害される、だの、採算第一になって基礎研究がおろそかになる、だの、理屈はいろいろとつけられますが、これ、ぶっちゃけた話が、ニッポンの大学(とりあえず国立大学なわけですが)ももう少し世間に対してオープンになってよ、ってことなんですよね。公務員待遇にあぐらかいて、およそ世間と隔絶した「研究」だの「教育」だのをやらかしていた弊害がもうあまりにあからさまなんで、少しは大学ってのも世間並みに風通しよくしようじゃないか、と。別に文部科学省の肩持つ気はないですが、最低限そのへんを達成しようという気持ちはわからないではないんであります。

 ここ十年くらい、大学で起こっていることというのは、いくつかの柱で理解できると思いますが、その中のひとつは、いわゆる文科系の「教養」というやつの枠組み自体が、これまで何となく当たり前とされてきたものではもう役立たずになってる、それをまず認めて新しい枠組みを考えなきゃまずいよね、ってことでした。今の大学がはっきりと就職予備校化するか、高級カルチャーセンター化するか、でなければ、語学その他の専門学校化するかのおおむね三方向にしか活路を見出せなくなっているのも、少子化その他の時代の流れもさることながら、少なくとも文科系一般が世の中に対して正しく役立たずである、ということが最終的にバレてしまった、ってことですよね。にも関わらず、大学は未だ十年一日の如く同じような講義を同じように続けているだけ。大手都市銀行ですら軒並み身動きとれなくなっているこの時代に、大学だけがこれまでのまんまでいいわきゃない。サービス業、と言うのがいやならば、もっと露骨に客商売、世間の役に立つガクモンのありようを探ってくれてもバチは当たらないんじゃないのか、というあたりが、この独法化を推進しようとした方面の心の中、だったんだと思います。

 まあ、あたし自身は大学助教授の職放り出して、なけなしの「自由」を選んでもうまる六年。非常勤含めて教壇を離れてからでも四年たってますから、いまどきの現場については偉そうなことを言うのはさしひかえますが、当時大学にいた同僚のセンセイ方のたたずまいを、ああ、今ほんとにどうしてるんだろう、と感慨深く思い起こすことはあります。何があっても自分のポストが大事、どんなに理不尽な状況になってもひたすら椅子にしがみついてさえいれば給料は保証されるのだからそれでいいのだ、という平均的「インテリ」のヘタレな生き方というやつを、いやというほど実例で見聞させてもらった約十年、というのが、大学教員時代の実質でした。

 一般企業でもそんなもん、たいていの人間はそういうものだよ、と言われたらそうかも知れない。けれども、嘘でも「インテリ」「知識人」の矜持があるのなら、そんな理不尽な状況でも何か守るべきものはあるだろうと思うんですよ。身体張って守るべきものを守る、なけなしのその心意気なくした「インテリ」なんぞ、このご時世に誰が信頼なんかするもんですか。文科系が大事と思うのならなおのこと、一銭にもならない学問に敢えて殉じる心意気くらい見せてくれないことには、かつての明治維新幕臣以下、草莽のサムライたちの足もとにも及ばない。

 口舌の徒、というのはもちろん自己卑下のもの言いですけれど、この大学自体が存亡の危機を迎えているいま、最も逆風吹きすさぶ文科系の存在価値をほんとに世の中に示す絶好の好機到来、と腕まくりするくらいの大学教員が出てこないことには、あたしゃやっぱり、この先なお、破れかぶれな「インテリ」看板で世渡りしてゆくのがさすがに心細い、ってのがホンネであります。