アンカツ――安藤勝巳騎手のこと

f:id:king-biscuit:20200125075117j:plain

 黒いパーカーを羽織った細身の身体が、かるく背中を丸めて紙コップのコーヒーを持っていた。新千歳空港の朝一番、まだ人のそれほどいない待合室のベンチに、彼は無造作に腰を下ろした。

 アンカツ――安藤勝己騎手である。

 前の夜、折りからの夕立ちにどしゃ降りの旭川競馬場で交流競走に騎乗。JRA所属のシルバーデピュティ牝馬ジュメイラビーチで1000メートル戦を圧勝していた。メインのブリーダーズゴールドカップに乗り馬がなかったのには、地元のろくでなしたちも首をかしげていたけれども、笠松から遠征のエイシンバーチャルまでが、地元道営の桜井拓が乗っている始末。何より、騎乗依頼がないものはしょうがない。この日は盛岡のクラスターカップで、おそらく人気になるだろうディパインシルバーに乗ることになっている。

 しかし、まわりの誰もアンカツだとは気づかない。武豊ならばいざ知らず、こういう場所でいきなりファンに取り囲まれたりサインをせがまれるようなことは、あのアンカツとてまずないのだろう。その便には、同じくクラスターカップに騎乗予定の道営の坂下騎手も乗り込んでいたけれども、こちらももちろん誰にも振り向かれない。乗馬靴にステッキを突っ込んだボストンバッグひとつで、西に東に飛び歩くノリヤク稼業。私服のアンカツは前にも増して飄々と、かろやかになったように見えた。

 いや、勝負服を着ている時もそうだ。この春、晴れて中央の騎手免許を取得してからのアンカツは、なんというか、どこか丸くなったような印象がある。取材陣に対する当たりのよさは中央に乗り始めるようになって以来のことだけれども、何より競馬に乗るのをほんとうに楽しむようになっている、そんな感じが身体からにじみ出ているのだ。

 

「春先、重賞をいくつも続けて勝った時に比べたら、正直、ゴール前にしぶとさが前ほどのうなったような気がするなあ。何が何でも勝ちに行くところが薄うなったというかな。やっぱり腹いっぱいになったのが大きいんかも知れんけど、でも、カツミが本気出したら、まだまだあんなもんやないと思うんやけどねえ」

 

 これは、地元東海のあるベテラン記者の言。中央に行ってみてどうよ、といった問いかけにも、(追い切りも入れて)週三日(トレセンに)通えばええんやからラクよね、と言っていた由。そりゃそうだろう、笠松にいた頃ならば、いくら重役出勤とは言え、朝の調教には顔を出さないわけにはいかなったのだろうから。

 本気出したらあんなもんやない――笠松時代からアンカツを知るろくでなしたちの多くは、今もそう思っている。

 チューリップ賞から中京記念フィリーズレビューといきなり重賞三連勝、次の阪神大賞典も二着と連対を続け、その勢いで高松宮記念でついに念願のGⅠ初制覇。「遅れてきた新人騎手」アンカツのこの春先の大暴れは、彼の中央での免許取得を後押ししてきたろくでなしたちを十分に満足させるものだった。ほれみろ、やっぱりアンカツはすごいやろ――まるで古くからの知り合いのようにアンカツを自慢する彼らの声には、そのままだと埋もれていたかも知れない才能を晴れ舞台に引っ張り出すのにひと役買った、そんな誇りに満ちている。

f:id:king-biscuit:20200125075153j:plain

 手もとに、安藤勝巳JRA重賞競走騎乗成績一覧という資料がある。

 94年1月、平安ステークスでのトミシノポルンガ以来、すでに100戦以上。ざっと眺めてみて改めて思うのは、ライデンリーダーレジェンドハンターなどの誰もが知っているようなスターホースを別にしたら、騎乗馬には決して有力馬と言えない馬が少なくないということ、そしてそういう馬を人気以上に走らせているということだ。

 99年の鳴尾記念スエヒロコマンダーの二着に突っ込んできたテナシャスバイオ。00年のマイラーズカップマイネルマックスの三着に食い込んだエイシンルバーン。02年の京都新聞杯で勝ったファストタテヤマに追いすがったキーボランチは七番人気の激走だったし、産経大阪杯トーホウドリームに至ってはなんと九番人気だった。その他、五番人気でマーメイドステークスを制したフサイチエアデールや、その翌年、四番人気で同じレースを勝ったタイキポーラなどは言うまでもない。条件戦にまで広げれば、その人気と結果のバランスシートはさらにすばらしいものになるはずだ。ユタカとアンカツと外人騎手のボックスでおさえておけば損はない――去年の後半あたりから、関西のろくでなしたちの間でそのようなことが言われ始めたというのも、なるほどわからないではない。カラスの鳴かない日はあってもアンカツの勝たない日はない、というのは、笠松時代のろくでなしたちのもの言いだったというが、なけなしのふところをはたいて馬券を買う側からすれば、安藤勝巳という騎手のそういう信頼感はまた格別なものになっている。

 もちろん、それらの背後には、彼を中央で乗せるために条件級の交流戦をそれこそ着外覚悟で使いに来ていた地元笠松の無名の馬たちと、それらの馬を支えた厩舎関係者たちがいる。そんな障害をひとつずつ乗り越えた上でのこの成績なのだ。逆に言えば、アンカツとその周辺がこの十年あまり、ニッポン競馬にある地方と中央との間の理不尽な垣根を、身体ごと押し広げてきたことの証しでもある。

 世間のろくでなしのアンカツの名前が広く知られるようになったのは、やはりライデンリーダーの時だろう。笠松の名伯楽として知られた故荒川調教師の管理のまま、95年春、四歳牝馬特別を直線一気の差し脚で勝ち、桜花賞では堂々一番人気。しかし、結果は四着。あのレースを、さて、みなさんはどう見ていただろうか。

「結果よりも、思うように乗れなかったのが悔しかった」

「進路はみんなが勝つために取り合うわけだから、自分のミスで包まれただけ。思ったようなレースができなかったのはあくまでも自分のミスですよ」

 道中、どう見ても中央勢に包まれて動くに動けないような態勢になっていたことも含めて、アンカツは一切言い訳めいたことを言っていない。結構取材などが殺到し初めて、メディアでの露出も増えていた時期のことだ。このあたりのことはアンカツ自身、決して言うまいと決めているようなところがある。

「スタートしてすぐに、ペースが速いなあ、と思った。自分がこれまで乗った馬の中でも飛び抜けて強い馬というわけやなかったからね。阪神の時(四歳牝馬特別)はむしろ、あれ、この馬こんなに走るんだ、と思ったくらいだった」

 芝のレースのことがまだよくわからないままにトライアルを勝ってしまい、そのせいで本番でもうまく馬の力を引き出せないままに終わってしまった――彼がこのライデンリーダーとの経験を語る時のポイントはそういうことだ。中央と地方の違い、ダートの小回りと芝の勝負の違い、そんなものを肌で思い知ったのがこのライデンリーダーの時だった、ということになっている。おそらくその通りだろう。

 だから、アンカツ伝説、というものがあるとしたら、このライデンリーダーを境にしてふたつにわかれるような気がする。ライデンリーダーをきっかけに全国区の、それこそ中央競馬の舞台に注目するようなろくでなしたちにも知られるようになっていった、何よりそうなることを望んだアンカツと、それ以前、地方競馬が今よりもずっと小さな、狭い世界の中で安住していた頃の「お山の大将」のアンカツ、そのふたつが目の前の安藤勝巳の身体には共に存在している。そして、そのふたつは、今「中央のアンカツ」を当たり前のものとして眺めているわれわれの考えている以上に、違うもののように思えるのだ。

 たとえば、フェートノーザンという馬がいた。

 あのオグリキャップが中央で活躍していた頃、脚をいためて中央から笠松にやってきた。父はスワップスの直子、フェートメーカー。地方競馬で5戦5勝はまるでマルゼンスキー並みの怪物ぶり。そして母の父はドレスアップ。生粋アメリカ血統のダート専用とも言える、まるで大排気量の四輪駆動車のような配合で、門別や新冠あたりの小さな、しかし間違いなく「クロい」牧場で生産された賞金稼ぎの臭いがプンプンしていた。

 アンカツの師匠だった故吉田秋好調教師の元に預けられた彼は、脚部の故障を何とか癒しながら笠松で17戦14勝2着2回3着1回という成績を残し、最後の18戦目、全日本サラブレッドカップ競走中止、ついに帰らぬ馬となった。ついでに言えば、この馬に心血を注いだことで心身共に消耗したと語っていたその吉田師もまた、九一年に急逝した。ライデンリーダーの荒川師といい、少し前に突然倒れた柳江師といい、笠松でリーディングトレーナーの上位を占めた調教師たちは、なぜか身体を壊して急逝する。それだけ過酷な仕事を日々やっているということなのだろうか。

 89年、大井の帝王賞にやってきたフェートノーザンの勝ちっぷりは今でも語り種だ。実はその二年前、まだ中央にいた頃に一度この帝王賞に挑戦にきて、佐々木竹見テツノカチドキから時計三つもちぎられるブービー負けを喫していた。同じフェートメーカーの賞金稼ぎとして鳴らしたカウンテスアップや、勇躍オールカマーにも挑戦した三白眼のガルダン、葦毛の快速馬アイランドハンターやツボにはまると息の長い末脚を使った個性派ウメノスペンサーといった、当時おそらくある意味で頂点を迎えていた南関東の強豪相手だったとは言え、三番人気でのこの負けっぷりは屈辱だったはずだ。

 その後笠松に転じて脚の故障を癒しながらパワーアップ、捲土重来を期しての再挑戦は、それまでの成績が中央入り前のイナリワンを一蹴した全日本サラブレッドカップも含めた五連勝という派手さもあって、ろくでなしたちの支持も集めて堂々の一番人気。中央からは武豊のケイコバンや岡部のタイガールイス、南井のダイナオリンピアなども参戦していたけれども、この頃の地方競馬は最近のように「馬場を貸すだけ」ではなかった。このレースの後、笠松に転じて同じ吉田秋好厩舎所属になるアエロプラーヌ的場文男を背にして先行、それに石川綱夫から高橋三郎に手が変わってひと皮むけていたアラナスモンタが猛然と食い下がる直線、さらにその後ろから、まさに満を持してという感じで、重戦車のようにぐいぐい追い込んできたのがアンカツフェートノーザンだった。砂塵で馬群が見えなくなるほどだった、という印象がずっと残っている。実際はそれほどではなかったのかも知れないけれども、四コーナーの後ろからさす夕陽に映えた姿は忘れられない。


1989年帝王賞 フェートノーザン

 勝ち時計は2分7秒3。最近は中央馬が平然と2分4秒を切ってくるのと比べると確かに遅い。遅いけれども、だが競馬は時計だけじゃない。断じて違う。あの深くて滑る大井の砂馬場をあんなところからあんな風に蹴立てて追い込んできた馬はそうはいない。

 「強さ」というのは断じて数字だけで表現され得るものではない。その場、その勝負に宿ったまごうかたない「力」の気配。そしてその「力」を存分に引き出すノリヤクとの協同。そしてレースを凝視するろくでなしたちの想い――そんなものが全てごたまぜになったところに奇跡のように宿る、それこそが「強さ」なのだ。上演としての濃さ、かけがえのなさがあって、数字もデータも初めて、生きたものとしてうごめき始める。

 今のようにダート重賞が中央でもたくさんあって、また地方も含めたダートグレード体系がある程度整備されていたら、このフェートノーザン、おそらく中央競馬でも歴史的な名馬として名前を残していたに違いない。国内のダートでは事実上敵なしでアメリカ遠征の話まで出ていたくらい。個人的な感想で恐縮だけれども、ダートであれくらいとんでもない「強さ」を感じさせてくれたのは、全盛時のテツノカチドキやホスピタリティ、そしてずっとくだって先年のクロフネぐらいかも知れない。

 そのフェートノーザンの「強さ」を引き出していたのが、当時の主戦アンカツだった。五百キロ台半ばのいかつい馬体に、あたりの馬をなぎ倒してゆくような差し脚。あまりの強さに地元のオープン戦ではついに68キロまで背負わされ、それでも楽勝したというバケモノぶり。とにかく中距離以上のダート戦での安定感は抜群で、アンカツ自身「芝は全然ダメやったけど、ダートならこの馬が最強だよ」と言っている。

 ただ、どうなのだろう、今の芝の競馬にあわせたフォームや騎乗っぷりになっているアンカツが乗ったら、果たしてあれだけの成績を残せたかどうか。力のいる馬場を身体ごとぐいぐい押して動かしてゆくような地方ならではの強引な追い方こそが、フェートノーザンの頃のアンカツだったのだから。

「あの頃の人はみんな、馬は追えば動く、という考え方やったからね。馬乗るんでもあの先生はアブミが短いと気に食わんのですよ。だからこっちがアブミ短くしてると黙ってアブミ伸ばしていったり、もう勝手に直されたんやけどね」

 騎手あがりの調教師でもあった師匠、故吉田師のことを語った時の彼の言葉だ。

 どこかしら脚もとに故障を抱えていたり、歩様がゴトゴトしていたり、腰が甘かったりと、地方の小さな競馬場にやってくるような馬たちの多くはそんなものだったし、今もそれは基本的に同じだ。そんな馬たちでダートの小回り馬場を走るために必要とされる技術と、中央の芝を走るための技術との間に違いがあったとしても不思議ではない。アンカツだけではない、小牧太岩田康誠吉田稔といったアンカツに続くべき地方の名手たちもまた、中央で騎乗する機会が増えてゆくにつれてその騎乗方法を微妙に変えていっている。重心の位置を後ろにさげたり、アブミの長さを変えたり、道中の手綱のさばき具合を工夫したり、単にダートと芝というだけでない、競馬そのものの違いというのは地方と中央の間はもちろんのこと、地方競馬同士でさえも、われわれが考える以上にあったりする。

 全国区のノリヤクになってゆけるということは、そのような「違い」を敏感に察知して対応してゆく、それだけの器量や柔軟さが求められるということでもある。当然、「強さ」にもまたその表現されるべきかたちに「違い」がある。そのことにおそらく、アンカツはゆっくりと、自分の身体で確認しながら気づいていったのではないか。

f:id:king-biscuit:20050409065213:image

 マックスフリートの名前も、もう忘れられているのだろう。

 「女オグリ」と呼ばれたこともある笠松の女傑。全国区の重賞では大井の帝王賞でのいささか不完全燃焼な9着があるくらいで、東海地区での牡馬顔負けの強さをいまひとつ印象づけられないままだったが、その潜在能力の高さはアンカツ自身高く買っていた。ロジータとどちらが強いか、と一部で論議になったこともなつかしい。

 実はアンカツは案外、牝馬と相性がいい。お手馬ライデンリーダーヤマカツリリーの名前はすぐ出てくるだろうし、中央所属となっての初重賞制覇もオースミハルカでのチューリップ賞だった。中央のレースに慣れ、芝の飛ぶような競馬に適応するようになってからはなおのこと、力でゴリゴリ押すようなタイプの馬よりも、牝馬のような折り合いに気をつかわねばならない、ある意味繊細でナーヴァスな馬の方が今の彼には向いているような気がする。

 ならば、スズノキャスターというのはご存じか。サラブレッドではない、アラブの、おそらくはあの「魔女」イナリトウザイと並ぶほどの名牝。当時敵なし、サラを向こうに回して勝ち負けをしていた大井の怪物トチノミネフジに、二年続けて全日本アラブ大賞典で勝負を挑んだ稀代の女丈夫だ。こちらも地元東海地区ではアラブの相手がいなくなり、サラとの競馬で勝ち負けをしていた。トチノミネフジの主戦はアンカツ那須教養センター時代の同期で親友の早田秀治。この同期のふたりが暮れの大井でのちのちまで語り草になる叩き合いを演じた。それもアラブの牡馬と牝馬で。その前年、同じこのレースに挑戦した時の鞍上はアンカツではなく、ハマちゃんの愛称で親しまれる浜口楠彦。ダートの2600メートルというのは、当時大井では2800メートルだった東京大賞典並みの過酷さだったが、それを二年続けて牝馬の彼女が闘い、しかも当時無敵のトチノミネフジの半馬身差、クビ差にまで食い下がったのだ。この馬も、ダートの小回り馬場での「強さ」を表現してくれたという意味では、ライデンリーダー以前のアンカツを象徴する馬の一頭だと思う。

 そうだ、トミシノポルンガもいたぞ。大井の三冠馬サンオーイの忘れ形見にして、平安ステークス3着オールカマー4着、さらに芝の中京でテレビ愛知杯までも勝った馬。アンカツに騎乗停止と一年間の限定免許という屈辱も与えたけれども、水沢のダービーグランプリで2000勝目をプレゼントもした馬。フェートノーザンほどではなかったにせよ、中距離以上のダートでの信頼性は高かった。アンカツ自身「早い時期に中央に行ってれば、もっと芝で活躍できたかも知れない」と言っているように、これも軽い馬場での適性が意外と眠っていた馬かも知れないと思う。

 あるいは、レジェンドハンター。一時は「オグリキャップの再来」とまで言われたあのレジェンドハンターでさえも、今の「中央のアンカツ」伝説にとっては記憶の彼方になりつつあるのは哀しい。笠松での能力試験の時に、時計をとっていたトラックマンたちが全員「時計がこわれとるんやないか」と口を揃えて言ったというほどの快速ぶり。またがったアンカツがあがってきて馬について尋ねられて曰く、「三コーナーでションベンしとっても勝てるわ」。ほんとは兄貴の安藤光彰が乗るはずだったのをあんまり動く馬なので何とか横取りした、という逸話もお茶目でいい。アンカツのまわりにはこういう「いい話」が結構転がっている。そのあたりが武豊などのいまどきの中央育ちのノリヤクと違うところなのかも知れない。

 京都のデイリー杯三歳ステークスを勝って、勇躍参戦した朝日杯は一番人気ながら、早仕かけがたたって最後はエイシンプレストンに差され僅差の二着惜敗。「自分がヘタだったから」とアンカツは素直にコメントしている。実際、中山からの帰りの新幹線で馬主に電話をして平あやまりにあやまったという。関西での騎乗は増えていても、関東の馬場をまだよく知らない頃のこと、中山のマイルでの乗り方も今のアンカツならばもっと違ってきているはずだ。馬自身、一時は億単位ともささやかれたトレードマネーが積まれながら、未だ笠松在厩のまま現役。このところは脚部の不安に泣かされてかつての快速ぶりも影をひそめているけれども、できればどこかでもう一度、中央の競馬で「脚をどれだけためてゆけるか」を覚えたアンカツを背にしたレジェンドハンターの復活劇を観たいと、切実に思う。

「中央でGⅠを獲りたいね」

 取材に対してアンカツがはっきりと口に出すようになったのは、このレジェンドハンターのあたりからだったように思う。それがはっきりと手に届くところまで来ている、そのことを実感した上でのことだったのだろう。2000年に入ってからはリワードフォコン毎日杯、ロードプラチナム産経大阪杯エイシンルバーンの読売マイラーズカップと、重賞での惜しい2着、3着がこの頃続いている。宝塚記念ステイゴールドで四着。マル地のフジノテンビーで前年のレジェンドハンターに続いてデイリー杯を制した頃にはもう、重賞でもアンカツの乗る馬は必ず人気になるようになっていた。

 結局、もう誰もがよく知っているように、GⅠ初制覇はこの春、高松宮記念のビリーヴだったのだけれども、中央に正式に移籍以来、土日のたびの重賞勝ち三連チャンの暴れっぷりに、GⅠだってもう時間の問題、という気分の方が正直強かったのも確かだ。アンカツのために松元調教師がビリーヴを用意したと聞いた時、ああ、きっとこれで決めるんだろうな、と思っていた。

 思って、馬券は買わなかった。場外のモニターでレースっぷりだけをそっと眺めた。

 三番人気。かつて初めて呼ばれた地方競馬騎手招待競走をヤマニンスキーでいきなり勝って、関係者から「あのアンちゃんをくれないか」と懇願されたという、その同じ中京競馬場の芝6ハロン。以前乗っていたいずれわけありな馬たちとはまるで違う、泣く子も黙る社台ファーム生産のサンデーサイレンス産駒を駆ったアンカツにとってそれは、おそらく口笛でも吹きたくなるくらいの軽い、それこそ風に身をまかせるようなゆったりとしたレースだったのではないだろうか。

「場外のすすけたモニターの中、アンカツが笑っていました。あのブラック・ジャックのようなしぶい男前のいい笑顔で、ほれ、威風堂々と」

 ある雑誌の原稿にそう書いた。あれだけ欲しかったはずの中央のGⅠがあっさりと手におさまった瞬間。なのに、GⅠだからと大仰に構えるでもなく、ことの必然としていま自分はこの場にいるんだ――そんなあたりまえさで、アンカツは淡々と画面におさまっていた。思えばビリーヴも牝馬。昨年秋のスプリンターズステークスに続く短距離GⅠ二勝目。世界水準に到達し始めた中央の、まさにその象徴のような馬とレースとで達成したアンカツの初GⅠ。その身を包んでいるのがもうあの見慣れた勝負服でないように、かつてのやんちゃで向こう意気が強くて、どこかギラギラしていた頃のアンカツでは、おそらくもうない。そんな新たな伝説を生き始めたアンカツがどれだけ楽しげに馬に乗り、レースを引き出してくれるのか。そのことをめいっぱい楽しめる幸せをこっちもまた、満喫してやろうと思う。

 さて、話は冒頭に戻る。

 朝一番の便で千歳から花巻に飛んだその日、盛岡でのクラスターカップアンカツの乗ったディバインシルバーは、あの難しい盛岡のダート(なにせ直線に坂がある)を一気にレコードで逃げ切った。道中、笠松のシャンハイダロンがからんできたけれどもそこは中央調教馬、スピードが違う。人気はというと武豊の乗るスターキングマンの方が一番人気だったのだけれども、最近ひと頃の冴えにかげりの見えるユタカはテンから追走に苦労する始末。三コーナー過ぎから何とか追い上げて二着は確保したけれども、結局アンカツに七馬身もちぎられることになってしまった。勝ったディバインシルバーは昨日の旭川と同じシルバーディピュティ産駒。強かったねえ、との声に、「馬が気持ちよう走ってくれたからね」とにっこり。なんの、気持ちよさげに走っていたのはアンカツ、あんたも同じだよ。

 同じダートと言いながら、持ち前のスピードでかるがると他の馬を離してゆけるような馬に多くまたがれるようになった「中央のアンカツ」は、翌日の札幌での騎乗の関係から表彰式もそこそこに、競馬場をあとにする。

 「センセイ、これ、お願いしますね」

 脱いだ勝負服をその場で調教師に渡して、まとめた荷物を抱えながらタクシーの方へ向かう彼の後ろ姿は、もう立派にJRA所属の花形騎手だった。 


第1回全日本サラブレッドカップ