場外のすすけたモニターの中、アンカツが笑っていました。あのブラックジャックのようなしぶい男前のいい笑顔で、ほれ、威風堂々と。
身につけている勝負服はあの見慣れた青・胴白山形一本輪・黄袖のトレードマーク、きっと一生もんが約束だったはずの地方競馬じゃおなじみ、天下のアンカツデザインじゃあもうないのだけれども。
「まるで松井みてえだなあ、おい」
そばで同じようにモニターを見上げていた誰かが、そう言うのが聞こえました。
海の向こうの大リーグ、ヤンキースに渡ってからの松井秀喜が、ほんとに楽しそうな顔で野球をしている。野球に興味のない人でも、テレビを通してその楽しさはたっぷりと伝わってくる。それと同じように、アンカツもまた春の日差しの中、なるほど、ほんとにいい顔で笑っていました。
安藤勝巳騎手、43歳――愛称アンカツ。この三月から晴れてJRA所属騎手としてレースに騎乗。6日、桜の咲き始めた阪神競馬場で行われたGⅡ産経大阪杯を、三番人気のタガノマイバッハを駆って、ひたすら逃げる一番人気の強豪マグナーテンを大名マーク。中央特有のハイペースもものかわ、道中息を入れさせないようにびっしりつつきまくったあげく、直線ではこれをぐいぐい競り落として快勝。中央の免許取得以来わずか6週間の間になんとGⅠ高松宮杯を含む重賞5勝。しかもこれがちょうどJRAでの通算200勝にあたるというすさまじい暴れっぷりで、売り上げ低下とファン離れでひところの勢いもなくなり、脂ッ気も抜かれてヘタレているJRA界隈では、近ごろちょっとばかり景気のいい話ではありました。
そう、ほんとに少し前までのイケイケはどこへやら、今や競馬というのはもうそれほど人気のあるレジャーではなくなっています。今は昔、かのバブル全盛の頃、猫も杓子も競馬場に行き、若いオンナのコや子どもまでもが、馬券よ、血統よ、とそぞろ盛り上がったのも夢のよう。いや、しょせんいつの世も流行りものとはそういうもの、栄枯盛衰は常のことで珍しくもないのですが、
ともあれこのアンカツ、さっき触れたように、もともとJRAの騎手じゃない。岐阜県は笠松競馬場、一周1400メートルに満たない小さな競馬場で苦節二十年以上、じっくり腕を磨いてきたたたき上げなのであります。世間じゃ、オグリキャップが出たことで知られるこの競馬場。当時ここからJRAに殴り込み、武豊などを背に並みいる良血馬を蹴散らして一躍ぬいぐるみその他のキャラクターグッズまでがつくられる騒ぎで稀代のアイドルホースとなったかのオグリキャップも、笠松時代は他でもない、このアンカツが主戦騎手でした。
え、競馬のことってよくわかんない、って? ふむ、だったら結構、このあたしがご説明申し上げましょう。このアンカツがさて、どれくらい凄腕の名人上手なのか。
地方競馬の開催は、土日週末開催の中央と違ってほとんどが平日。アンカツくらいの腕達者になると騎乗依頼が途切れないから、一日に五鞍や六鞍は平気で乗ります。レースのある日ばかりが仕事じゃない。朝は朝で早くから調教もつける。それもほぼ一年三六五日。さすがに近年はそれほど調教には顔を見せなくなったものの、それでも若い頃は日に十頭以上の馬に稽古つけるのは地方じゃ当たり前。なにせざっと計算したら、一日にのべ六時間以上も馬の上、全く馬にまたがらない日は年に数日しかないってんですから、もうあなた、稼業としての競馬、それも地方競馬のなりわいってのは心底大変なんです。
そんな過酷な日々を十代半ばから送りながら、地元の競馬で腕を磨き、ここ数年はJRAのレースにも参戦、リーディングジョッキーランキングの十位以内につけたりしていたのだから、こりゃもうほんとにバケモノ。たとえて言えば、イチローがパリーグで三冠王独走しながら、身体のあいた日にセリーグで代打に出てホームラン王争いしているようなもの。しかも、地方通算三千勝以上の勝ち星だけでなく、地元での連対率(二着までに来る確率)はコンスタントに三割以上、一時期は五割を超えたこともあるというんですから、もう競馬好きのろくでなしたちにとっちゃあ神様みたいなもんです。
さて、不思議なことにわがニッポンには、JRA――日本中央競馬会が主催する中央競馬と、地方自治体が主催する地方競馬のふたつの競馬があります。週末、テレビや新聞その他で華やかに紹介され、最近じゃ人気タレントを使ったCMまで流される競馬は、まず九割までがこの中央競馬。ここ数年、少しずつ地方競馬との交流競走などが増えてきて、また馬だけでなく騎手もアンカツに代表される地方所属の騎手が中央競馬で乗るようになってはいるものの、未だに地方競馬というのは日陰者。同じ競馬、同じ馬で世渡りする稼業でありながら、騎手はもちろん調教師、厩務員といった厩舎関係者はその仕事ぶり、その腕を天下に披露し、まっとうに評価されるチャンスが十分に与えられていない、言わば裏街道の身の上なのであります。
何よりアンカツ自身、この中央の騎手免許を獲得するまでには苦節数年、地元の調教師始め、仲間の協力を得ながら中央での交流競走に参戦するための厳しい条件をクリアしつつ、騎乗依頼もロクにないゼロから出発して今のこの地位を獲得してきた。そうやって中央での実績を積んで、一昨年の秋に無理と言われながらも中央競馬の騎手免許試験を敢然と受験。案の定、一次の筆記試験で落とされるという門前払い同然の屈辱に、すでにアンカツの腕を思い知っていたろくでなしたちの抗議がJRAに殺到したそうです。その他、関西の厩舎関係者や馬主筋、予想ジャーナリズム一辺倒で悪評サクサクの記者クラブ制度どころじゃないお追従ぶりが習い性な競馬評論家たちの一部までもが、さすがにこの時ばかりは援護射撃で文句をつけてくれたこともあって、JRAも去年の夏にようやく免許制度を変更。今年になっての二度目の挑戦では事実上のOKボールで晴れて合格。これまで絶対に崩れそうになかった中央と地方の高い高い壁が、馬のみならず人間の側でもひとつ崩れた、これは相当に画期的なできごとだったわけです。
ここで示されたガイドラインというのが、受験年以前に五年間で中央競馬で年間二十勝以上の成績を二度あげた地方所属騎手は中央競馬騎手免許の一次試験を免除する、というものでした。
「アンカツルール」とでも呼ぶべきこのものさしは、まさにアンカツクラスの腕達者、全国区の騎手でないことにはクリアできない厳しいもので、壁は相変わらず高いのですが、それでも、それまで閉ざされていた地方から中央への道を切り開いたのもまごうかたない事実。ここに至るまでには、これまで何度も中央に挑戦してはこの免許制度の厚い壁に跳ね返されてきた幾多の地方所属騎手たち(去年夏、廃止になった島根県は益田競馬場所属で、後にシンガポールやマカオで騎乗、調教師としても活躍した道川満彦騎手などの悔しい先例があるんです)の血みどろの歴史だってありました。プロのアスリート、腕一本で世渡りする掛け値なしの職人でありながら、その腕と技術をまっとうに評価してもらえないことへの鬱屈。それが少しでも晴らされる可能性が目の前に開かれたわけで、日陰者のままだった地方競馬の「もうひとつの競馬」を稼業とする騎手たちがにわかに色めきたつのも無理ありません。
「そりゃあ、中央で年間二十勝、ってのはハンパじゃないっすよ。だって、こっちの競馬場で勝負しながらでしょ。何より、騎乗依頼がないと話にならないし、そのためのコネなんてオレたちまるでないですからね。それに間があいたら、中央の芝のレース感覚も狂ってきますしねえ」
春になり、仕事をするのもようやく辛くなくなってきた朝の調教の合間。とある地方競馬場の片隅。少し前、中央で重賞をかっさらって一躍全国に名前が知られるようになった騎手が、次に乗る馬の順番待ちでステッキを弄びながら、こんなことを話してました。そう、安藤さんだからできたんですよ、でも……
「やっぱり夢は夢ですからね。これまではまるで可能性がなかったところに、ちょっとでも可能性が見えてきた。オレだって、って、そりゃあ思いますよ」
けれども、なのだ。いまやその競馬自体がいきなりなくなっちゃうかもしれないご時世だからねえ。中津や新潟、益田に足利と、どんどんつぶれてく競馬場が増えてるもんね。
「ですよねえ……」彼は少し顔を曇らせる。世間じゃ、サラリーマンがリストラとか給料10%カットとかって言われてますけど、オレたちそれどころじゃない。給料半分、会社いきなり消滅、ですからねえ。
そうなのだ。地方競馬を代表する腕きき、アンカツにようやく訪れたこの春。中央だけじゃない地方競馬も含めて競馬とずっとつきあってきたろくでなしたちにとっても間違いなくうれしいこのできごとだけど、その背後にどうしようもなくのしかかる競馬存続の危機。地方競馬から始まった「競馬場がなくなる」この流れは、中央競馬も含めたニッポン競馬全体を巻き込んだ大きなうねりとなってきている。
事実、笠松競馬場はアンカツが中央に行って以降、観客が一割ほど減ったと言います。人気凋落とは言いながら、それでもまだ週末には十万人近くも客の入る中央競馬と違い、ここらの競馬場はせいぜい一日二千人そこそこ。そんな小さな競馬場でも足を運ぶろくでなしが200人ずつもいなくなっている。もちろん、アンカツのせいだけではないのでしょうが、それでも、「アンカツのいない競馬場」は彼らろくでなしにとってさえも魅力がなくなったことは否めません。
このところこんな小さな地方競馬場が次々と開催休止、事実上の廃止に追い込まれています。
始まりはちょうどおととしの今頃、大分県の中津競馬場が、鈴木一郎という農水省天下りの市長の「明日の新年度から開催は休止する。厩舎関係者には廃業の補償はしない」という一方的な宣告ひとつでつぶされました。累積赤字が二十億円近くあったとは言うものの、その前年「九州競馬」という新しい枠組みで、佐賀や熊本県の荒尾競馬との連携が成立。その中で中津は一番売り上げも伸びていた矢先の宣告でした。突然の仕打ちに怒った厩舎関係者は厩舎団地に立てこもり、調教師から騎手、厩務員、場内の食堂のおばちゃんから予想紙の社長に至るまでが一致団結、慣れない手つきでデモやら陳情、マスコミ対策と走りまわり、一年になんなんとする闘争を続けて何とかわずかばかりの補償(約2億数千万円)だけは勝ち取りましたが、結局この時の経験は「中津方式」として、赤字に苦しむ地方競馬の主催者たちの間に「そうか、こういう手もありなんだ」という、悪い教訓を残すことになりました。及ばずながらこのあたしも約半年間、なんだかんだと現場に貼りついて支援、一年間の闘争と中津競馬を仕事として生きてきた人々の記録として『中津競馬物語』(不知火書房)というささやかな本まで監修させていただいたんですが、厩舎の人々の多くはちりぢりばらばら。調教師や騎手たちはそれぞれ別の職場に移籍。中には全国区の名手、アンカツと同じ3000勝ジョッキーの有馬澄男騎手などもいたのですが、兵庫県の園田競馬に移るに際しては一年間、騎手免許をいったん返上して厩務員として働いてから再受験、という回り道を余儀なくされる辛い話もありました。
それから後はまさにドミノ倒し。去年の一月には、新潟県の新潟競馬(新潟県と新潟、三条、豊栄の三市の主催)がほとんど何の抵抗も見せずに陥落。中津で一年も現場に闘われた先例を見習ってか、ここでは馬主会が主催者と結託して根回しをしてあらかじめ厩舎サイドを切り崩し、結果ほとんど無血開城というか音無しの廃止劇になりました。こちらは補償総額約13億円。調教師や騎手たちのうち、移れる者は群馬県の高崎、山形県の上山などの競馬場に散ってゆきましたが、厩務員さんたちの再就職は厳しいものでした。
続いて夏八月には、「日本一小さな競馬場」と呼ばれたその益田競馬が六十数年の歴史に幕。こちらも新潟同様、補償を最初からある程度考慮してのことだったので、年度途中での廃止にもそれほどの軋轢がないままでした。ここでも厩舎関係者の次の仕事先が問題になりましたが、やはり移れる者は広島県の福山や上山などにそれぞれ身を移してゆきました。中でも若手の人気者だった 御神本訓史騎手は異例中の異例で南関東の大井競馬に移籍。主催者同士の話し合いがあったと言われていますが、先の有馬騎手のケースと比べていささか不条理な取り扱いになっていたのも事実です。
さらに今年に入ってからは、栃木県の足利競馬が二月の開催を最後に開催を休止。ここは主催者側が「厩舎関係者からひとりの失職者も出さない」という態度を示して、同県宇都宮競馬の外厩(言わば、トレーニングセンター)として残すという形でひとまず決着。仕事が残るということで、それまでの三場のような職場も生活の場も根こそぎなくなってしまうという切迫感がないのが救いと言えば救いでしたが、それでも、当のその宇都宮競馬自体が経営困難で存廃がささやかれているわけで、決して先行き安泰とは言えません。
累積赤字はここも約20億。年間の赤字が2〜3億ずつたまっての廃止ですが、ただ、同じ北関東ブロックの高崎あたりが一日の売り上げ6000万くらいまで落ちてもまだ頑張っているのにたいして、まだ8000万ほど売り上げる足利が廃止というのは納得いかない、という声も。その証拠に、廃止のセレモニーで主催者が「十全の努力をしてきたのですが……」などと挨拶していたのに対し、スタンドのろくでなしたちからは「うそつけ〜ッ」と、まっとうすぎるヤジが飛んでました。
新潟から高崎に移籍してきた赤間亨調教師曰く、
「船橋で5〜6年(厩務員で)頑張れば調教師免許とれるよ、と言ってくれる仲間もいたんだけど、やっぱりあたしらは競馬やってなんぼ、だからねえ。調教師って肩書きがなくなると相手されなくなるんだよ。だから、苦しくても条件悪くても競馬が続けられる高崎に移ったんだけどね」
その高崎も、そして上山も、四国の高知も、さらには馬産地北海道でさえも、いまや地方競馬はどこも存廃議論が俎上にのぼり、「明日はわが身」の苦しい立場に置かれています。ますます居場所のなくなる小さな競馬、そしてその競馬を暮らしの場としている人々の日常。華やかな中央競馬の向こう側にある地方競馬の現在から、ニッポン競馬を襲う未曽有の地殻変動のありようを少しじっくり、探ってみたいと思います。