●改めて、いま、「民俗誌」を語ることの意味
*1
「民俗誌」というもの言いがあります。ずっとあったし、いまでもどうやらあるらしい。
大昔によく言われた「ふたつのミンゾクガク」というのがありました。民俗学と民族学、日本語にしたらどちらも同じ発音のこのふたつの学問領域は、しかしそれぞれ異なる経緯でこの国に育ってきたことをさして言われたもの言いです。
それと同様、この「民俗誌」もまた「民族誌」と表記される場合もあって、それはそれで「エスノグラフィー」とか「モノグラフ」とかカタカナ書きに転換されることもあるようですが、ならばそれらのどこが具体的にどう違うのか、きちんと整理して説明されたことはまずありません。民俗学の界隈ではおおむね「民俗誌」というもの言いで通っていて、そしてそれは「民族誌」「エスノグラフィー」「モノグラフ」その他類似の単語と漠然といっしょくたになって認識されているようなものです。
その内実については、たとえば、あるひとつのムラなり地域なり、一定の限られた社会における文化の総合的記述、といった程度でくくっておいて、まず間違いではないでしょう。文字通りに「民俗」を記述した「誌」、ということになりますか。となると、じゃあその「民俗」ってそもそも何なの、という問いだって当然出てくるわけですが、これまた民俗学におけるお約束、概念定義をめぐる不毛きわまりない論争になってゆくので、ここでは触れないことにします。そのあたりの不毛さ、自家撞着ぶりの来歴については、かつてあたしが書いた「常民・民俗・伝承」などを参照していただくとわかりやすいでしょう。*2いずれにせよこの「民俗」、便宜上はごくゆるやかに「文化」とでも変換しておくのが無難で、もう少し絞りたいならばその「文化」に何か属性をくっつけて「伝承文化」「生活文化」「常民文化」などといったくらいにしておくのが妥当だと思われます。そしてそれらをどのような形にせよ、記述したものが「民俗誌」ということになるようです。
この「民俗誌」というもの言いは、民俗学の界隈ではかなり輝かしいものでした。
実際、それはある時期まで、ある特殊な思い入れや憧憬、何か駆り立てられるような想いの依代となっていました。いまとなってはもはやにわかには信じられないかもしれませんが、少なくとも民俗学とその周辺に向かうような傾きを持った自意識にとって、かつて「民俗誌」というのは、何か避けて通れない大きな関門のようになっていました。それは「調査」という営みとセットになって、一人前の民俗学者になろうとしてゆく時の通過儀礼のような語られ方、扱われ方をしていたものでした。
とは言え、不思議なことにそれは、当の民俗学のふところでは決して達成されることのないものでもありました。
嘘じゃない。ほとんどの民俗学者たちはできあがったブツ、これがそうだよ、と指し示される完成品としての民俗誌にお目にかかったことは、まずありませんでした。たまさか民俗誌と称されたり、またそのように扱われるものがあったとしても、必ずそれは完成したものではなくまだ未完のもの、この先まだ目指すべき地点の必ずあるもの、という含みと共に示されるのが常でした。言わば「オトナ」にならないまんま、常に「青年」であるようなものとしてのみ「民俗誌」は存在することができた。このような言い方でうまく伝わるものかどうかわかりませんが、少なくとも「民俗誌」というもの言いの輝かしさや、そこにまつわっていた幻想も含めて同時代で呼吸し、感得し得た者にとってそれは、かなりの程度共感できるものだろうと思います。
けれども、それがほんとうに輝かしかったことを覚えているのは、民俗学者を名乗る人々の間でも、せいぜいもう四十代から上になるのでしょう。もっと言えばおそらく、四十代も半ばから上。大学などに体よくもぐり込んでいるならば研究者としてのキャリアもそろそろ先が見え、かつてその「民俗誌」が輝いていたことの記憶もまた、色褪せてきているあたりです。当時のように「民俗誌」というもの言いに何か心疼くものを覚えることは、今の三十代から下には、幸か不幸か、あまりなくなっているはずです。そして、それはおそらく民俗学界隈固有の問題というわけでもない。「民俗誌」ないしは「民俗誌的なるもの」をめぐる同時代の情報環境が変貌していった結果の、ある種必然とでも言うべきものだと思いますし、またそのことを過剰に嘆くつもりもあたしにはありません。
いずれにせよ、このような意味での「民俗誌」というのが、ならば具体的にどういうものか。それを尋ねてみたとしても、おそらく人によってかなりの振幅でヴァリエーションが出てくることと思います。それはなにも民俗学者を自認した人でなくても、文化人類学や社会学といった分野にまで風呂敷を広げてみても構わない。いささか誇張して言えば、「民俗誌」や、それに準じた「記述」をどのようなものとしてとらえているか、によって、その人の民俗学、あるいは属する学問というものに対するイメージはもとより、その人がどういう知的形成を経てきた人なのかまでかなりの部分が明らかになってくる――「民俗誌」というのはそんな機能をあらかじめ仕込まれたもの言いでもあるようです。それは最大限に射程を伸ばしたところで言えば、日本語の間尺で構想されてきた文科系の学問における「記述」というのがどのような位相で主体に刷り込まれてきたか、という問いにもつながってきます。
ともあれ、ひとまず事態は自分の手もと足もと、他ならぬ民俗学での事情です。果たしていつ頃から「民俗誌」をめぐる状況はこういう不思議で難儀なことになってきたのでしょうか。
まず、「民俗誌」が言及されるような学問というのはどのようなものか。少なくとも理科系、自然科学系統のそれでなく、いわゆる文科系――人文・社会科学系統の学問であることは言うまでもない。それらの学問が学問であることを最も根底で保証しているのは何かと言えば、それは本質的にコミュニケーションの体系であり、ひらたく言えばある一定の範囲での安定した情報交換と流通、そしてその上に成り立つ穏当な解釈の相互体、と言っていいでしょう。つまり、それが学問であるか否か、というのは、ある手続きによって生産され、アウトプットされた仕事が単にひとりよがりな思い込みにだけ依拠したものではなく、ある開かれたプロセスによって相互に確認できる場と経緯とが保証されていて、その上でなお、当の「記述」が一定の幅と広がりの中で共有してゆけること、が求められることになります。
だとすれば、たとえば既成の大学や研究室といったいわゆるアカデミーを軸にしたそのような体系を構築してくることが良くも悪くも乏しかった日本の民俗学が、たとえ嘘でも学問として成り立ってきたかのように、主として文字の知性を中心とした世間に思われてきたのは、やはりかの柳田国男が中心になってこさえてきたいくつかの雑誌/交通系がようやく民間伝承の会としてあるまとまりを示すようになった頃から、と言っていいでしょう。具体的には昭和初期、1930年代のことです。
ならば、その段階で他ならぬ「民俗誌」は同じように輝かしいものとして語られていたのか。ざっくり言って答は否、です。
当時の民俗学の水準では、「現地調査」というのはあの「採集手帖」による「民俗」という名の文化要素の「採集」が第一義の目的であり、それらの「民俗」をどのような手続きで「記述」の方へとまとめあげてゆくのかについては、当初の民間伝承の会の中に確たる方針はなかったと言っていいでしょう。もしもあったとしても、それは柳田国男個人の頭の中に、理想像に近いある枠組みとして存在していたくらいで、果たしてそれが同時に会員の間に共有される共通理解としてあったかどうか。あたしの見解ではそれはかなり難しかったと思います。
とすれば、当時「民俗誌」は構想としてあったとしても、柳田国男の頭の中にある到達地点、ひとつの理想の「記述」としてせいぜいあり得たくらいで、現実に当時ひな型になるものがあったわけではない。仮にあったとしても、それは個々の会員間に共通理解となっていたわけではない、と。もちろん、改めて確認しておかなければなりませんが、そのひな型というのは民俗学の外側、それまでの柳田国男がくぐり抜けてきたいわゆる近代文学の揺籃期、書き言葉と話し言葉、文字と声、テキストとオーラリティの複合的な相剋が同時代の情報環境の激変として、大きなうねりのように同時代を襲っていた明治から大正期にかけての経緯の内側に、正しく宿ったものでした。それはたとえば、藤村流の写生文や、あるいは鏡花流の記述、はたまた実録もの小説に宿った警察的リアリズムの文体や、「日本風景論」に刺激された新鮮な紀行文に旅行文学、さらに場合によっては速記術の普及に媒介された口承芸能ベースの読み物テキストの生成などなど、いずれとりとめなくも膨大な過程なども視野に入れた、広大かつ茫漠とした「国民国家」を前提とする「国語」の生起を遠く望む強靱な知的視力、言葉本来の意味での歴史的洞察力を必要として、初めてひな型として輪郭を立ち現わすことのできるようなものだったでしょう。当時、民間伝承の会を組織した柳田の「構想」というのは、実にそのような、彼の生きてきた個人的経緯の歴史性から逆落としのように帰納されたものだったはずです。
その限りにおいて、再び射程を思い切り遠くに伸ばしたところで言うならば、「民俗誌」を考えることは、そのような近代文学の来歴をくぐりながら最も豊かな意味での「国語」の立ち上がってゆく過程を最も微細な水準から透視することと、密接にからんでこざるを得ないようなものです。そしてそれは、その上でどのような〈リアル〉、どのようなアクチュアリティをよしとするのかについての歴史的変遷の過程を、自らの生活経験の内側から決して激することなく穏やかにのぞきこもうとする、ある種の知的冒険を求められるものでもあるはずです。広義の歴史の「記述」、それが同時代の「国語」の水準を介してどのようにリアルに読み、解釈され、そしてまた再び同時代の経験の側へと織り込まれてゆくのか――その茫漠かつ壮大な過程を手もとの想像力へと投影させてゆく闊達な力。
「民俗誌」、あるいはそのように呼ばなくてもいい、とにかくそれらの力の下につむぎ出されてくる「記述」を〈いま・ここ〉でことさらに語ることの効果がまだあるのだとしたら、まさにそのような力と共にこそ、あるのだと思います。
●●柳田国男の構想と、現前化しなかった初志
昭和初期の段階で、柳田国男が『明治大正史・世相篇』を「民俗誌」として構想していた、ということはすでにしつこく指摘されています。
とは言え、新聞記事から「採集」した「世相」を素材として歴史を構築してゆく、という意味での「民俗誌」から、たとえば後に倉田一郎のノートを使って作った「北小浦民俗誌」に至るまでの間には、同じ柳田個人の想定していた「民俗誌」としても振幅があります。
『明治大正史世相篇』は、すでに知られているように、新聞の記事を資料としながらある意味での歴史が構築できないか、という目論見の下にこさえられて「記述」でした。まだ学生だった桜田勝徳などを下働きとして使いながら、新聞の切り抜きや抜き書きを素材として収拾していった過程が下ごしらえとしてあったのでしょう。そしてそれらを駆使して、当時一般的に了解されていた歴史とはまた別の水準の歴史の「記述」があり得るはず――少なくとも柳田国男の野心は当時、そういうものだったのだと思います。けれども、自身認めているようにそれは「失敗」だった、と。
「自分が新聞のあり余るほどの毎日の記事を、最も有望の採集地と認めたことは、決して新聞人の偏頗心からではなかった。新聞の記録ほど時世を映出するというただ一つの目的に、純にして精確なものは古今ともにない。そうしてその事実は数十万人の、いっせいに知りかつ興味をもつものであったのである。ちょうど一つのプレパラートを一つの鏡から、一時にのぞくような共同の認識が得られる。これを木曽にすることができれば、結論は求めずとも得られると思った。そのために約一年の間、全国各府県の新聞に眼を通して、莫大の切り抜きを造っただけでなくさらに参考として過去六十年の、各地各時期の新聞をも渉猟してみたのである。」*3
「打ち明けて自分の遂げざりし野望を言うならば、実は自分は現代生活の横断面、すなわち毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみに拠って、立派に歴史は書けるものだと思っているのである。それをたまたま試みた自分が、失敗したのだから話にならぬが、自然史の方面ではこれはつとに立証せられたことで、少しでも問題にはなっていないのである」*4
ここで彼が表明している「失敗」の意味というのは、しかし、実はこれまでもそれほど精緻に解剖されていません。ただ、後の柳田の進んでいった方向性などから類推するなら、たとえばそれらの「失敗」の中にははひとつ、同時代の読者の読解の水準に見合った有効な「記述」をうまく提示することができなかった、ということもあったのではないか。もう少しほどいて言うならば、柳田がよしとするような〈リアル〉、を「歴史」の枠組みにおいて同時代の情報環境に向けて、そしてその環境を生身と共に呼吸して日々生きている同胞に向かってうまく提示してゆけるような「作品」にはなっていなかった、ということではないのか――あらかたまとめてしまえばそういうことです。
「民俗学としては失敗であった」とまで述懐した一節に込められていた柳田の想いには、学問としての手続きの不十分さや、後に「民俗誌」とされていったような民俗学的記述のスタンダードと目される理想的テキストからの距離などとはまた別に、そのような同時代の情報環境における流通の射程、言い換えれば、同胞に「いかに読まれ得るか」までも見越した戦略的な意味も含まれていたはずです。増殖し始めていた大衆社会型知識層の自己満足の書きものではなく、まして、狭い学者ギルドの中でしか流通しない乾きものの「業績」などではさらにない、具体的な出版事業の手ざわりを媒介にした「書くこと」の社会性への戦略的視野の広がり。それは、たとえば当時、菊地寛などが新たに焦点を合わせていっていた新しい同時代、それまでにない広がりを持った新たな同胞=「国民」のイメージを確実に織り込んだ構想だったと思います。
なるほど、そのように考えてみれば、世相篇の「記述」が、素材として依拠した当時の新聞の雑報の水準に依拠していたのに対して、北小浦民俗誌の方は倉田の残した採集手帖に刺激されつつも柳田個人がおそらく想定していたような文体に、ひとまず存分に規定されています。その違いはおそらく、柳田が夢見たあるべき「民俗誌」、同時代の読者に向かった開かれたテキストのありようを考える上でかなり豊かな内実を持っている。民俗学は言うに及ばず、文学や思想史界隈も含めたいわゆる柳田研究の脈絡においては、それこそ一律に「文学的」「職人芸」などと評されてきた柳田の文体ですが、ここではそれは「民俗誌」の発生においてひとつのスタンダードを記そうとしている。そのスタンダードはしかし、単に学術的な記述の水準だけでなく、同時代的広がりの中でのリアルにつながる散文記述といったところまで視野におさめたところで、初めて十全に解釈できるようなもののはずなのです。
たとえば、こういうテキストをひとつ脇に置いてみましょうか。
ふたりの男が何やらあやしげな物腰で道端にたたずんでいる。
ひとりは中国の人民帽のような帽子をかぶって背中丸めて身構え、もうひとりはこれまたチューリップハットのようなものを頭に乗せて鉄縁眼鏡でしゃがみこむ。ふたりの間には肩からかつぐうどん屋の箱屋台。屋号は「大和屋」とある。その後ろには割竹の垣根をめぐらした建物。草履ばきのふたりの足もとの道は、もちろん舗装などしていない地道だ。
明治四十二年の暮、東京市内のどこかの道端の風景である。男は伊藤みはると平山蘆江。ふたりとも都新聞の記者だ。
夜泣きうどん屋に扮しての探訪記事を狙ってのこの出で立ち。後の蘆江の思い出話に、「出入りの弁当屋から出前持ちの鯉口半纏を借り、鍋底帽子をかぶり、さらに鍋やきうどんやから荷箱を借り……」とあるから、この場の扮装は全部借りものだったらしい。とは言え、「ダシ入れの罐がダブついて、どうにも天秤棒が肩にめり込んで困るので、十歩あるいては休み、五歩歩いては交替し、たった一二町の道を三十分もかか」る始末で、売り声すらまともに出せず、最後はおでん屋の婆さんに「この有様を親が見たら泣くだろう」と涙ながらに意見されてチョン。仕込んだうどん百人分に雑煮十人分は無駄になったが、しかし、記事の方は十日あまり連載されて大当たりをとったという。
この時の片割れでしゃがんだ方の男、蘆江・平山壮太郎が都新聞に入社したのは明治四十年六月、二十五歳の時。薩摩藩長崎屋敷の船御用を勤めた「さつまや」の子として生まれたが、父と死別、長崎の旧家平山家に引き取られて育ち、長崎商業学校と東京の府立四中を共に中退してから満州を放浪。現地の『満州日報』の記者をやった関係で、内地へ戻ってから都新聞の門を叩いた。初任給二十五円。
当初、事件ものをやらされていたが、じきに名人奇人の懐旧談や芸界、花柳界の裏話などを専門に書き出す。当時、都新聞は今でいうところの芸能ネタや花柳界のゴシップなどに強く、天下国家のことを大上段から論じるのが王道というその頃の新聞の常識とはややズレた、言わばサブカルチュアのノリを持った新聞だった。そのサブカルチュアとしての部分の中核に、蘆江の才能が開花した。先の伊藤みはる、長谷川伸と共に「都新聞の三羽烏」と呼ばれた。街をゆっくりクルーズしてきた「あるく・みる・きく」の知性によって初めて可能な現実の切り取り方。だが、昭和四年、外部の雑誌に寄稿することが咎められたのがもとで退社、作家になり、見聞を生かした粋な花柳小説・随筆をいくつも残した。昭和二十八年、七十一歳で没。晩年は飯能の山の庵にわび住まい。最期まで独身、そして服装も和服の着流しで押し通したという。*5
この平山蘆江という人は、花柳記者として花柳界に住んでずっと「観察」を続けてきました。
花柳記者というのは、天下国家を論じる明治以来の大新聞とはまた別の、花柳界のゴシップなどを主に扱う新聞において必要とされた記者です。彼らの世界では、同じ女性ネタであってもシロウトの女性のことは決して筆にしない、という不文律があって、それはそれでひとつの仕事として成り立っていた。蘆江もそんな世界に棲むひとりでした。その見聞はもちろん論文などという形で出力されることはありませんでしたが、しかし、後に新聞記者を辞めてから、花柳小説という形式で世に問われています。実際に色街に棲み、そこで見聞きしたことを「おはなし」の形式に移植しながら書きつづる。似たようなモティベーションを持っていたはずの、たとえば永井荷風などのように「文学」の枠組みから光を当てられることは少なかったにせよ、その場合に彼が依拠した形式というのは、柳田が選択したものとはまた別ものでしたが、しかし、その初志としては柳田が『…世相篇』で目論んだはずの同時代の読者に対する読まれ方、届き方を配慮した上で選択されたものだったはずです。
棲んで、書く。その場に身を置いて、書く。その場にはらまれた日々の暮らしの速度にできる限り身を寄り添わせながら、その速度からなるべく離れないように「書く」ことを注意深く制御しながら、書く。どう表現してもめんどくさい言い方にしかなりませんが、蘆江の書き残したテキストが今の時点から読み直してみても、「民俗誌」の初志に沿ったものとして読むに耐え得るのは、表面上の文体や記述の形式といったところ以上に、そのような「書く」ことへ向かう時の作法のありようこそが、民俗学が「民俗誌」のもの言いの下に想定していたような記述の方法意識とシンクロしてゆくような質を持っているからだと思います。
「旅人」から「仮寓者」、そして「土地の人」という、初期の民俗学においてよく語られていたあの「採集」「調査」へと向かう主体の進化/発達の経緯は、単にそれによって知るべき見聞の質が変わってゆく、ということだけでなく、同時に「書く」ことの作法やそれによる記述の水準の変化、さらにはそれらに付随して必然的に起こってくる同時代の広がりに対する〈リアル〉の変貌までも、存分に視野に入れられるべきものだったはずです。それらを一律に、「土地の人」に近づけば近づくほど何か「ほんとうのこと」に接近できる、といった風に解釈する心の習慣だけをうっかりと野放しにしてしまったことは、「民俗誌」というもの言いに込められていたはずの民俗学の初志にとってはおそらく、かなりに不幸なことでした。 「土地の人」が一番偉い、地元に棲んでいる者の見聞こそが第一義である――民俗学にとって現実と対峙する時の絶対的な価値基準がここに設定され、それは永久に乗り越えることのできないものとして存在し続けることになりました。
「民俗誌」が常に未完のもの、十全に補完され全き形になることのない記述として存在し続けてきた大きな理由は、ひとつこの「土地の人」を至高の価値としてしまった、民俗学の初期設定にありました。
けれども、です。見聞の進化/発達、経験の濃密化はただそれ自体にスケーリングされるべきものでもなく、それに見合った記述の水準の違いを変数としながら、常に同時代の読者と出会うために制御されるべきものである――柳田が『…世相篇』の段階で想定していたかも知れない「民俗誌」の初志をその後の民俗学が方法的に自覚できていたならば、そういうオルターナティヴな視点もまた、あり得たかも知れない。「旅人」の記述もあれば、「仮寓者」のテキストもある。そしてもちろんそれらと等価に「土地の人」の書いたものもあり得る。それらはいずれも「民俗誌」というゴールに対してそれぞれの立ち位置から寄与し得るものであり、必ずしも一律の価値基準で優劣や上下関係によってプロットされるようなものでもない――たとえば、そのように方法的に考え得る余地があったならば、おそらく「民俗誌」というもの言いは今目の前にあるような形とははるかに違った、もっと豊かで闊達な内実をはらんだものとして、民俗学のみならず、同時代の〈リアル〉の再編成に大きく貢献できる足場を構築できていたように思います。
●●●「民俗誌」に向かうための条件
人が「民俗誌」に向かうための条件、というものが、おそらくあります。
それは、同じ人が民俗学へと向かう条件とある程度まで重なっていながら、しかし全くイコールで結ばれるものでもない。「民俗誌」そのものでなくてもその界隈から発する「民俗誌的なるもの」に心ひかれる人がいたとしても、それが必然的に民俗学の方へと向かうわけでもありません。
それに対して、「民俗誌的なるもの」をあまり色濃く媒介せずにいきなり民俗学の方へと向かう人もあります。たとえば、民俗学の世間で言えば国文学方面を経由しながら口承文芸研究へと赴いたような人などはそうでしょうし、あるいは歴史学の方から民衆史、生活史といった角度で民俗学に関心を持つようになった人なども該当しそうです。昨今のように民俗学という脳死状態の学会組織が、周辺の未だ組織がいくらかでも機能している歴史学や社会学、文化人類学から人文地理学、果てはかの張りぼてのカルチュラル・スタディーズに至るまで、いずれ文化研究、人文科学界隈の学問沙汰の草刈り場になっている状況では、そのような経緯はさらに難儀に複線化してきているでしょう。
とは言え、そのような別線から民俗学の周辺にやってきた人も、どこかで必ずこの「民俗誌」の呪縛にからめとられることになります。口承文芸を扱う人も、その資料である民話や昔話の「採集」に際して否応なしに「現場」イデオロギーに直面しますし、歴史学経由の人ならば、たとえ一時的な対象が文献資料であったとしても、やはりこの「調査」という制度と無関係に動くのは難しくなってくる。度を越した価値相対主義の鬼っ子である日本のカルスタでさえも、そんな「現場」信仰には陰に陽に侵されています。初手から「民俗誌」に魅力を感じて民俗学にやってきた者に比べて、これは微妙な違いのようですが、しかしこの経緯の違いをもたらすはずの主体の側の資質としての違いは、同じ民俗学者であってもかなり決定的なものだと、あたしはずっと思っています。
まず、どのような文脈にせよ、「現場」というものに対する恒常的な抑圧を感じていること。違う方向から言えば、「現場」というもの言いに対峙させられることで、自身の日常に何か根源的な不安を感知してしまうこと。敢えてコピーライティング的に言えば、そのような〈リアル〉に対する飢餓感が、自らそうと意識されているか否かに関わらず、抜き難く抱え込まれていること――これです。
その〈リアル〉とは、ある時期までの民俗学者にとっては、「農村」であり「漁村」であり、少なくとも高度経済成長以降の日本の現実からは急激にフェイドアウトしていったような社会的リアリティでもありました。思い切りひらたく言えば「いなか」であり「地方」であるような現実。どのように強弁しようとも、日本の民俗学はそこから離れることは決してなかった。だからこそ、彼らは「工場」や「スラム」といった「現場」に向かうことは決してありませんでしたし、そのような〈リアル〉に焦点を合わせる性癖自体を持ち合わせていない場合が多かった。まさに“discourses of the vanishing”*6なわけで、そのような眼前の〈リアル〉から常に自分自身が疎外されているという感覚をテコに、人は「民俗誌」に、そしてより広くは「現場」に向かうことになるのが常でした。
その意味で、ルポルタージュやノンフィクション、その前は記録文学と呼ばれたような記述は、同じ「現場」を媒介にした〈リアル〉への渇望をエンジンにして形を整えてきたものの、民俗学における「民俗誌」とは相補的な経緯を持っています。「都市民俗学」と後の一時期に呼ばれたような方向への誤ったモティベーションも、実はこのような「民俗誌」が本来的に排除してきた現実へと眼を開いてゆくことこそがその本質だったはずなのですが、そのことを自省的、かつ方法的に考えてゆこうとする方向は残念ながら、民俗学の内側からはついに設定されてくることはありませんでした。その不自由そのものが日本の民俗学をめぐる言説の歴史に規定されてきていることに気づいて以来、現存する民俗学への信頼感はあたしの中で急速に失われてゆきました。
「民俗誌」というもの言いにはらまれていたそのような可能性も含めた手ざわりをいま、このように思い返してゆく時に、あたしが思い浮かべるのは坪井洋文という人です。
坪井洋文が開館当初の歴博――国立歴史民俗博物館で構想していたのは、あたしが仄聞している限り、そのような「民俗誌」本来のものだったはずの「記述」を現実のものにしてゆけるような環境だったようです。特にそれを若い世代に準備してやること、それがすでに当時、十分に歳をとっていた年長世代の民俗学者としての自分の使命だとまで考えていたらしい。彼が歴博に呼ばれた時に進退を決するに際して「お国のために」とまなじり決して赴いたことは、宮田登の回想などにも触れられていますが、実際あたし自身もそのような坪井の言に何度も接しています。
「とにかく、おまえらは思う存分にやれ。骨はこっちが拾うから」
週刊誌の現場などなら「行ってこい」だと揶揄して言われるような、素朴で乱暴な「現場」主義を発動するもの言いと批判するのは簡単です。けれども、こういうもの言いをたとえ定型としてでも言える、それも型通りの社交辞令などではまるでなく、肩のひとつも叩きながら若い衆を叱咤激励しながら口にすることのできる、そんな民俗学的身体というもの自体、いまとなってはもう現実に見られなくなってしまいました。どこへでも行ってこい、どんなものでもおまえらのその身体ごと見て、聞いて、何かをつかんでこい、そしてその見聞をここに戻ってきて思いっきり吐き出せ――坪井の眼は確かにそう言っていました。
坪井にとって悲劇だったのは、その心意気に十分に応えるだけの若い衆に恵まれなかったことでしょう。もちろんこれは、その若い衆に当時、間違いなく該当していたはずのひとりとして、あたし自身の反省、懺悔も含めてのことですが、しかしそれ以上に、あたしが当時の歴博で身近に見聞した民俗学者たちの素行、行状は、自覚的であるかそうでないかを問わず、今思い返しても心萎えるものが多々ありました。研究費を獲得するための書類の書き方のあれこれや、学者渡世につきものの人事沙汰や人物月旦をしたり顔に語ることだけはうまくなっていても、「骨はこっちが拾うから」とハッパをかける坪井のたたずまいに引き合う心意気はすでにほとんど失われていました。
「調査」と称して長期出張を終えて帰ってくるやいなや、今度は女房や家族でも連れて海外旅行にいそいそと出かけてゆく。「給料もらえるんでなきゃ、誰もこんな調査なんて出かけやしませんよ」と平然とうそぶく。そんな同僚を前に、卒倒しそうになったことを今でもはっきりと覚えています。仕事とプライベートをきれいに使い分ける、そんなエリートサラリーマンのような身振りを何の屈託もなく自分のものにしている民俗学者たちを目の当たりにして、それが大学なり研究組織での賢い処世のひとつだということはわかっていても、どうにも釈然としないものが心の底に日々、沈んでゆきました。大学にいる頃ならば教室へと講義に出かけ、学生と接することで良くも悪くもしのいでゆけたそんな違和感も、「研究」という神だけが支配する場になると逃げようのないものとして常に直面せざるを得なくなる。どんな見聞も、どんな経験もそれを形にし、投げ返した先に、まっとうに受け止められる可能性がもはやどこにもない。「読者」の不在。記述し、送り出した先に届く場所のあることへの信頼感のないままに「現場」へと赴き、〈あるく・みる・きく〉を、そして〈書く・話す〉までを繰り返せるほど、人は強靱にはできていません。
かくて、民俗誌をこさえること、満足のゆく〈リアル〉を自分の見聞から引き出してテキストとして定着させること、そしてでき得るならばその先に、そのテキストを介して同時代の〈リアル〉とつながってゆける可能性を開いてゆくこと――そんな「民俗誌的なるもの」をベースにした民俗学の初志は、あたしの立ち位置からは見えなくなっていました。「現地の人々」「もの言わぬ民」「常民」――何でもいいのですが、少なくともそのような表象に何らかの夢を託し、自らの生を賭して何かをつかみ、記述しようとした志というのが、いかに時代の転変の真っ只中とは言え、このようにいとも簡単に頽廃してゆくものなのか。当時、まだうまく具体的に感知することはできなかったにしても、言葉にならない日常の皮膚感覚での違和感、嫌悪感は根強くありました。その程度に坪井の初志は、すでに当時、足もとで裏切られていたとしか言いようがない。かつて若き日の坪井が出入りしていた昭和20年代の柳田の民俗学研究所のように、と言っていいのでしょう、全国に散った仲間たちが「旅」の見聞を持ち帰って集積し、それらはまた座談会やささやかなニューズレター、雑誌などを介して地方の研究会組織に還元されてゆく、日本の民俗学が夢見てきたそんな全国規模でのゆったりとした見聞と経験の相互交通/引用のやわらかなシステムは、坪井の夢の中からもまた現実のものになってゆく契機を漂白されてゆきました。「存分にやれ、骨は拾ってやる」というもの言いに見合うだけの「場」自体がもう支えきれなくなった状況の中で、学問組織としての民俗学は最終的な終焉を迎えたのだと言えます。
今日、民俗学のみならず、いわゆる文科系の学問、人文・社会科学と呼ばれてきたような領域の知的営み自体がその存在価値を根底から疑われてきています。それは、おおむね90年代このかた、大学においてはいわゆる一般教養過程の解体と再編、組織面では例の独立行政法人化の問題などとも密接にからみながら、より広い文脈ではジャーナリズムやマス・メディアの現場も含めた同時代の大きなうねりとなって、日本語を母語とする版図を広く足もとから洗うようになってきています。「民俗学という不幸」は、かつてあたしが予言したように、「文科系という不幸」にまでその姿を変えてはっきりと現わすようになっています。それは、近代このかた、日本語を母語とする広がりでそれなりにつくりあげられてきたことばと現実、もの言いと〈リアル〉との対応関係が、ここ十年ばかりの間に最終的にこれまでとは違うありようへと移行しつつあることの反映であり、その限りでまさに歴史的必然とでも言うべきものです。
同時代の同胞にとって役に立つような〈リアル〉をはらんだテキストをどのようにつむぎ出してゆけるのか、民俗学に限らずいま、この状況で文科系の学問に課せられた大きな課題のひとつはそこにあるはずです。その意味で、かつて柳田が昭和初年に夢想したような「民俗誌」の初志は、時代がひとめぐりした今もなお、十分に使える可能性を持っている。〈あるく・みる・きく〉に〈書く・話す〉を加えた身振りを方法として使い回し、そしてそれらがゆるやかに結びあう「場」の中で、初めて認知されるべき〈リアル〉が宿り得るという確信。そのような仕掛けが保証されるようになって初めて、文字以外の歴史、記憶された経験もまた、国民的な規模での財産として登録されるようになってくるはずです。「民俗」というあの空虚な概念にしても、そのような仕掛けの中でならばもう一度、いきいきしたものになる可能性がある。その時、民俗学は単なる学問領域を指し示す語彙などではなく、日常の身のこなしまでも存分に含み込んだある生き方の作法、この世を闊達に歩いてゆく時の処方箋として、新しい humanities の基礎に転生することができるはずです。
ことばにするとこれだけのことですが、しかし、今のこの状況でそれを本当の意味で、他ならぬ自分のものにしてゆこうとするならば、ことばの上のきれいごとだけではすまなくなる。まず、いまある民俗学と呼ばれるものに対してもっと徹底的に、深く絶望することが必要でしょう。それは単にひからびた概念や方法論、何も活きたことばのやりとりもできなくなってひさしい学会のありようなどに対してだけでなく、いま、この状況でなお恥ずかしげもなく民俗学者を名乗り、自らもう確信も何も持てなくなっているやせた言葉で講義をし、本まで書いている個別具体の輩に対する生身の疑い、実存も含めた不信感を、もっともっとどうしようもなくなるまで、おのが身の裡に宿らせておくことでもあります。
もう忘れられているのかも知れませんが、かつて、民俗学は正しく趣味であり、道楽でした。学問であると信じ、そしてそう言い張ったところで、決してそのように遇されるものではない境遇がありました。扱う素材や口にすることばが違うだけではなく、その生身の実存からして既成の知識人の範疇にはなかった。それは日本の「野」に育った学問の栄光だった、と言わねばなりません。「民俗誌」へと向かう道楽。仕事を言い訳に巧妙にプライベートを回避しながら「現場」へなど向かわずともすむ、いわば趣味の回復。身すぎ世すぎは何であれ、同時代にこの自分の見聞をまっとうに受け止めてくれる「読者」は必ずいるし、またそれと出会える回路も、いまある既成の学問などとは別のところで、必ず切り開いてゆくことができる――「民俗誌」というもの言いにまつわってきた来歴をもう一度、未来に向けてその可能性の幅に解き放つことができるとしたら、そんな等身大の初志を素朴に身に宿らせることができるかどうか、を自分自身に対して問うことから初めて、始められるもののような気がしています。