ゐなか、の、じけん――佐世保の「NEVADA」



 事件現場となった佐世保市立大久保小学校のすぐ脇のバス道にある「大久保小学校上」の停留所。校庭の右手からずっと昇りで続いてきたバス通りの坂道が左手に巻き込むように曲がり、さらに昇りになって登ってゆく、その途中にちいさな日除けとともにしつらえられている。停留所の標識は縁が錆びて、わずかに曲がっていたりするのはその程度にこの場所になじんでいる証拠だろう。

 校庭の高さから昇ってきたこのあたりは、ちょうど三階建て校舎の三階くらいの高さにあたる。それくらいの高低差が、学校を四分の三ばかりを取り巻くこのバス道に与えられていることになる。

 この季節だけに陽はたっぷりと長い。そのせいか、校庭にはちらほらと遊ぶ子供たちの姿がまだ見える。いまどきの金属バットに、あれはテニスボールだろうか、やたらよく飛ぶボールでの野球のまねごとは、それ自体は今もどこにでもありそうな子供の風景だ。

 この大久保小学校、山道の途中にあるせいか、実は正規の校門はこのバス道と逆の方、先の停留所から小さな石段をおりていった下の方にひっそりと開いている。バス道を登ってくる生徒もいるものの、登下校する生徒の多くはこちらから入るのが日常らしい。クルマもうまく通らないくらいの狭い路地のような坂道をたどってゆけば、子供たちの足でも十分もあれば下の平地、市内を南北に流れる佐世保川流域に広がるふもとの市街地にまでたどりつくだろう。

 実は最初、そうやって現場の大久保小学校にたどりついた時から、「あれ、なんかヘンだぞ」と思ってはいた。

 佐世保の市街地の北西側の山腹にある小学校、というのは報道などで見知っていた。地図で確認もしていたし、弓張岳に向かうバス道の途中というのもすぐにわかった。

 このバス道は、佐世保の市街から西方にある弓張岳山頂の展望台に向かう、言わば観光用に開発された道路である。他の地域ならば、そう、たとえば神戸市街から六甲山、あるいは摩耶山山麓に至る山道、ないしは、札幌市内から藻岩山に登ってゆく道路などを思い浮かべてもらえば、その印象は比較的近いかも知れない。片側一車線の舗装路、とは言え道幅も路線バスがようよう行き交えるくらいのもので、右に左に、時にヘアピンに等しいようなカーブが急坂と共にしつらえられている。山道ではあるけれども、人がおのが足で歩くことで自然に切り開かれた道、ではない。そう、明らかにエンジンの馬力によって一気に乗り越えることを前提にしたつくりの道。

 大久保小学校のまわりの家並みは、地名としては大久保東と比良町というふたつの区画に属している。だが、こちらの方はそのひと筆描きのようなバス道と対照的に、言わば人の足、生きた暮らしの呂律によって少しずつ積み重ねられ、開かれてきた風景である。入り組んだ坂道、狭い路地、崖に貼りつき、時に小さな切り通しに臨みながら、ささやかな家並みが岩肌の苔のように重なっている。それらの堆積のいちばん上のあたりにひとつ、白い箱のような校舎が置き忘れられたようにそびえていて、そしてくだんのバス道はそんな風景を一気に切り裂くようにうねりながら、しかしはっきりとある意志を示しながら通っているように見える。


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 夕方、この大久保小学校から弓張岳展望台行きの最終バスに乗ってみた。

 加害者児童、と今回、一連の報道を通じて歯切れの悪い呼び方をされている十一歳の彼女が日々、通学の途上で見ていたであろう風景を、まず確かめてみたかったからだ。

 このバス路線、佐世保市営バス佐世保駅〜弓張岳展望台前間の便は現在、一日わずかに七本。三月まではもう一、二本多かったのが、年度変わりの四月からさらに減便されてこの数になったという。彼女はこのわずか七本しかないバス便で、山の上にある実家から小学校に通っていたことになる。

 学校からの帰りは16時45分発の便にたいてい乗っていた、と報道されている。けれども、何かの都合で乗り遅れれば次の便は一時間半以上あとになる。何より、好きだったというバスケットの練習などで遅くなることもあっただろう。現地に着いたのがちょうど夕方だったことあり、19時前の最終便にあわせてバスを待つことにする。

 18時50分過ぎ。市営バスはゆっくりと坂をのぼってきた。市内との通勤路になっているせいだろう、交通量は案外多い。たまに路側に寄って対向車をやりすごしながらやってくる。学校帰りなのだろう、白いキャップをいま風に少しあみだにかぶった坊主頭のやせた男の子がひとり、停留所で待っていて、先にステップを登った。ワンマンなので整理券をとって乗り込む。整理券の券面に記された番号は13番。あらかじめ車内にいた乗客は二人。そこに先の男の子とあたしが加わって四人になった。

 発車してすぐに坂はさらに急になり、左手にパノラマのように佐世保湾の夕景が広がって行く。高度があがるにつれて、その画角はさらに広がり、折からの夕日に陰影も濃くなって行く。

 大久保小学校小学校上からふたつめ、上矢岳という停留所でひとり、高校生くらいの若い女の子が降りていった。このあたりにも民家が少しかたまっている。が、バスがさらに山の上へと登ってゆくと、もうそこは周囲が山林だけの急な山道になってゆく。車内に残されたのは男の子ともうひとり、中年の女性、それにあたし。下弓張、中弓張、登山口とぽつりぽつりと連なる停留所では乗降する人もいないまま過ぎ、カーブをゆられながら眼下に広がる佐世保湾の風景を確かめてゆく。

 うど越という停留所までくると、ようやくあたりも薄暗くなってきていた。山道はこのあたりにきて、少し開けたところにさしかかる。が、男の子はまだ降りない。その次、弓有という停留所にさしかかる前で彼はようやくボタンを押した。そして、もうひとりの女性と共におもむろに降りていった。その手に握っていただろう13番整理券の運賃は、運賃表の表示を見ると、ここまでで190円。

 時刻は19時をまわったあたり。大久保小学校下から時間にしておよそ十分ちょっと。そう、わずか十分ばかり、距離にしても数キロというこの地理的落差が、かの加害者児童の実家と大久保小学校との間によこたわっていたにすぎない。すぎないのだが、しかし同時に、それら地理的落差とはうまく同調し得ないまた別の種類ののっぴきならない「違い」が、果たしてどれだけ膨大に、容易にそれとは気づかれないような形でそこに、そして何より彼女の内側にはらまれていたのか。そのことを、今回の事件についての報道は未だうまく察知していないのではないか。


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 すでに報道されているように、加害者児童の彼女の家は五人家族である。

 父親は入り婿で、家そのものは母親の実家。東京で知り合って、いわゆる「できちゃった婚」だったらしいが、さて、ならば東京のどこでどのように知り合ったものかは未だによくわからないし、また週刊誌以下、例によってのマスコミの執拗な取材に対してさえも、具体的なことはほとんど聞こえてこないという。

 子供は彼女ともうひとり、上に姉がいる。こちらは市内の商業高校に通っていたが、どうやら事件後に中退してしまった由。そしてもうひとり、母方の祖母が同居していて、家の裏にある小さな畑などは主にこの祖母が面倒を見ていたようだ。

 六、七年前に脳梗塞か何か、具体的な病名は特定できないものの、いずれにしても脳関係の病気を患って倒れ、父親は仕事を辞めざるを得なくなった。自宅のクルマにも身障者マークが貼られていたというから、多少の障害めいたものは身体に残ったのだろう。以後は、自宅で保険の代理業を営みながら、アルバイトのような仕事を続けながら収入を得ていたらしい。事件当時は、市内でおしぼりの配達をやっていたようだが、それで一家の暮らしが支えられたとは考えにくく、主たる収入は母親のパートからだったのだろう。母親が働いていたのは佐世保市内、というよりも市内から少し離れた郊外の大型スーパーの下着売り場だったらしい。具体的には、大塔というところにあるジャスコである。

 佐世保市内、市街地にもジャスコはあるけれども、この大塔のジャスコはそれよりもひとまわり大型の、立体駐車場も備えた大規模なものだ。大塔、早岐といった市街地の東側、佐賀県側から佐世保市街に入ってくるその入り口付近、近年みるみるベッドタウン化していった地域の消費者層をねらって作られたものと思われる。弓有の家から大塔までは、クルマでおよそ3〜40分ほど。ただ、市街地へ向かう入り口にあたるせいで、朝夕は通勤渋滞が起こることが多く、日によっては一時間以上かかることもあったのではないか。

 いずれ母親はそのような距離を通勤し、父親もまたたまに市内におりてゆく。どちらもクルマで、あのバス道をクルマの速度で。そして当の彼女はというと、基本的にバス通学。まごうかたない佐世保市内、構造的な造船不況でまち自体は長らく沈滞しているとは言え、それでもほぼ二十五万近い人口を抱える九州では小倉や門司などと並ぶ近代黎明期以来の新興都市のふところに抱かれているこの家のある集落に、しかし「いなか」はぽっかりとその口を開けていた。

 そう、誤解を恐れずに言ってしまえばこの事件、つまり「いなか、の、じけん」だったのではないだろうか。

 いまからおよそ80年ほど前、大正末から昭和初年にかけて、おそらくは北九州のムラで起こった奇妙なできごとを、正しく民俗学者の視線と身体、そして筆致とで淡々と作品化した一連のテキスト。作者は、夢野久作。掲載誌もあれは確か『猟奇』とか『探偵趣味』とかのちとあやしげな雑誌だったはずだが、まあ、そんな文学史的なディテールはひとまずどうでもいい。要は、やれインターネットだ、チャットだ、そこでのトラブルがきっかけだ、またもやバーチャルリアリティの問題だ、といった部分だけがどんどんクローズアップされていったきらいのあるこの事件、いや、もちろんそういう要素も重要なポイントであることは間違いなのだけれども、しかし、なのだ。

 そのような表層の向こう側、ひとまずのっぺりといまどきな子供たちの生活世界としか見えないところから一歩踏み込んでみたところに、なんと言うか、どうしようもなくドメスティックな領域がじっとひそんでいる。子供たちがあたりまえにパソコンを叩き、インターネットにアクセスしてしまういまどきの情報環境だからこそ、これまでとはちょっと違う、おいそれとは見えにくい形で、しかし確かに立ち上がってしまった「いなか」――その底知れなくも不気味で、でもだからと言ってそうそう簡単には変わりようのないニンゲンの生の逃れられなさのくらがりが、この眼前に広がる風景の中にきっと、こわばった相貌を見せている。


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「戦前はここにも料亭なんかあってね。あたしの死んだ亭主ももともとそこで働いとったとよ。板前やったけ。花見の時なんかには人がたくさん登ってきてにぎやかやったぁ」

 辻家のある集落から少し下にくだったあたり、弓有のひとつ手前のうど越バス停の脇、ちょっとした広さの駐車場になっている前に棲むばあちゃんはそう言う。

 古い平屋のつくりは、かつてそこが客商売をしていた名残りだろう、いまも休憩所のようになっている。波うつガラスのはまった飾り棚にはいずれどこかの土産物とおぼしき土人形や飾り物がすすけたまま並べられている。自動販売機のモーターのうなりがひさしにはねかえる。

「バス道路はその頃からもう通っていたよ。ただ舗装はちゃんとしとらんやった。それこそバスの轍の所だけアスファルトで簡単に舗装して、残りの部分はバラス敷いただけやったから土ぼこりが大変でね。桜道の方は地道やったけど、一年の稼ぎの大部分を花見の頃に稼いでしまうくらい人出が多かったんよ」

 桜道、というのは、いまもバス停などに名前だけは残っている。

 かつては市内のSSK(佐世保重工業)のすぐ裏側、御船町からまっすぐ北側に登ってゆく登山道の両脇が桜並木になっていて、そこからここ鵜渡越までの山道がいわば観光道路として賑わっていたという。この鵜渡越地区の開発を行ったのは、地元篤志家のひとり松尾良吉。ふもとの町の青年団が人力奉仕のような形でこれを手伝ったと伝えられている。

「大正五年、翁一日鵜渡越に登り、たまたま偶々山水の布置凡ならざるを見、奇勝かくの如くしてあに豈久しく埋没せしむべけんや、吾必ず荊棘を刈りて道路を通し、以て都人士をして雅懐を養はしめんと、愛好する古画を売りて其の資にあつるに至る。琴平青年団の有志、佐世保市これを聞きて協力するあり。勝地始めて世に現わる…」

 また、大正九年、当時の佐世保鎮守府長官財部大将が、ここ鵜渡越からの佐世保湾内の景色を老いた母親に見せたいと、九十を超えた老母を背負って登ったというエピソードが地元で美談になった「扶老坂」という名前もまた、わずかに残っている。とは言え、いずれ市史の片隅にエピソードとして記されている程度ではあるのだが。

 『佐世保市史』以下の“書かれたもの”によると、昭和7年に山の中腹を東西に横断してゆく鵜渡越道路が開通、翌8年からバスが通るようになった由。しかし、早くも昭和9年に観光制限が加わり、周囲の山にも一般人は立ち入れなくなったという。以後、戦後昭和24年にバス路線が復活するまで、この界隈のにわか観光商売は成り立たなくなった。

「戦争になって、要塞地帯ちゅうことで出入りができんようになったんでお客さんが減って、父ちゃんの勤めてた料亭も一時休まんといかんようになってね。どうしたかって? しょうなかろうもん、あたしら、畑でほんと自給自足の暮らしやったよ。それでも、戦後はまたバスがたくさん登ってくるようになってね。しばらくはまた、盛り返した頃もあったんよ」

 いまの弓張岳展望台につながる路線が通るようになるのが昭和31年。ここらあたり一帯が西海国立公園に指定された翌年で、これはまあ、全国的にも大型バスによる「観光」ブームが始まる頃と一致する。となると、ばあちゃんの語る“むかし”も主に戦後の記憶が下敷きになっていると考えた方がいいかも知れない。

 その頃は鵜渡越のこのあたりにも、店舗がいくつか並んでいたのだという。いまは市街地からやってきた元は酒屋だったという小さな喫茶店と、建物はいまどきのログハウス風ながら、前庭の水の半分干上がったような池に錦鯉がアップアップし、掲げられた看板はと見ると、なぜか鯛の活きづくりとタラバガニの料理が売り、という、素朴に考えてもちとムリのあるペンション兼レストランが営業しているくらい。頂上にある観光ホテルに泊まる観光客はいても、ホテルの送迎バスか自家用車で直行するばかりで、この界隈にわざわざ足を留めてくれることはまずなさそうだ。バス道ができたこと、そしてさらに上に展望台や観光ホテルができたことで、かつては地元のささやかな行楽地として賑わっていた鵜渡越もさびれていった。




 実は最初、加害者児童の実家があるのは、この鵜渡越だと思っていた。

 白状すれば事件勃発当初、名前も家庭背景もはっきりとさらされていた被害者児童に比べて隠されていた加害者児童についての情報が聞こえてきて、実家の場所を特定しようと動いていた時に、付近に同じ苗字がいくつかあるということで、申し訳ない、この鵜渡越地区の別の家をあたしゃ誤爆したりもしていたのだ。

 実際、そのあたりの景観は印象深かった。山腹に貼りついたような集落。とても家の前までクルマの入りそうにない入り組んだ道と、せまい石段と坂道とで通じあうしかない家々。眼下にSSKと米軍埠頭、大きな灰色のいくさぶねが常に数隻。その間には市街地の街並みと、合間には高いマンションやホテルなどさえ立ち並ぶ。うわ、こりゃすげえ。どこかでこれは階級的落差を反映した景観であることは直感的に感じた。

 後に、加害者児童の実家があるのは鵜渡越じゃない、小野町だ、と教えられた。場所を確認すると先のうど越停留所のすぐ上、弓有停留所付近。え、これって鵜渡越地区じゃないの? 不思議に思って地図を改めて確かめてみると、なるほど、鵜渡越町と小野町の間には境界線が走っている。それはまさにうど越停留所のすぐ脇、これから先は観光地、と言いたげな「弓張岳展望台」の石碑が建っているあたりを境界にしているのだった。そこから先が小野町、なのだという。

 うど越から次の停留所弓有まで、距離にしておそらく二百メートルくらいのものだろう。もちろん坂道ではあるけれども、もうそこらへんはゆるやかになっているから歩いてもそうきついものではないし、何より山道がようやく少し開けた場所にたどりついたあたりだから景観としては同じまとまりだ。けれども、そこから彼女の実家のあるあたりまでに、うまく言えないのだが何か、場の空気が変わるのだ。

 集落としては鵜渡越も小野町も、まあ、ひと続きである。眼に見えるところで何か具体的な線引きがされているわけではない。だがしかし、確かに「違い」がある。そうとしか言えない。まず、神社も寺も見当たらない。というか、集落の中心自体、よく見えないのだ。

 家は何軒か肩寄せ合うように集まってはいるし、山あいのこと、畑もあれば、わずかながら水田だってなくはないのだけれども、でも、いわゆる「ムラ」としてのかたちが見えてこない。輪郭がはっきりしない。だから、なんというか、ありていに言って居心地がよろしくない。

 はばかりながら、あたしゃこれでも民俗学者、である。もちろん、学者としては捨て育ち、自慢じゃないが素性も札付きの外道であることは言うまでもない。民俗学本来の現場だった第一次産業主体、正しくゲマインシャフト農山漁村で、すでにあるかなしかになってしまっている(あたりまえだ)近世以来の“伝承/生活/常民文化”=“民俗”を痕跡含めてむりやり探してまわることよりも、むしろ近代化と工業化、大衆社会化の荒波をかぶったそんな眼前の〈いま・ここ〉から、かつては確かにそんな農山漁村出自の暮らしの来歴を持っていたはずのわれら「常民」が、さてどのように七転八倒、あっぱれ生きてきたのか、その未だ語られぬ来歴をこそまるごととらえなおしたい、という、むしろ近・現代史そのものに殴り込みをかけて喧嘩を売るような角度から言わば逆落としに民俗学を志していた。それでも、大学院時代には型通りの民俗調査というやつには何度もつきあわされていたし、先輩や後輩含めた仲間うちには折り目正しい農村漁村を相手どった民俗学者もあたりまえにいた。だから、そういうどこにでもある素朴なニッポンの「いなか」については、それなりに歩き、そして見聞きしてきたつもりではあるのだ。

 そういうあたしの感覚からして、この害者児童一族のかたまっている集落は、居心地がよくない。しっくりこない。なんかヘン、としか言いようがない。*1


 人が棲んでいる、そこで暮らしている匂いというか、日常がある、そのたたずまいが薄い。ふつうどんな場所であれ、暮らしの痕跡はそれなりに感じられるものだ。豊かであれ、貧しいものであれ、人が生きてそこにいる、そのどうしようもない空気、そして手ざわり。そんなものが希薄で、ぼやっとぼやけた印象しかない。たまたまいまがそうなってしまっているのか、はたまた昔からそうなのか、そのへんは慎重に留保するにせよ、この土地の〈いま・ここ〉はやっぱりヘン、なのだ。



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 偏見だ、先入観だ、と言われるかも知れない。だが、こういうこともある。

 この鵜渡越から一気に山のふもと、南側におりたあたり、市内の御船町から金毘羅町にかけての界隈などは、もう一歩足を踏み入れただけで明らかに「漁村」なのだ。狭い路地、手でこねたような石段、低い軒を連ねた家々、そして何より通学の子供たちの姿があり、道の片隅にたたずむ年寄りたちのしゃべり声があり、言うのもこっぱずかしいが、えい、あたりまえの生きた暮らしの空気が感じられる。

 佐世保鎮守府が建設され、海軍工廠ができていった時にこのあたりには、職工さんたちの住宅がたくさんできてゆき、もともとの漁村のありようの上にそのような新たな工業地帯の暮らしが重なっていった、そういう来歴がちょっと歩いただけで肌身で感じられるのだ。実際、少し気をつけて見てみると、未だに単身者用のアパートの名残りが残っているし、町家の商店でも、くすんだ美容院や小さな書店といった店が傾きながらもいまも残って健気に営業している。そんな並びの中に場違いなマンションだってたまにさしはさまれ、これはおそらく佐世保市内のカネ持ちが買うのだろうが、それでもそんなアンバランスもまたひとつの景観としてなじんでいたりする。
対して、山の上、鵜渡越からさらに入った小野町の弓有にある彼女の家のまわりには、そういうたたずまいは感じられない。

 あれは『週刊新潮』だったか、この集落をさして「隠れキリシタンの里」といった煽り文句で記事を作っていた。彼女の苗字の一部に十字架が隠されているから、とかなんとか、おいおい大丈夫か、と突っ込みたくなるような解釈まで紹介して頑張っていたけれども、でも、あれとて最大限好意的に解釈すれば、おそらくはそういう違和感、あたしが感じたのと同じ、この土地ってなんかヘン」、という感覚を、現場を踏んだ記者が感じとっていたからではないだろうか。

 もちろん、そういう違和感は次の瞬間に、「隠れキリシタン」はもとより、「同和」だの「在日」だのといった表象と安易に結びつけられてもゆく。

 実際、結びつけられた。加害者女児が残したイラストの脇にハングル様の文字で書かれた文章が添えられていた、というのを、フジテレビが夕方のニュースで強調して流したことがきっかけに、加害者児童=在日説は、一時インターネットなどではまことしやかに流されていた。現場の事情を尋ねてみれば、あれもそのイラストが載っていた交換日記の原本の奪い合いのようなことが取材陣の間で起こっていて、そのすったもんだの中でうっかりと出てしまった報道だったらしい。あげく、あわてたのかテレビではその日記を撮影した画面にモザイクはかけたものの、日記の原本を提供した人物の肉声はそのままナマで流してしまったので、今度はその人が特定されてしまって、大久保小学校のPTA間で糾弾されることにもなったとかならなかったとか。

 けれども、そのハングル様の文字の添えられたイラストは、その他のページで韓国の詩人の詩をことさらに引用していたことなどとあわせて、加害者児童=在日朝鮮人説、を補強してゆくことになった。在日だから、という「説明」は、事件の異様さ、凄惨さにまつわる違和感を未だ一気に解消してゆく処方箋になるらしい。それは「ネットに関わっていたから」「映画『バトルロワイヤル』を見ていたから」といった「説明」が発動されてゆくメカニズムとも基本的に同じである。

 だが、問題はそのような「説明」が発動される違和感のありかのはずだ。「なんかヘン」という感覚がある、あって、ならばその違和感は何に由来するものか、そこをできるだけゆっくりとつぶさに小さな言葉に還元しようとしてみる、そんな積み重ねの必要。確かに抱え込んでいる違和感を「在日」だの「同和」だのといった既存の表象に一気にくくってしまうのでなく、また、「人権」だの「差別」だのといった別の表象でその違和感そのものをあってはならないものとしてゆくのでもなく、違和感をなるべくその違和感のまま、暮らしの場、土地と風土の側にもういちど差し戻してみようとすることの意味は、こんな時代、こんな情報環境だからこそ大きい。



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 何にせよ、こういう集落に神社や寺が見えないままだと、民俗学者としてはやはり納得がいかない。

 調べてみると、鵜渡越地区はすぐ下の金比羅町にある金毘羅神社の管轄になっていた。佐世保鎮守府が開かれる以前からある古い神社。寺もまた、宗派に違いはあるにせよ、基本的にその同じ界隈の寺の檀家になっている。

 対して、小野町に属する集落の方はというと、こちらは佐世保ではなく山を西側に越えてくだったところにある相浦町にある神社や寺と縁がつながっていた。

 相浦の市街地に、飯盛神社がある。愛宕山と呼ばれる、まるでにぎり飯をひとつポン、と置いたような、それこそ子供が描いた絵の「おやま」そのままの山の麓にあたる。この飯盛神社が、弓有の集落も含めて小野町の多くを統括している神サマである。

 もともとはいまある場所のもっと東側、弓張岳や将冠岳の山なみから西へと流れ出す相浦川流域を山の方に入った小野という集落にあった神社だった。いまでも、熊野神社と名を換えて残っている。飯盛神社の宮司さんは「もとのお社も、流谷や弓張の人たちが当番で掃除に来てくれているはずです。いまでもよくやってくれていますよ」と言っていたが、小さな石段には雑草が生い茂り、古びたいい感じの石の鳥居にかけられたしめ縄も半ば朽ちているような状態だった。川の流域に水利を求めて水田を開き、そして両脇の山のふもとに屋敷森を背後にしたがえるような形で民家がずっと並ぶ。どこにでもある山あいの農村の風景。そう、これならまだわかる。いまどきのニッポンの“ムラ”の景観なのだ。

 相浦川の流域をさかのぼり、弓張岳の方へとたどってみる。もともとの踏み分け道に、いまどきのこと、簡単に舗装だけはしてあるからたまに地元の人だろう、軽自動車くらいは通る。けれども、対向車があると行き交うのはひと苦労だ。「マムシに注意」の手書きの看板が目につく。 

 あの害者児童の一族が、いつ頃から弓有に棲みつくようになったのか、それはよくわからない。もともとこの小野の方から、こんな道をたどって山へ向かったのだろうと推測されるけれども、地元でその間の事情を憶えている人もほとんどいない。何か事情があったのだろうが、その事情もいまはひとまず歴史の彼方だ。*2

 弓有は、古文書などをたどると古くは「弓鑓」という表記も残されているという。発音として「ユミヤリ」から「ユミアリ」「ユミハリ」というのは転訛しやすそうだ。

 明治時代の始めにはもう、あの一族はあの弓有にいたのだろうと思う。近世末からこの小野町の山にも小さな炭鉱ができていたというから、その採鉱の仕事などに加わっていた可能性も含めて、いずれ山の人生。といって高知や和歌山、岐阜や静岡、いや地元九州でも日田地方などといった、本格的な山仕事で食っていたような地域でもない。何かわけあって、近くの山にちょっと入った、そしてそこに棲むようになった、そんな感じだったのではないだろうか。そういうきっかけで人が山に入る、入って棲みつくことも、実はかつてはそんなに珍しいことでもなかった。東北地方の山村でさえも、飢饉の時などは山に入った方が食べてゆきやすかったと言われている。西南日本の温暖な地域ならばなおのこと。山が浅く、またそれほど高くもないこのあたりならばそういう発心もさらに不思議はない。

 しばらく登ると、ふいに流谷という集落に出る。ここもまた弓有などと同じような山あいのひっそりとした部落。畑仕事をしていた地元の人に、弓張の集落とのつきあいを尋ねてみる。簡易水道が弓張と共同なので、その管理などでつきあいがありますけどねえ。もともとはあっちの方が山や土地を持って裕福だった由。畑や山もあっちから売ってもらったのだという。

 けれども、素朴に見ても、こちらの流谷の集落の方がまだずっと“ムラ”としてのまとまりが感じられる。徳島県の祖谷地方や、あるいは和歌山県龍神村といった深い谷の両側にはりつくように集落の点在するいわゆる型通りの「山村」とまではゆかなくても、平地で水田を中心にこさえる暮らしをしてきたムラとは微妙に違う、山暮らしのムラ。だが、被害者児童の弓有の集落は、そんな山暮らしムラのあたりまえからもどこかはずれた雰囲気があるのはなぜだろう。



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 ネット上に残されていた加害者児童の日記によれば、事件の前、ゴールデンウィークの間も彼女はどこにも行かず、あの山の上の実家でほとんどひきこもっていた状態だったらしい。ネットへの書き込みも、その時期はいつもより増えていたようだ。

 大久保小学校自体、一年生からクラス替えもない学校だったとも伝えられている。流動性のないことが問題だったのでは、という意見も出ている。だが、少子化が進んでいる現在、ひと学年のまクラスが少なく、しかもそれがある程度固定化されてしまっている学校はそんなに珍しくないだろう。それよりも、あたしがどうしても気になるのは、現実的にも、そして出自来歴としても“山の子”である彼女が、おそらくは自分でもうまく自覚できないままに抱え込んでいたかも知れない「落差」、の方だ。

 家のまわりに同年代の友だちもいず、外で遊ぶこともうまくできないような環境。実際、まわりの家の人でさえも、彼女の顔はあまり見たことがなかった、と証言している。学校の友だちも家に遊びに来たことはなかったようだ。それはそうだろう、なにせバス便が一日七本。遊びに来てうっかり夜になったら、親に迎えに来てもらうか“お泊まり”するしかない。何より、親同士のつきあいからして疎遠にならざるを得ないだろう。人柄とか相性以前に、物理的な「落差」がまずあり、そしてそこに「いなか」が影を落とす。

 繰り返すが、小学校から時間にしてわずか十分ちょっと、距離にして数キロの場所である。大人たちは佐世保の市内に通勤しているし、事実、朝の通勤時間帯はこのバス道は佐世保へ通勤するクルマの抜け道になっているのだろう、ちょっと意外なくらいの交通量があったりする。山の暮らしと言っても決して深山幽谷ではないし、よく想定されるような山奥にある「過疎の山村」というのでもない。眼下には佐世保湾と米軍埠頭。夜ともなれば、街のあかりは絵はがきの夜景のように広がっている。夜ともなれば、地元の若い衆がクルマでやってくるデートコースになっている、そんな場所、なのだ、彼女が生まれ育って棲んでいた場所は。

 そんな場所へ、そんな自分の家へ、彼女はたったひとりで帰っていた。いや、現実には数人、同じ方向に帰ってゆく小学生はいたようなのだが、それとて集団登下校でもなく、また、少し時間がずれてしまえば事実上ひとりだったはずで、心の中の孤独、抱え込んだ疎外感は、地理的に条件などから考えられるよりもずっとのっぴきならないものとしてよどんでいたのではないだろうか。決してそうは見えない、自分ひとりが対峙してやりすごさねばならない「いなか」として。

 なんだかなあ、これって「いなか、の、じけん」で、なおかつ、そう、「泣いた赤鬼」でもあるんじゃないだろうか。

 濱田広介の手によるあの童話の名作。山に棲む赤鬼が村人たちと友だちになりたくて仲間の青鬼に相談する。青鬼は狂言まわしになって赤鬼を“いい鬼”として印象づける役回りをやってくれるが、めでたく村人に受け入れられた赤鬼の前から、彼は身を引き、永遠に姿を消す。「友情」がそのままうっかり「恋愛」のシミュレーションになっていた時代のいいおはなし、なのだが、あの赤鬼のように、彼女はあの被害者とともだちになりたかった、のではないか。山のふもと、街なかに住む新聞記者のお嬢さんで、おそらくは成績もよくリーダーシップもあり、服装なども大人が期待する“子供らしさ”そのままにプーさんのトレーナーなどをきていたあの被害者とともだちに。

 山に棲む子、と、街に棲む子、の間に確かに感じられていただろう、しかしうまく言葉にもされていなかっただろう「落差」の感覚。見えない「いなか」のくらがり。事件に インターネットが介在していることは事実であり、小学生ながらホームページを開設し、チャットでやりとりをしていたことも事実だろう。けれども、そこにばかり焦点を合わせていては、その背後にあたりまえに横たわっていた日々の暮らしの中での手ざわり、子供なら子供なりにそうそう変わりようのない生きる手ざわり=“リアル”の水準までも、いきなり見えなくしてしまう危うさだってある。

 山に棲む小さな赤鬼が抱え込んでいた心の「落差」。二十五万都市の足もとに、ぽっかり口を開けていた見えない「いなか」。そんな場にインターネットという飛び道具がうっかりと入り込んできた、そしてそれがそんな赤鬼のココロにまっすぐにアクセスするようになっていた、場とメディア、情報環境と人のココロの相関がつむぎ出してしまう何ものか、それこそがおそらく最大の問題であり、今回の事件が〈いま・ここ〉に示そうとしている時代の比喩なのではないか。

 当初の方針が一転、弁護士から精神鑑定を請求された彼女の留置鑑定期間は61日。期限は8月※日。「いなか、の、じけん」は、まだ完結しない。

*1:Twitter経由で誤記を指摘していただいた。18年越しなれど、訂正訂正……220425

*2:こっちも同じく誤記、訂正訂正……220425