大江志乃夫『明治馬券始末』

明治馬券始末

明治馬券始末

 ニッポン競馬の歴史というのは、実は未だにほったらかし。カネにも業績にもならないから、まともに取り組む馬鹿がいない。だから、その意味で貴重な一冊だ。

 著者は近現代史が専門の老学者。日露戦争期の政治・経済史的研究などで知られる。カルスタ馬鹿が増殖したいまどきの歴史学と違う、まだ歴史が正しく文献に依拠できた頃の正規軍将校だ。その熟練のスキルで、明治期の競馬がどのように時代の中で息づいていたかを、史料をもとにゆっくり語ってゆく。切り口は「馬政」一本。このぶれなさがまず素晴らしい。そう、競馬の歴史は「馬政」抜きに語れない。白眉は後半、習志野は騎兵第二旅団の将校が当時の松戸競馬で馬券を買っていた、という当時のスキャンダルを執拗に検証した一章。「馬匹改良」が「富国強兵」とどのように複合し、「競馬」の熱狂と共鳴していったか、同時代の大きな構図が見えてくるという次第。

 文書の裏取りを聞き書きで、という、歴史学者からすりゃ本末転倒な民俗学者の作法からしても、この松戸競馬の話はわくわくする。関東界隈の古い競馬師の思い出話にこの松戸競馬のろくでもなさは必ず出てくる。予想紙の始まりも、松戸に出た馬が翌日名前を変えて戸塚で出走、といった事態に対応するため、と言われているから、そのへんの雰囲気がこのように文書でも跡づけられたことは、個人的にもかなりうれしい。事件をとにかく大逆事件と結びつけようとする解釈レベルの強引さなどは、機関銃中隊の乗馬将校だったというお父上のエピソードに免じて相殺できる。

 それにしても、全く競馬場に行ったことがない、と明言し、ということはおそらく馬券を買ったこともないだろう大江センセ、よかったら一度、平日の地方競馬へご一緒しませんか? うまやの〈いま・ここ〉にもどれだけ「歴史」が投影されているか、外道な民俗学者が及ばずながらご進講させていただきますゆえ。