新聞記者という紋切り型

 新聞が正義だった。そこに載る記事は大人ならばとりあえず眼を通しておくべきもの、だった。だから、それを書くのが仕事の新聞記者は、きっと正義の味方だったし、後にもう少し風呂敷が大きくなりその分カタカナになったジャーナリストとなるともう、それだけでやたらめったらかっこよさげに見えた。日々地をはうような取材で巨悪を暴き、いわれなく虐げられている社会的弱者の心を理解するやさしい眼を持ち、欲はなく、出世も望まず、いつもニヒルに庶民的居酒屋で安酒をあおっている――キャラクターとしての新聞記者というのは、すでにそういう紋切り型がなんとなく共有されている存在である。そして、そこに安住してしまってもうかなり久しい。

 もちろん、しょせんは紋切り型である。ステレオタイプである。現実はそんなものじゃない、それは言わずもがなだ。けれども、そういう紋切り型を共有する世間との関係で、その紋切り型の前提である現実もまた成り立っている。そこのところが処世としては実は重要なはずだ。

 なのに新聞記者の場合、当のご本人がそのことをあまり自覚されていないらしい。その無自覚ぶりが、昨今インターネットの普及と共に、折々に明らかになってきてしまっている。だが、どんなに無自覚であっても、紋切り型の縛りはまんべんなくかかる。ならば、いまどきそのような新聞記者像のその紋切り型を、無自覚なまんまに生き抜こうとしたりすると、さて、いったいどういう事態にあいなるのだろうか。

 そのことを身をもってわれわれに教えてくれた、勇気あるひとりの新聞記者が出現した。読売新聞大阪本社社会部記者、竹村文之。口ひげはやしたまずは精悍な面構えで、先日未曽有の大惨事となったJR西日本福知山線のあの大事故の記者会見席上、例によって官僚的答弁に終始して窮するJR幹部を果敢に罵倒するその勇姿が、りりしくもテレビの、それも「報道ステーション」のニュース映像にとらえられ、それがきっかけで一躍、時の人に。なんとまあ、仕込んだような新聞記者の演じっぷり。どこのなんという人なんだ、この無駄に勇ましいお人は。

 始まりはテレビのニュースショウ番組の挿入VTRの一部にその罵倒ぶりが拾われて使われた、まずはそれだけだった。なのに、放映直後、早い段階から、いくつかの新聞も「いかがなものか」程度の反応は示していた。決してネット住民だけが眼ざとかったというわけではない、それだけそのシーンにインパクトがあったということだろう。

 ワイドショー系のテレビ番組も野次馬的に同調した。そうなれば、騒ぐのが仕事の週刊誌が舌なめずりしながら参戦、一気に事態は沸騰した。『週刊文春』の手柄であっという間に素性は割れ、名前もほぼ特定、わずか数日で検索エンジンに数万単位でヒットする固有名詞にまであっぱれ成り上がることになった。これぞ今様のジャパニーズドリーム……かも。

 

報ステで見たけど、なんなんでしょあの記者は? 本職なのにねぇ、カメラで撮られたらどうなるかって事ぐらい判りそうなものだけど。良識があれば。30代半ばかな? デスクに怒られるのかな? でもきっと(俺は正しい)と 思うんだろうな。感情的になってどうするんだろ?記事に偏りが出るだろうに。ひょっとして自分の事を正義の使者と思っているんだろうか、だとしたら 相当な勘違い。

なんでもかんでも叩けばいいって認識が改められればいいんだけどねぇ、ま、無理か

記者「社長はこのこと知ってるんですか? 報告してるんでしょ」

記者「何できょう出て来ないんですか? きょうは 何してるんや」

記者「何で きのうの段階で言わないんですか? 積極的に言うべきでしょう」

記者「人間の言葉でしゃべってくださいよ 伝わりませんよ」

記者「TVに向かって言えよ顔上げろ!」

記者「おたくら吊るし上げても しゃあない 社長呼んで」

記者「そっから先は僕らが聞くから …呼んでくれ、はよ」

記者「ボウリングしていたという事実を知ってて どのツラ下げて行ったんです? 遺族の家に」

 個人情報保護法もへったくれもない。パソコンによるテレビキャプチャー装置やHDDビデオの普及が、ここでも大きな武器になっているはずだ。どんなローカル局のへんぴな時間帯の番組の映像であっても、どこかにそれを録画し、記録している人は存在し得る。まして、全国ネットの人気ニュースショウならなおのこと。テレビとはもうかつてのような流しっぱなしの言いっぱなし、やりっぱなしのメディアではなくなっている。


 思えば同じような先達は、このところちらほらと出現し始めていた。

 朝日新聞社会部記者、本田雅和も忘れられない勇者のひとり。NHK特集の「慰安婦」番組をめぐって朝日新聞とNHKとの紛争において、どうやらそもそもの発端に関わっていたとおぼしき新聞記者である。これまたヒゲをたくわえた「自分は他の記者とはちょっと違う」なしるしのかんばせに、取材対象に無断の録音も辞さぬらしいその勇猛果敢なジャーナリズム魂に、ネット住民たちはいたく感動した。

 新聞記者という紋切り型な自意識のまま、ブログに手を出し大やけどする特攻隊もいた。朝日新聞松山支局、藤井某。毎日新聞のカメラマン、五味某が、イラク取材の現場からみやげ物気分で拾ってきたクラスター爆弾の一部が空港で爆発、現地警備員ひとりを殺傷する椿事でも、それまでの五味記者の書いた記事がたちどころに掘り起こされて、その無自覚ぶりがやり玉にあげられた。

彼らは新聞記者だから、あるいはその経歴やそれまでの仕事などからうかがえる思想信条の傾きがリベラルらしいから叩かれた、のではない。おのれひとりが高みに立った優越感や特権意識がにじみ出ていたから、そしてそれらを前提にした身じまいのずさんさが察知されてしまったから、ネット住民たちの批評魂に火をつけた、のだ。

 思えばここまで新聞記者が、その固有名詞と共に衆目を集めるようになったのは、かつて本多勝一本田靖春、大森実など、各社に「花形記者」が輩出した六〇年代から七〇年代にかけての時期以来ではないか。このネット興隆の状況でなお……いや、だからこそ、新聞記者はかように注目され、平等に世間に期待されている、そのことはまず、ご同慶の至りである。

 


 ネットとマスコミとの関係は、当測候所としても開設以来の重点観測項目のひとつである。かつて人気のあったメリケン製アニメ「トムとジェリー」のテーマソングの一節、「仲良くけんかしな」というのが、何よりもお似合いの関係になっているのだが、しかし、巷間思われているほどにこのご両人、水と油の仇敵同士かというと、そうでもない。むしろ、ネットvsマスコミ、という問題設定でネットを語ろうとすること自体が、すでにある種の紋切り型になってしまっているのだ。

 このようなネット観には、それなりの由来がある。少し前まで、インターネットは何か世界を変えてゆく夢のツールのように語られてきた。いや、ネット以前にまずパソコン自体がそうだった。それは文字通り「パーソナル」であることに宿命的に規定されていたツールゆえに、個人の内面と野放図に複合することを宿命づけられていたし、わが日本の事情に関して言えば、それは、「自由」「個人」「民主主義」といった「戦後」の言語空間のキーワードたちと過剰に同調するものにもなっていた。事実、十年ほど前、インターネットという単語が少しずつ世の中に広まり始めた頃には、ネットで選挙を、パソコンで国民投票を、といった発言が盛んにされていたものだ。これぞ究極の民主主義、投票所まで足を運ばずとも、マウスをクリックするだけでいいのだから投票率の低迷も解消されるはずだし、そ今よりも「民意」が正しく反映されるに違いない、もちろんそうなったら自民党保守独裁政権などは一気に瓦解、新たな市民革命がネットから始まる、と、言わんばかりのはしゃぎようだったが、さて、いざネットが普及してみれば何のことはない、それまで表に出なかった世間のさまざまな気持ちや心の動きまでが期せずとも形になり、心構えのないところで出会い頭に思い知らされもし、なるほど民意はそれまでより正しく反映され、世評もおいおい中庸を保つようになったはず、だったのだが、しかし、彼らネットに夢を託した者たちは自分の都合の悪い現実には眼を閉じ耳をふさぐ習性があるらしく、それまでは新たに生まれるネット住人を「ネチズン」などと呼んで持ち上げていたのに、自分たちの思い通りになってくれないことがわかると今度は一転、悪しざまに罵り始めることになった。その時に持ち出されたのが「ネット右翼」「ひきこもり」というキャラクターだった。「ネチズン」と「ネット右翼」は、その来歴からしてこのように同じカードの裏表なのだ。同様に、ネットとマスコミ、シロウトとプロ、アマチュアと専門家、といった二項対立の図式で、ことはとらえられなくなっている。

 学校時代の成績も偏差値も、そしておそらく生まれ育った生活環境も当測候所員の誰よりもずっと恵まれていただろう新聞記者諸兄に向かって、これはまさしく釈迦に説法だろうが、しかし、敢えて言わせていただく。

 悪いことは言わない、画面の前で虚心坦懐、心静かにじっとそこで起こっていることを眺めてみることだ。とにかく半年黙ってROMしろ、それからだ。それができなけりゃ回線切って首吊って氏ね、とは、少し前まで、ネット初心者に対して投げつけられた愛情あふれる教育的指導の定番だったが、つくづく滋味あふれる助言だと感じ入る。単線的にアナーキーになってゆくかのように語られる電網空間も、しかし場所によっては、案外年輩の者の手によると思われる書き込み、あるいはまた以前から当測候所が主張しているように、女性とおぼしき書き込みなどが当たり前のように織りまぜられていることに気づくはずだ。新聞記者やジャーナリストという肩書きに過剰な幻想をいまだに抱えていらっしゃる様子なのが、当測候所から眺めていると実に摩訶不思議。これは大学教授や文学者など、他のものに置き換えても構わないのだが、とにかく、今のこの情報環境でこれまで通りの「権威」を未だ無邪気に信じているかのように振る舞われることが、どれだけ物欲しげで卑しく見えるものか、考えてみていただきたい。

 それでも仕事は仕事、嘘でも新聞記者やジャーナリストの金看板背負ってゆこうというのなら、昨今のネット住民の世界観で「左翼」「リベラル」はどのように扱われているのか、それについてつぶさに検証しようという姿勢がまず必要だろう。あなた個人の思想心情がどのようなものであってもそれは結構。知ったことではない。そのご自分の思想信条と異なる意見、異なる見解がごくあたりまえのように目の前に転がっている、その現実をまず静かに見つめることから始められよ。

 おそらく、これまでもそのような異見、異論はあなたの身のまわりにあたりまえに存在していたはずだ。けれども、その存在にあなたは気づかずにすんできた。その程度にあなたは幸福であり、学校からマスコミへと至る経路に甘やかされてきた。そのシアワセな保育器の内側でだけあなたは「権威」であり続けてきたのだが、もはやその惰眠はむさぼれない。

 竹村記者の素性がおおかた割れた頃に、こんな書き込みもあった。記者の同僚であることをほのめかしながらのもので、ネットの通例でこういうのはまず疑ってみるのが作法だろうが、しかし、わが測候所の見立てによれば、これは昨今の新聞記者がその自意識のままネットに関わろうとする時のほぼ典型例。ゆえに、勝手に同僚、ないしは限りなくそれに近い立場を知り得る者の書き込みということで決めつけておく。その上で、この書き込みの背後にある心理背景をプロファイリングしてみる。

 まず、書き出しはこう。

ぶっちゃけ、竹村氏は中途採用で同期もいないので社内ではあんまり話題にすらなってないです。部署のつながりか、同期のつながりの2種類しかない会社なもので・・・(^^;)

 自分はただの通りすがりという装いで、ということは、ほんとは自分はネット常習者なんかじゃないよ、というふりでおずおず登場、だが「社内」をひけらかすあたり、読売関係者であることをちらつかせたいのがあからさまなわけで、まずこの初期設定からして、そこに漂っている優越感と特権意識を敏感にかぎ取られてしまう。

あと、あまりネラーもいないのか、一部でめちゃくちゃ叩かれているということも知らない人がほとんどです。あと、そもそも、みんな忙しいサラリーマンですからテレビ見てないですし、(社内にはBS等あわせて常に部署ごとに何台もテレビつけっぱなしなんですけど)、リアルタイムで見た人なんてほとんどいないと思います。 (つか、あの映像ってテレビでは何回ぐらい流されたんですか?)

 現実の新聞社の現場では今回の一件をそんなに気にしてなんかいないよ、大人はもっと忙しいんだよボウヤたち、といった調子で、ここですでにかなり高みにのぼって人ごとに。たかだかテレビの映像が一瞬流れただけのことじゃないの、という冷や水を浴びせておいて……

私も、あぷされていた動画を見て、初めて「コレはちょっとなー。」っていう 感想をもったぐらいですから

 ……と、自分もあれはひどいとは思いますよ、ええ、と、ネット世論の風向きへ配慮、多数派ぶりっこのおもねりを示すという手口。あからさまな擁護や弁明ではない分、表立ってかみつきかえされないような防御線を張っているのが知能犯。そして、次。

このスレで一生懸命、「読売は必死に隠蔽工作をしてる」って叫んでる厨房がいるようですんで なんだかなー、って思ってつい書き込んじゃいました。そんなわけないのは普通に社会人をしていれば当たり前に分かることだとおもいますけど・・ なんでも陰謀論に傾くのは社会人経験がない引きこもりの割合が多いといわれるにちゃんねらーの特徴でもありましょうけど、その無意味な必死ぶりはちょっと哀れっぽくて失笑を誘います

 おまえらネット住民、それも2ちゃんねるの連中なんかしょせんは根も葉もない便所の落書き、オレたち現場のプロの眼からしたら実にくだらないんですよ、そんなおまえらと違う自分は現場のオトナだよ、という優越感がありありと見えてくる。このへんでネット住民のリテラシーの標準からしても、この御仁に対する反感ははっきり自覚されるようになっているだろう。

あ、竹村氏については、どこの世界にもある程度の割合でいるが、特に左側の人に多い「絶対正義の人」だとおもいます。 彼の経歴について詳しく知ってるわけではないですけど、地方紙にいたということらしいですし、 特に地方紙の古参の記者には、左巻きの人が多いから、そういった素質が増幅されてしまう環境にいたんではないでしょうかね? ああいう性格が矯正されなかったのは彼にとって不幸なことだと思いますけどね

 と、最後にもう一度多数派に就く素振りを示して去る。あの竹村は単なるバカだよ、ヘタ打ったんだよ、自分も含めて他のやつはあんなにバカじゃないよ、と言いたいのがよくわかる。おそらく、書いた本人も気づいていないだろうが、一番言いたいことはそのことのはずだ。



 切り込み隊長という御仁がいる。以前は2ちゃんねるの運営に関わり、今のなりわいはというと、どうやら一匹狼の投資顧問。事業に失敗した父親の借金を自らの才覚で百億円稼いで埋めて、いまも政界、財界、その他なにやらIT周辺の裏稼業にも精通している、といったふれこみで、にわかにネット住民たちの信頼を一身に集めていた。「俺様キングダム」と銘打ったブログも大人気、ネットラジオでも言いたい放題で「アタマのいいやつ」という評価は定まりつつあった。表のマスコミに姿を現わさなかった分、その信頼度は上乗せもされた。そろそろ雑誌メディアにも進出、他でもない本誌でも執筆してもらうようになっている。ベストブロガーとして表彰までされる、そんな彼が、一気に今度はまな板に乗せられることになった。彼自身語ってきた彼自身のことについて、疑惑が連鎖的に噴出したのだ。

 ネット空間特有の大言壮語、「ネタ」として目に立ち、そしていっときの愉快の素になるならば、明らかにあやしげな言説も拍手喝采受け入れる文化が、いったんその制御を誤ると熾烈な攻撃にまわる。わが同胞に宿っているホラ吹きの習俗、烏滸の伝統はこのような形で活きているのかも知れないと思ったりするのだが、しかし、ホラはそれをよしとする聴衆、観客との関係性において初めて十全に機能する。ホラ吹きとしての器量に疑問符がつけられたら最後、それまでの賞賛は瞬時にひっくりかえり、オセロよろしく盤面逆転、一気に「叩き」にまわるのも世間のそれと変わらない。

 切り込み隊長もそのような人心のからくりに通じている、はずだった。クレームに対処する心構えなどを企業にコンサルしているし。だが、いざことが自分のことになるととたんに対応があやしくなった。さすがにこれはいただけない。

 このような、一読すればある種卓見も、ホラが成り立たなくなった状況では「どうせまた自作自演でないの?」と白い眼で見られてしまう。一見冷静な批評に見えても、実は本人がそう見てほしいような本人像かも知れない、という自家撞着。批評が主体を食いつぶすことをここまで容易にしたのも、ネットの果実だろう。 

 ネットとマスコミ、バーチャルとリアル、活字とそれ以外、何であれそのような二項対立でいまの情報環境を説明しようとすると、足もとからすくわれるのは必然と心せよ。マスコミもまたネットの海に浮かんでいるし、同時にネットも既存のマスコミとの共鳴関係によって存在できている。新聞記者がうっかりネットに意見を書き込むこともあれば、芸能人が案外読ませる日記をつづっていることもある。もしかしたら、千代田区一番地の住人たちがそっとブログをつづっていたとして、何も驚くには当たらない。そういう「何でもあり」を、まずそのようなものとして静かに見つめることからしか、今のこの状況を健康に泳ぎきる心肺能力を培うことはできないだろう。