「歴史」ではない、「政治」である

 歴史認識の共有、が、またぞろ取り沙汰されている。民主党岡田代表あたりが旗振りで、かの空虚な「東アジア共同体」構想と連動させようという思惑もありあり。これまでも日韓で「専門家」が雁首揃えて寄り合って何の成果もなかったことに懲りる風もない。

 問題は「歴史」ではない。「政治」である。「日本は正しい歴史認識を持て」という中韓の言い分は、「政治」を「歴史」=「学問」の名の下にごり押しする無理無体である。

 同じ土俵でつきあうことはない。そもそも「歴史」とは何ぞや、ということから省みよ。そうすれば、歴史認識の真の共有ということ自体、不可能なことがわかる。何も中朝韓相手だから無理、というだけでもない。「歴史」をめぐるお国ぶりの違いが存在するという意味で、これは文化人類学的な課題である。

 グローバル・スタンダードを標榜する市場経済や資本主義にも、それを受容したお国ぶり、それまでの来歴が根深くからんでいる。ウエーバーの説いた資本主義と今の中国のそれと、似て非なるものなのも不思議はない。「歴史」もまた同様だ。「歴史」には常に「政治」がからむ。そのことに「学問」が往々にして無自覚なままなのも確かだし、わが国の学問とてそのへんは同じだ。

 「歴史」と「政治」のからみ具合を自覚しながら、おのが来歴に誠実な歴史を静かに語ること。彼我の認識の「違い」を違いとして淡々と提示してゆくこと。いま、必要なのはまずそれだ。その意味で、小泉首相のあの頑固さ、変人ぶりはひとまず評価していいのだと思う。

*1 時代は変わる。歴史も動く。それらの中にあって、その動きを語るもの言いだけが旧態依然。それもまた「伝統」だと言うのなら、その心意気やよし。ならばその「伝統」とは果たしてどういうたたずまいのものになっているのか、素朴に腑に落ちるような言葉にしてもらわないことには、申し訳ない、「伝統」だの「歴史」だのを取り扱う民俗学者でさえも、その提灯にはついてゆけない。

*1:以下の部分は掲載時、割愛されていたかもしれない、為年。