ひめゆりの語りって退屈?(改稿後)

*1 この春、青山学院高校の入学試験で「ひめゆりの戦争体験談は退屈だった」という内容を含んだ英文が出されていた、というので、今になって一部のマスコミで騒ぎに。当のひめゆり語り部や研究者がクレームをつけて地元紙経由でようやく全国報道に、というのが真相らしい。

 問題の原文を読んでみたが、はて、何が問題なのかわからない。修学旅行で沖縄の戦跡を見学してその具体性に衝撃を受けたが、その後、語り部たちの話を聞いたら戦跡ほどの感銘は受けなかった、戦争体験の語りがこなれてしまっていて「退屈」だった――ざっとそういう内容なのだが、最後に、だから戦争体験の継承って難しいよね、君はどう思う、といった感じの問いを投げかけていたり、出題者にはむしろ「その心意気やよし」と言ってもいいくらいだ。

 「展示」される「歴史」の語りが「退屈」なのはいずこも同じ。どんな「体験」も「語り」を介してしか現前化しないのだとしたら、それが「型」としてなめされてゆくことは必然であり、だからこそ、そういう「退屈」を超えてなお伝わる何ものか、が求められる。“芸”とはそういうもの。落語や歌舞伎を引き合いに出すまでもない。「型」の向こうに“芸”は宿る。「悲惨な体験」を「型」に幽閉するだけでは「体験」の真の継承など生まれようがない。語り部たる元ひめゆり学徒がするべきは、クレームをつけることではなく、その「退屈」という感想の理由を静かに考えてみることではなかったか。そう、「退屈」は「型」のせいではないのだ。

 ただ、この件、学校側がその後「謝罪」したとか。ああ、なんたる腰砕け。出題者よ、いまからでも遅くはない、ぜひともひめゆり語り部と対峙せよ。その覚悟も目算もないのなら、初手からこんな仕掛けはせぬが吉、だ

*1:微妙に手直し求められました。主な改稿・さしかえ個所は太字ゴチック部分。ひめゆりを「芸人」と同一視するのはキツいでしょう、とのことでした。元原稿はid:king-biscuit:20050616