「民間」こわい?――郵政民営化をめぐる奇観

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 自民党内造反派と野党とが共に仲良く民営化反対を唱えた天下の奇観、国会での郵政民営化をめぐる議論を聞いていて、気になったことが少し。

 郵便局を民営化したら株主の好き勝手にされますよ、不採算部門は速攻で切り捨てられるんですよ、民間任せだとカネ儲けの論理でひどいことになるから、そこは損を覚悟で公共機関がやりますよ――反対派はこんなことを言う。しかし、そこまで「民」を思ってくれる高潔な「公」が今、果たしてどこにあるのか。そんなもの、実はもう存在しないかも知れないじゃないか。

 何より、そういう「公」観自体、かつての武士階級のイメージが揺曳しているのだが、論戦を聞いている限り、与野党共にそういう「公」観が未だに根深い。「官」や「役人」の不条理はもうさんざん思い知ってきているはずなのに、対する「民間」「市場」への不信感も同時にある。だから混乱する。

 一方で昨今、公務員予備校は大盛況という。安定しているから、ラクだから……公務員志望の若い衆とその背後に見え隠れする「民間」のホンネは、国会の議論に現われる「公」像とは深刻なズレがある。「豊かさ」の果ての高度大衆化社会。「民」が平準化してゆくのに比例して、「国」なり「官」、「公共」に対する想像力もまた、根本的にこれまでと違ってきている。

 民営化で今より不便になることもあり得るだろう。だが、同時にそれを是正しようとする明朗さも社会にはある。健康な市場原理とはそういうものだ。民間=市場性善説、と言ったら言い過ぎだろうが、少なくともアメリカなどに比べてはるかに等質性の高いこの日本で、その同胞を信頼する構えの有無こそが今、問われている。あの無手勝流の小泉答弁に侮れないものがあるとしたら、そういう丸裸の信頼、同時代のニッポン人に対する底知れぬ「大丈夫だ」感覚だろう。「民」を世話してくれる「公」などもういない。いる必要もない。「民」がまずそう言ってみることから、全てが始まる。

*1:ストック原稿枯渇とかで至急穴埋めを。例によってゴチック部分は削除でしたが。*1

 

*1:その後の後日談として、さて、ここで表明していたような「民間」への信頼が結果的にどういう現実を招来したのか、はまた別の話になってくる、是非はともかく、そして為念。