無法松、あすなひろしの無意識をうっかりと引きずり出すこと

 いや、のけぞった。めまいがした。そうか、そういうことだったのか、やっぱり、と、膝を何度も叩きまくった。

今回、あすなひろし公式サイトを管理する高橋徹さんに、この解説を書くための資料として送ってもらったコピーで初めて読んだのだが、あすなひろしが自分の父について語ったエッセイにこんな一節があったのだよ、お立ち会い。

 私の父は役人でしたが世情にはうとく、それが大衆誌のつくりあげたゴシップやスキャンダルであろうと活字になれば信じてしまうし、映画やテレビで見る美人女優に興奮するし、大きな画用紙に水彩で生真面目に何を描いているのかと思えば、それが三ツ目小僧であったり小田原提灯を持った河童であったり、風呂あがりに何かの用事に慌ててパンツを穿かずに浴衣をひっかけただけである事を忘れて逆立ちをしたり、若いときには売春街で女を奪いあって大立ち廻りを演じてヤクザさんにその場をおさめて貰ったとか、九州の高崎山の、その山向こうで育った腕白坊主の庶民性をそのまま持ち続けている人でした。ちなみに我が家のトランプの絵柄は、オールヌードでのけぞった金髪美女で、私達子どもと友だちは、のけぞり金髪ヌードのカードを飛び交わしてババヌキ等やっていたわけです。

「一冊の辞書」『SFマンガ競作大全集』part.19 1983年

 これ、まんま無法松じゃないの。

 少なくとも、どうしようもないまでも九州オトコ、若干インテリ風味に振れてはいるけれども、その分また固有の難儀が増幅されてもいる、何にせよ近代西南日本系マッチョの典型。法曹家で判事を長く勤めたという御仁、まごうかたなき立身出世エリートのはずの身体に、このように土俗/民俗に通底する何ものか、が脈々と流れていた。

 ここであすなひろしはそれを「庶民性」というもの言いでひとくくりにしているけれども、そしてそうくくるしかひとまずないようなものだろうけれども、しかし、である。そのようにくくってしまわざるを得ない感覚がこちら側、他ならぬあすなひろしの内面に宿ってしまっていたこと、そのこと自体は、ああ、もう、まさに「無法松の一生」の敏雄少年、そして原作「富島松五郎伝」の作者だった岩下俊作が抱え込んでしまっていた難儀そのもの、だったのだからして。

 先回りして言ってしまうと、それはそのようにうっかりと「近代」に遭遇してしまわざるを得なかった世代の難儀、でもある。遭遇して、そして自分の「内面」にそのように気づいてしまわざるを得なかった、そんな宿命を背負ってしまった者の不安と恍惚、でもある。不安は自意識に、そして恍惚の方はもちろん下半身……あ、いや、性的存在の領域に向かうのが必然なわけで、かくて、父性経由の“オトコらしさ”に圧倒されつつ憧憬しながらも、同時にそれをうとましく思い、思う分だけフェミニンでたおやめぶりな“趣味”へと沈降してゆくベクトルもしっかり宿ることになる。その葛藤を昇華させる手だてのひとつとして、ゲージツだのブンガクだの、そういうややこしいものは存在していた。もちろん、人によっちゃマンガも、だ。

 高崎山の山向こう、というからにはそのお父上、大分は別府の裏側、九重か湯布院界隈の出身だったのだろうか。なにせ、あのへんはまるごと“吉四六ばなし”の土地柄、「キツネをウマに乗せたような」と言われる天然のホラ吹き、トールテール(バカばなし)が日常化している風土に育った人だったのだろうことは推測できる。で、それに対して母上の方はというと……

かといって父が軽薄な人間であったのではありませんが、品位と品格を重んじる母はそんな父の庶民性をひどく嫌っていました。

 ……だから私は母の目を持って父を見ながら母が嫌うように父を嫌い、母が軽蔑するように父を軽蔑して育ちました――そう、あすなひろしは続けている。九州オトコ、を支えるはずの、言い換えれば甘やかせながら包み込んで制御する、オトコを立てながら存分に操る、そんな九州オンナ、ではどうやらなかったらしい。

 あすなひろしの、あの屈託、あの何ものかに常に静かに脅かされているかのような、精細で緊張感のある絵柄の、そうならざるを得なかった理由のある部分が、少しだけわかったような気がした。少女マンガから発して少年マンガ、青年誌へと活躍の場を広げていった、というひと通りの経緯だけからでは絶対にない、あのフェミニンで過敏なまでに内面的な作品世界へ、そして異様なまでに完璧主義な原画のクオリティに向かわざるを得なかった、作者固有の事情、というやつが。



 というわけで、そんなあすなひろしの、「無法松の一生」、である。

 初出がなんと『少年ジャンプ』である。当時の「ジャンプ」で「無法松…」をやらかす、それも何の仕掛けもなくそのまんま、ド真ん中の直球で放り込む、無法と言えばそれこそが無法、やらせた当時のジャンプの編集部も編集部と思うのだが、それでもしごく大マジメに無法松をやった、やってみたかったあすなひろしというのが、確かにいた。*1

 ネームは正直、粗い。小倉弁ではない。いや、そこまで徹底しなくても別にいいのだけれども、と言って、最低限「無法松…」イメージにつきもののステレオタイプの九州弁に近づけようとしたフシも、あまりない。ならばどこの言葉、というわけでもないが、まずは広島弁が基調なのは明らか、そこに微妙に関西弁らしきものも混じるというしつらえ。その意味では、まごうかたなくあすなワールド、ではある。

 もともとは小説、である。昭和初年、九州は八幡製鉄所の職工だった岩下俊作の手による短編。「富島松五郎伝」というタイトルだった。それが伊丹万作によってシナリオ/脚本化され、文学座によって舞台化、そして稲垣浩監督、板東妻三郎主演で映画化された時に「無法松の一生」になった。無法松イメージの原型はこの映画バージョンである。戦後、さらにそれはさまざまなメディアにコンバートされ、ステレオタイプの「無法松…」がさらに強固になってゆく。村田英雄の「無法松の一生」、ほれ、♪小倉生まれで玄界育ち/口も荒いが気も荒い、という演歌バージョンなどが典型的だが、無法松というとああいう演歌調丸出し、単なる乱暴者のマッチョオヤジ、といった面ばかりが一層強まっているのが「戦後」、それも高度成長期以降だったりする。原作にはらまれていた「近代」の孤独、単身者の“老い”などのモティーフはそこではもう、ほとんど抜け落ちている。そのあたり「無法松」イメージの変遷およびその理由などについて、関心のある向きは、拙著『無法松の影』(文春文庫)をご参照あれ。

 ならば、このあすな「無法松…」、どのへんを下敷きにしているのか。たとえば冒頭、松五郎をやっつける小倉警察の剣術師範が「尾形重蔵」という役名を背負って重要なキャラクターとして登場しているところからみても、これは舞台経由、それも文学座その他新劇系の芝居ベースで無法松のイメージが入ってきているようだ。ちなみに、舞台化された当初、この尾形は徳川夢声のはまり役だった。

 バンツマの映画は……どうかな、おそらく見てはいただろうし、とびらのイメージなどにも通底するものがあるけれども、作品自体にそれほど明快に反映されている印象はない。

 何よりあなた、肝心かなめの吉岡夫人が、このあすな「無法松…」ではもうとにかく、これでもか、というくらいに徹底的に魅力がない。これは実はえらいことで、「無法松…」というのは、とにかくそのヒロインでありマドンナである吉岡未亡人のキャラクターが、とてもあり得ないような(実際、あり得ないのだが)「良妻賢母」「美人」「いいオンナ」……何であれそういう幻想そのものの具現化であることによって、初めてうまく稼働するような“おはなし”、だったはずなのだが、しかし、このあすな「無法松…」の中では、その吉岡夫人は気の毒なくらいにくすんでしまっていて、申し訳ない、単なる地味な未亡人、子持ちのオバサンでしかない。

このへん、あすなひろし自身のセクシュアリティからして、こういう吉岡未亡人系のオンナではなく、むしろあすな作品では定番のあの「ヨシベエ」系、元気でおっちょこちょいで前向きで、いろいろあっても基本的に世話女房型、“日常”の磐石から絶対に離れない、離れようとしない半径2DKなオンナの方が本来のベクトルだったから、ではないだろうか。その程度にあすなひろしもまた、「戦後」の存在ではあった。だからこそ、松五郎が実は吉岡夫人に想いを寄せていた、という重要なモティーフが、このあすな「無法松…」ではうまく際立たなくなっている。また、常磐座での事件の敵役(満州の戦地帰り、という設定だが、この「戦地」も日露戦争というより、日中戦争以降の「戦争」イメージが強い)が結構大きくフィーチュアされていたり、吉岡夫人の再婚話が強調されているのも、このあすな「無法松…」の特徴と言える。同様に、敏雄が成長してゆくに従い松五郎をうとましく思ってゆく、その過程の理由づけも、思春期の内面形成に伴う父性への嫌悪感、といった原作以来のモメントよりもむしろ、車曳きの息子、と呼ばれることへの嫌悪感の方に重心を置かれている。かつての少女マンガ定番の“継母もの”の匂いもないでもないが、ただこのへんは、掲載誌と読者層に配慮してのこと、かも知れない。

おれは思うんじゃけど――ぼんぼんが内気なだけに、あたらしいおやじさんとうまくいくかうかが心配なんじゃ――それに親子いうもんはいつもでもなかようやってくのが、これ、いちばんのしあわせじゃないんじゃろか

 というようなわけで、このあすな「無法松…」、「無法松の一生」としてはもともと持っているはずの“おはなし”の構成を崩してしまうような、正直アンバランスな作品になっている。なってはいるのだが、しかし、だからと言って間違っちゃいけない、その分、とこれは言っていいのかどうか、とにかく松五郎が祇園太鼓を打つ、そのシーンの躍動感だけが抜きんでて艶っぽく、とにかく素晴らしい。大胆な構図にコマ割り、飛び散る汗……ええい、もう、誤解を恐れず言ってしまえば、あすなひろしはこのシーン、こういうオトコの肉体のみずみずしさを描きたかったために「無法松…」をとりあげたのではないか、とさえ思えるほどだ。

 角刈り、ないしはスポーツ刈り系の短髪、いかつい顔の輪郭に張ったあご、大口あけて笑い、眉つり上げて怒り、そしてたまにふっと目線を落として翳りを見せる表情……などなど、あすなひろしの作品世界での“オトコ”、それも望ましいオトコの造形の定番であるような要素は、この松五郎にも存分に投影されている。あ、それとあと、首筋から肩口にかけての筋肉の盛り上がりやその張り切ったたたずまい、などもまた。

 ならばいっそのこと、役人の松五郎、インテリの松五郎、というのを描いてもらいたかったな。それこそ、まんまお父上、判事の無法松、とか。そういうオヤジ、そういうオトコとの関係で立派にオトナになってゆく“ぼんぼん”の存在、それをきちんと描いてくれる機会があすなひろしにあったならば、それはきっとあの『青い空を白い雲がかけてった』のさらにその向こう側、言葉の最も豊かな意味での「私小説」にもっと近寄ってゆけるようなマンガ表現の、そのひとつの可能性を開くものになってもいたはずだ。

*1無法松の一生」をマンガ表現に活け替える試みで、あたしの知る限り出色だったのは、山松ゆうきちのものだ。(『にっぽん自転車王』日本文芸社 1990年) とにかく、競輪マンガという縛りの中で、松五郎をむりやり大暴れさせる腕力には脱帽した。戦後まもなく、草創期の競輪を舞台にした物語。松五郎もまた、愛車“ゼロ戦号”を駆って参戦する巷の自転車乗り、あんよ自慢のひとり、として描かれている。もちろん、“ぼんぼん”敏雄の役回りは、後輩の若い衆。終章、「ほんまの競輪を教えたる」とタンカを切って、先行させた“ぼんぼん”のうしろで昔ながらの立ち回りをやらかした末に落車して死ぬ、という老選手松五郎の幕切れには、なんと強引な、とわかっていても落涙する、させるだけの馬力が作品にある。それ以外にも、「王将」坂田三吉だの、「一本刀土俵入り」だの、そういう「近代」由来の型通りの“おはなし”の数々を、競輪マンガという不自由の中で裏返しに野放しにして解き放つ山松マジックが炸裂。祇園太鼓のワンシーンの描写一点突破で支えようとした、あすな「無法松…」との、発想、処理、その他もろもろ、マンガ文法そのものの違いも含めて味わいつつ、ニッポンマンガという表現ジャンルの広大無辺、融通無碍に想いを馳せるのも一興かと思われる。