嫌韓流、を知ってますか?

 

 

 『嫌韓流』という本が、この夏、ベストセラーになりつつあります。

 いわゆるマンガ本、ですが、週刊誌などにいったん連載されたものをまとめて単行本にした通常のコミック本という形ではなく、描きおろしの新刊本で、判型も大型。書籍流通上は、ムックという扱いになっています。

 八月二十日過ぎの段階での発行部数は、すでに二十万部を超えたそうです。初版は三万五千部とのことでしたから、発売後ひと月たたずにここまで部数を伸ばしたということは、今の出版状況を考えれば、まずベストセラーの類と言っていいでしょう。一部では、マンガの単行本の尺度からしたらそんなに売れているとは言えない、とか、ムックだから一般書籍とは別だ、といった解釈もあって、事実、メディアの一部には、そういうものさしを楯に、書籍売り上げランキングに反映しにくいように細工する向きなどあったようですが、いずれもためにする議論、まあ、いちゃもんとしか言いようがありません。

 版元は晋遊社という出版社。もともとパソコン関係の本を中心に、一部でアイドル本や美少女系マンガ本なども手がけていましたが、設立してまだ十年め、いわゆる大手出版社でもなければ、これまで何か話題になるような本を出したというわけでもない、その意味では、まず無名の出版社です。著者は山野車輪という人。年齢その他、経歴についてもほとんど不詳。現在まで主な実績のない、これまた無名の漫画家です。

 七月二六日に発売、ということでしたが、事前にインターネットなどで流れていた評判もあって予約が殺到、アマゾン・ドットコム他、ネットでの書籍通販を中心に発売日までに初版分はほぼ予約で消化されてしまい、発売当初は書店の店頭になかなか現物が並ばないという状況が続いていました。その分、飢餓状況ができてしまい、余計にヒートアップしたところもあります。版元は速やかに増刷を決定、お盆休み前の進行で印刷所のスケジュールがきびしい中をかいくぐって作業を進め、八月の十日前後には新たに刷った分が市場に流れ始めました。それでも、地方都市の書店などにはなかなか本が回らず、早めに手に入れられることのできた人とできない人との落差が結構あったようです。

 とは言え、お盆過ぎにはそんな流通の格差も少しずつ平準化されていったようで、今では大都市圏以外の書店にもおおむね行きわたっている様子。中には、ワゴンセールのようにして店頭の目立つところで売られているところもあるようです。

 タイトルが示すように、内容は、韓国に対する違和感、を素朴に表明するものになっています。「韓流」とは、言うまでもなくこのところメディアで騒がれている、韓国製テレビドラマを先頭にした韓国発の大衆文化のブームのことですが、これに対して「嫌」の文字を頭につけることで、そのような「韓流」に対する違和感を表明する、そういう意味を持たせています。原稿自体は、二年ほど前にすでに完成していたそうですが、持ち込んだ複数の出版社から「過激すぎる」などと断られ、紆余曲折の末、この晋遊社から出されることになった、と言われています。

 分量は、290ページ。目次は、以下の通り。

第1話「日韓共催ワールドカップの裏側」

     韓国人に汚されたW杯サッカーの歴史

第2話「戦後補償問題」

     永遠に要求される金と土下座

第3話「在日韓国・朝鮮人の来歴」

     在日が歩んだ歴史と「強制連行」の神話

第4話「日本文化を盗む韓国」

     日本文化の窃盗と著作権無視のパクリの実態

第5話「反日マスコミの脅威」

     日本を内側からむしばむ反日マスコミのプロパガンダ

第6話「ハングルと韓国人」

     自称「世界一優秀な言語」ハングルの歴史と秘密

第7話「外国人参政権の問題」

     外国人(=在日韓国人)が参政権を持つということ

第8話「日韓併合の真実」

     朝鮮の近代化に努めた日帝36年の功罪

第9話「日本領侵略――竹島問題」

     互いに領有権を争う日本と韓国、それぞれの主張

エピローグ「日韓友好への道」

 これに、箸休めのような形で、活字のコラムが四本、さしはさまれています。 西尾幹二「外が見えない可哀そうな民族」、西村幸祐反日マスコミと韓国」、下条正男「竹島問題とは何か」に、かくいうあたし、大月も「自虐と嫌韓――嫌韓厨・考」という駄文をひとつつけあわせに添えさせてもらっています。

 さらに、本編のマンガの番外編というか、参考資料のような形で「極東アジア調査会レポート」と名付けられたものが六編。「韓国人特有の精神疾患火病』とは何か」「『スマトラ沖地震義援金』に見る韓国の国際貢献の在り方」「韓国における捏造・パクリの実態」「通名報道――朝日新聞だけ異なる容疑者の名前」「日韓合作『従軍慰安婦』問題の最終考察」「メディアリテラシーとインターネット」……と、ざっとこんな感じですが、さて、いかがでしょう?

 なんとまあ、あからさまな、とまずはびっくりする、そのへんが世の普通の人たちの反応でしょう。で、肝心なのはその次、です。びっくりして、うわっ、こんなことをおおっぴらに語るなんて、と眉をひそめるか、それとも、ああ、時代は変わった、としみじみするか、そのへんはまあ、人それぞれの感じ方、それ自体どうこう言うことではありません。ともかく、こんな内容の本が二十万部以上、それも表だってマスコミで宣伝されたわけでもなく、誰の目にもわかるような盛り上がりがあったわけでもなく、ネットを足場にネットで培われた感覚――敢えて〈リアリティ〉と言ってみましょうか――の上に平然と、しかし熱く受け入れられるようになっている、まずはその眼前の事実をどう考えるか、それがひとまず重要な課題だと思います。 





 なぜ、今、このようなあからさまな、ある意味では率直、またある意味ではいささか無遠慮に過ぎるような内容の本がそんなに売れているのか。 

 マンガだから、という理由がひとまず考えられます。なるほど、同じ内容を活字の出版物で刊行したとしても、本自体さっぱり売れなくなっているいまどきのこと、ここまで評判になって売れることはまずないでしょう。活字離れの著しい若い世代に向けてマンガという飲み下しやすい形にして本を出す、そういう手口は最近よくあるから珍しくもないよ、活字をきちんと読みこなせる能力のある人間ならばこんなマンガに引きつけられはしないはず、といったタカのくくり方も背後に予想されます。このへんは古典的な知識人優越の世界観、マンガは娯楽、しょせん活字みたいに難しくて複雑な問題を提示するようにはできていないんだから、ということでしょうか。マンガであるということをネガティヴにとらえる考え方に立つと、まあ、こういう感じになるのでしょう。

 その裏返しで、マンガだから、という部分をポジティヴに評価する場合もあります。マンガは新しいメディアだ、若い世代は活字よりいまやマンガで〈リアル〉を学んでいるんだから――活字が無条件でメディアの上位に位置することができた、少なくとも「そういうもの」という共通理解が最低限成り立っていた状況で、マンガというのは確かに下位に見られていましたし、たとえば一時期のマンガ評論などはこういう世界観を前提に成り立っていたところもある。けれども、これらの解釈は共に表裏一体、同時代の情報環境を活字を中心にした見取り図でとらえて、プラスであれマイナスであれ、活字との距離感でだけマンガをとらえようとする態度に根ざしています。

 また、ネット発の素材がもとになっているから、という説明もありがちです。同じくネット発で草の根から火がつき、書籍化されてベストセラーに、さらには映画化、テレビ化とメディアミックスの真っ只中に放り込まれてメジャーになった『電車男』の例もある。何より、版元自身の規定でも、悪びれることなく、こうです。

「インターネット上で数年前から巻き起こっている、嫌韓というムーヴメント。その嫌韓をテーマにし、日韓関係、韓国、韓国人についてマンガという形で正面から切り込んだのが、本書である。」(晋遊社ホームページの「嫌韓流」サイト、より)

 けれども、ネット発だから、というだけでここまで売れる、というわけではない。事実、本書を読んだネットユーザーの感想には、「ネットではもともと言われていたようなことばかりだから、内容的にはそれほど新鮮味はなかった」といったものも珍しくありません。これまた、先のマンガだから、という説明と基本的な図式は同じで、マンガ、という新しいメディアが、時代がひとめぐりして今やインターネットになった、それだけのこと。新しいメディアだから若い世代に受け入れられる、という図式は現実にあり得るにせよ、しかし、それが売れた理由の全てではないのはもちろんです。

 嫌韓だから、という解釈もあります。確かに、嫌韓感情というのが、一般に考えられている以上に広く世間に広がっていたこと、これはまず前提としてあります。それは、直近のきっかけとしては2002年ワールドカップ日韓共催が大きかった。本書が、そのワールドカップでのエピソードから始まっているのは偶然ではありません。あのイベントを境にして、特にサッカーにシンパシーを持つような比較的若い世代を中心にして、韓国と韓国人に対する違和感、不信感は、小難しい理屈やイデオロギーとはひとまず別に、ごく素朴に共有されるようになっていった。さらに付け加えるならば、その若い世代というのは80年代以降、先鋭化していった「自虐史観」教育の真っ只中で社会化していった、その意味ではそれまで韓国や中国に反感を持つように育てられてはこなかった、そんな世代でもあります。学校とメディアとの複合で「自虐史観」が当たり前の環境を呼吸してきた彼ら彼女らが、その向こう側の〈リアル〉を偶然、垣間見ることになった最大のきっかけが、皮肉にも日韓共催のワールドカップだったというわけです。

 ならばその、嫌韓、というのはどういうものか、という点が次に問題になる。韓国が嫌い、という感覚を抱くのはある程度自然だとしても、それは表面的には単なるレイシズムのバリエーションにも見えますし、また、思想や言論といったものさしでだけ眺めると、絵に描いたような「保守」、場合によっては「右翼」とまで呼ばれるような現われにも見える。また、一部でよく言われるような、最近日本が「右傾化」している、といった舌足らずな解釈へも容易につながるようなものでもあります。

 けれども、その若い世代が軒並み思想的に右旋回している、というわけではない。現われとしてそう見える部分はあるにせよ、その内実は実はそんなに単純なものでもなくなっている。

 本書にコラムを寄稿しているジャーナリストの西村幸佑さんが、自身のブログでこんなことを言っていました。

「2002年ワールドカップからの「何か変」という感覚が、9月17日の小泉訪朝で一気に弾けたのが、洗脳が解けた20~30代の人の共通体験だ。それは3年前から取材して分かったことだった。(…)3年前、2年前と連続して終戦記念日靖国参拝オフをした若い人たちも、「マンガ嫌韓流」という作品が生まれてくる過程とシンクロしていた。自由な発想で日本と日本人を見つめたから、40代以上の人間には想像も出来ない柔軟な発想が可能だった。」

(西村幸佑 酔夢ing Voice 「マンガ嫌韓流を読む」)

 いま示したような三つの説明のパターン――マンガだから、ネットだから、嫌韓だから、という三つの要素を全部まとめて解釈しようとしたら、大枠こういう文脈にならざるを得ないでしょう。その程度のこの西村さんの認識は、ひとまず穏当なものだと思います。最低でも数十万というオーダーで、そういう感覚を持った日本人が、それも若い世代を中心にどうやら現われてきているらしい。

 西村さんはこうも続けています。

「彼らの世代に共通するのは小林よしのり氏の「戦争論」の洗礼であって、今回、解説コラムを西尾幹二氏と大月隆寛氏が執筆したのは、そういう意味で一種の必然だった。」

(西村幸佑 酔夢ing Voice 「マンガ嫌韓流を読む」)

 ああ、そうか、やっぱりそう見えるんだな――そう思いました。そりゃそうだろうな、と、どこか納得する感覚と同時に、でも、そう見える立ち位置からは、西尾さんとあたしのスタンスの違い、その違いのうちにはらまれたとんでもない距離感、なんてものについてはひとまずなかったことになっちまうんだな、という苦笑いも、また。





 そう、この『嫌韓流』は、それにまつわる現象も含めて、やはり小林よしのりと彼の「ゴーマニズム宣言」が90年代に切り開いていったものの後、芽吹いたひとつの形、なのだと思います。その意味でまずこれは、ポスト「ゴー宣」世代&状況の産物である、と言っていいのでしょう。

 西村さんは『戦争論』に言及していましたが、その前にはもうひとつ、『脱正義論』がありました。当時、いわゆる薬害エイズ訴訟を「ゴー宣」で支援していた小林さんが、その過程で「運動」現場につきものの政治に巻き込まれ、排除されてゆく過程を、内側から当事者として記述しようとしたもので、連載で描かれていた「ゴー宣」の番外編、描きおろしのスペシャル版として出されたものです。言い添えれば、あたしは当時、落ち込んでいた小林さんに、ならばその体験を記述するような仕事をぜひやるべき、と後押しをした張本人でもありました。

 幻冬舎から刊行されることになりましたが、当初は他でもない、文藝春秋から出すことで話が進んでいました。けれども、作業を進めてゆくうちに齟齬が生じて頓挫、たまたまそれまでもつきあいのあった編集者のひとりが幻冬舎に移籍していたので、その彼を頼って企画を持ち込んで何とか刊行にこぎつけた、という経緯がありました。その後、「ゴー宣」の単行本もそれまでの扶桑社から幻冬舎に移されましたし、同じくスペシャル版として出されて広く読まれた『戦争論』以下のシリーズ、さらには個人誌『わしズム』に至るまで、小林さんの描くものは幻冬舎の売れ筋商品としてラインナップされるようになりましたが、結果的にその橋渡しをすることになったのも、『脱正義論』でした。

 この『脱正義論』は、大きな反響を呼びました。具体的な部数もさることながら、その内容が、それまであまり批判されることのなかった市民系の「運動」の発生から退廃、衰退に至る過程についての、そこに巻き込まれた現場の当事者の立場からのルポルタージュ、ないしはエスノグラフィー(民族/俗誌)といったものだったので、単にマンガというだけでなく、ある程度活字を読むような人たちからも賛否両論、俄然注目されることになりました。小林さんにとっても、それまでの「ゴー宣」読者とはまた違う、活字系のテイストの強い読者と新たに出会うことになったきっかけでもあったはずです。

 『戦争論』の時は、もっとはっきりしていました。『脱正義論』での体験をもとに、今度は「新しい歴史教科書をつくる会」の「運動」に加担するようになった小林さんが、戦争はとにかくいけないもの、という考え方がまだ強かった状況で、敢えてあの戦争をもう一度考え直す、という視点から描きおろしを目論んだ。思想的には東京裁判史観、戦後民主主義的な「自虐史観」に対する異議申し立て、というスタンスを打ち出したものでした。こちらは立ち上がりから十万部単位、今のようにインターネット環境はまだ整っていなかった頃ですが、それでも、連載の「ゴー宣」をターミナルに文字通りの口コミその他で、みるみるうちに読者を獲得し、じきに数十万部規模のベストセラーに。小林よしのり、という固有名詞は単なるマンガ家であることを超えて、言論人や文化人といった脈絡で取り扱われるようになりました、良くも悪くも。

 当時あたしは、新しい歴史教科書をつくる会、の内部にいて、そのありさまを間近に眺められる立場にありましたが、その数十万部という反響がマンガというそれまでにない器を媒介にみるみるうちに見通せてくる、その事態に、いずれ活字中心の世界観では海千山千でやってきたはずの「つくる会」の幹部連が、まるでニキビ面の高校生のように浮足立っていたのを覚えています。「運動」モードの先頭にあった西尾幹二さんや藤岡信勝さんはもとより、当時「つくる会」の幹部で最も中庸で穏当なスタンスを崩していなかった伊藤隆さんあたりまでが何か、ここが勝負どころ、といった感覚になったのか、当初予期していなかった臨時のシンポジウムなどを次々に提案したり、さらにはそこに小林さんを中心にしたギミック(煽り)を仕掛けたり、とまあ、言い方は悪いですが、田舎から出てきた学生が初めて合コンに紛れ込んだような、ある種微笑ましいくらいの興奮と高揚が見られたものです。それは今だと、新党「日本」田中康夫のまわりで共にはしゃいでみせる議員連などにも近い、けれども「運動」=政治、のダイナミズムに巻き込まれる現場においてはそれもまた不可避であらざるを得ないような、いずれそういう種類の“熱さ”でもありました。

「若い世代に限らず明らかに小林ファンという人たちが男女共にかなりの割合を占めるというのが、それまでの「つくる会」のイベントの通例だったのですが、あの時はワーグナーに重なる声高なアジテーションに「えっ」という違和感がサッと流れたのを感じました。シャレにならねえ――僕が「観客」のひとりだったとしてもそう思ったでしょう。そして、そういう微細な違和感こそが今のこういう時代の運動にとっては最も慎重に中和し、ほぐしてゆかねばならない部分であるということが、やはりわかってもらえないんだ――そんな演出の文脈の中ではそれまでになくファナティックな調子で「日本の誇り」を説き「戦争のリアリズム」を唱える西尾さんや小林さんの顔つきを眺めながら、その熱弁に応えて拍手する年輩の観客たちの中に混じる戸惑った顔つきの方をずっと追っていました。」

(拙稿「新しい歴史教科書問題をつくる会」と別れた理由」『あたしの民主主義』所収)

 あの時、舞台の袖からじっと追っていた、観客席の、主に若い世代の戸惑った顔つきの、その末裔たちがいま、『嫌韓流』の読者数十万人の中に確かにいる。そのことを、あたしは感じています。





 その意味でこの『嫌韓流』、本当ならば、他でもない「ゴーマニズム宣言」こそがやってみせていたような企画、だったはずです。少なくとも、かつての「ゴー宣」が獲得していた同時代の読者の信頼感、というのは、いま、『嫌韓流』をめぐって静かに広がっている共感と、ある部分で共通する質を持っていた。

 しかし、かつての「ゴー宣」と今の『嫌韓流』とは、決定的に違っているところもある。「ゴー宣」とその時代から生まれたものであることを認識しながら、同時に、その間に横たわる違いを静かに見つめるだけの度量が持てるかどうか、そこが、今のこの『嫌韓流』ブームを解釈する時にも、ひとつ重要な分かれ目になるように思います。

 たとえば、彼らは固有名詞として突出してゆくことを一義にしていない。抑制しているというよりもまず、その必要からしてあまり感じていないらしい。

 「ゴー宣」はその描き手である“小林よしのり”を、固有名詞として突出させてゆくことをあらかじめメカニズムとしてはらんでいました。それは「ゴー宣」自身の性格というよりも、むしろ「ゴー宣」を可能にしていた時代とその情報環境に本質的にはらまれていた限界、というべきものでもあるでしょう。その後、当の“小林よしのり”がどんどん言論人、文化人、思想家……呼び方はなんでもいいですが、いずれそういう固有名詞として突出した個性となってゆく方向に自ら歯止めがかけられなくなっていった――それをあたしは、「上へ向かっての堕落」と表現しましたが――のも、彼自身の資質もさることながら、そのような彼と作品を取り巻く環境からの必然、というところもあるような気がしています。

 『嫌韓流』をマンガそのものとして評価することは、この場では差し控えます。というか、あまり意味がない。商品としてのマンガ、という意味ならば、同人誌並み、という言い方はできますし、技術、構成、その他、マンガそのものとして論じるならば、問題にすべきところはいくらでもある。これまで原稿を持ち込んだ出版社から出版を断られたという、その理由には、内容もさることながら、そういう商品としての至らなさ、という部分もおそらくあったはずですし、そのことは著者も十分に自覚しているようです。

 けれども、それらマンガそのものとしての欠陥が、『嫌韓流』はくだらない、ひいても今の現象としての『嫌韓流』も含めて意味がない、という方向にはそのままつながらない。その、つながらない、ということ自体が、他ならぬ「ゴー宣」が立ち上がった頃と、今の『嫌韓流』が出現する現在との間に横たわる情報環境の違い、言葉本来の意味での「時代の違い」というものらしい、とりあえずあたしはそう考えるようにしています。

 著者の山野車輪さんとも、メイルを介して少しやりとりもさせてもらいましたが、彼個人の功名心や売名欲といったものは、拍子抜けするくらいに薄い。でも、ああ、そうなんだろうな、と腑に落ちました。身もとを隠したままでいるのも、身の危険を避けるため、という面は確かにあるにせよ、それ以上におそらく、そういう「名無しさん」のままでいることの「自由」、そこから初めて確かな立場でものが言える、ということについての何か確信のようなものが、彼の中にはすでにあるのかも知れない。

 もともと、ネット住民であることから、そこに流通しているさまざまな情報――その多くは表のメディアではあまり流れていなかったようなもの、ということですが――に触れて、自然に嫌韓になっていったという彼の描いた『嫌韓流』の主題は、確かに嫌韓です。すでに数十万部の読者を獲得して、今後なお増えてゆきそうな気配も含めて、広く受け入れられている理由の大きな部分がそこにある、それも確かです。

 けれども、もう一歩踏み込んだところでは、マスコミに対する不信感というのが、もうひとつの主題としてあります。すでに水面下で広がっていた嫌韓感情を反映することもなく、むしろ逆に昨今のように「韓流」ブームを煽ってゆくばかり、といったところも含めて、本書の中でも、実名をあげて朝日新聞、TBSなどが批判の対象になっています。

 それは、大きく言えば「戦後」の言語空間を形成してきたさまざまな要素と、それらをプロモートして広めてきたからくり――ひとりマスコミに限らず、学校だの知識人だの政治家だの、も全部ひっくるめて――に対して、はっきりと不信任をつきつける感覚がこれまでと違う広がりを伴って共有され始めた、ということでもあります。ここは正しく、メディアリテラシー、と発音してもいい。

 それは、たとえば朝日新聞やNHKやTBS、といった、これまでとりあえず「左翼」「リベラル」系の言説を保護する立場にあったと認識されてきたメディアだけの問題ではなく、それとは対極にあると目されてきたメディア、たとえば産経新聞や他でもない文藝春秋などまで含めての問題、でもあります。そして、さらに言えば、そのようなメディアその他をどこかでコントロールしている(かのように見える)何か目に見えない存在、に対する違和感、といった方向にも向かい得るものです。

 それが具体的に何なのか、は実は難しい。うっかり性急に明らかにしようとすればそれは、たとえば朝鮮総連だとか、統一協会とか、ユダヤ人資本とか、何であれ悪い意味での陰謀史観の方に容易に横転してゆきかねません。ある部分、そのように逸脱してゆく部分も数十万部読者の中にはらまれるでしょう、それはある程度仕方のないことではある。けれども、同時にまた、そこでもう一歩踏みとどまって穏やかに考えてみようとする主体というのも、その内側からまた出てくるだろう、そういう信頼もあたしにはあります。

 その信頼の根拠は、と問われると、正直、まだうまく言えない。けれども今、ひとつ言えそうなことがあるとしたら、先に触れたように、彼らがもう固有名詞として突出することを第一義としない、しなくても別に構わないし、実際その必要もない、そんな感覚をどうやら持っているらしいことです。

 自分が自分が、と固有名詞の優越に縛られて叫び続けるのではなく、同じ「名無しさん」同士の広がりの中でどこかで支えられている、という感覚。それによって主体は、これまでのような「個人」の文脈とまた違うところで、しかし穏やかに確保されていたりもする。インターネットが当たり前にメディアの一角を占め、同時代の情報環境の中に組み込まれるようになり、どうかしたら活字の読み書きより先に、ネット上で読み書きするスキルによって主体化してゆくことすら可能になった世代さえもが、もう当たり前にそこにいる、そんな情報環境での主体のあり方と、それを前提にしたものの言い方、考え方、の雛型を示してくれているところも、もしかしたら今、『嫌韓流』とそれが引き起こした現象には、はらまれているのかも知れない、そう思ったりします。

 出発はネットで、一発何かで有名になって、“メジャー”の活字メディアへと進出、それこそ『諸君!』その他の論壇誌からも原稿依頼、新聞の学芸欄からもお呼びがかかり、『朝まで生テレビ』などにも顔を出し……とまあ、メディアの表舞台で活躍する“有名人”になってゆくには、これまでならそういうわかりやすくも陳腐な「出世」の階梯があったりもしたわけですが、そんな階梯を前提に固有名詞になってゆくことなどは、実はもはやどうでもいい。それよりも「名無しさん」のまま、同人誌のスキルのまま、その立ち位置から描き続けることで獲得できるはずのささやかな主体となにがしかの「自由」、それこそが大切である――うまく言えませんが、著者の山野さんというのも、おそらくそんなことをなんとなく感じるようになっている、膨大な「名無しさん」のひとり、のはずです。

 もちろん、食うことが正義です。食って、生活してゆけるだけのゼニカネが誰しも必要なのは、言うまでもない。けれども、食うくらいのことは、いまやそういう「自由」とつりあわせながらでも何とかなる、その程度に今、われわれのニッポンは「豊か」、ではあったりします。その意味で、巷間言われているニート問題をめぐる議論などに隔靴掻痒な印象がぬぐえないのは、ニートだひきこもりだ、とひとくくりにされる中にはらまれているかも知れない、そんな「自由」の切実さをうまくすくえないまま、ただ旧来の文脈での社会問題としてしか扱えていないからだと、あたしは感じています。

 メジャーとマイナー、マスコミとミニコミ、有名と無名、プロとアマチュア、プレイヤーと観客、ヒーローと大衆、中央と地方、都市と農村……何にせよ、そんな二項対立を前提にしたグラデーションが自明のものとして成り立っていて、「収入」や「自由」や「幸福」や「名声」もそのグラデーションに対応して成り立っている――有名人や文化人、言論人、といったこれまでのレッテルの背後には、そんな世界観が貼りついているのが当たり前、でした。

 けれども、インターネットの普及と浸透は、そんなグラデーションを平準化してゆく方向に働いてきた。そんな中に宿り始めた新たな主体、これまでと輪郭の少し異なる「個」のありようを確かめてみようとする時に、この『嫌韓流』はそれにまつわる現象も含めて、これから起こってくるだろう新たな社会、まだ見ぬ「世間」の手ざわりを察知してみようとする上でのあるエントリーモデル、いい糸口になり得るのだろう、と思っています。