「タレント議員」の終焉

 芸能人やタレントが何か政治的な発言をしようとする。当人が望んでやっている場合もあれば、周囲が商売として、営業としてやらせている、という場合もあるだろう。宗教と政治についてはうかつにものを言わないのが通常の世渡りの知恵なわけで、彼ら芸能人もそのへんは心得ているはず。なのに、敢えてもの申したがるのだとしたら、それこそ本人の問題、だったりする。*1

 たとえば、爆笑問題太田光などは最近、とみにそういう政治的、社会的発言を増していて、芸人としてでなく、スッピンの個人太田光として何かもの申そうとしている。芸能人だって国民であり有権者である、その限りで政治的意見も当然あり得る、それはそうなのだが、しかし、そういう発言で芸能人としての箔付けも狙う営業の気配もありありで、なんだかなあ、なのだ。逆に、ビートたけしなどは絶対にそういう気配を見せない。すでに堂々たる政治番組と化している『TVタックル』でもあくまでも傍観者、スッピンの自分でものを言うことはまずない。たけしの小心さゆえ、と見る向きもあるが、同時にまた、芸人としての分を心得ているところもあるのだと思う。

 古くは立川談志コロムビアトップなどが「タレント議員」として国会に参戦した。きわもの、色物と言われながらも、しかし彼らの頃にはまだ、議員もまた芸のうち、発言にしても芸人という枠内にとどまっていたように思う。タレント議員だから、という斟酌がよくも悪くもされなくなってきたのは、都知事時代の青島幸男西川きよしあたりからだろうか。女性でも、扇千景などはもう誰もタレント議員というゲタをはかせて見たりはしないわけで、むしろ本職の議員サマの方が悪い意味でタレント化、いじり放題の汚れキャラになってたりする始末。思えばもう、「タレント議員」というくくり方自体が「戦後」の産物、時代遅れになっているのかも知れない。

*1:行数調整でここだけ削除して掲載。深い意味はなさげだが。