メディアこそ「衆愚」


 先の内閣改造後の記者会見の際、質問する記者の社名と名前をいちいち確認してから質問に答える閣僚がいた。おたくはどこの社? ○○新聞の××さん? はい、どうぞ――そんなやりとりまでもがはっきりと、テレビで放映されていた。主は、かの麻生太郎総務大臣。それはもうすでに、正義の味方の新聞記者が海千山千の政治家を追いつめる記者会見、ではなかった。むしろ、逆に政治家の側がメディアの横着、卑怯ぶりを暴き立てる構えさえ見える新鮮なものだった。記者クラブにおかいこぐるみのいまどきの新聞と新聞記者にとって、これは大きなプレッシャーになる。

 テレビ以下、ネットも含めたメディアで映像としてそれら会見のようすがリリースされる昨今のこと、記事になる手前の記者会見の現場がいかにくだらないかまで、誰もが容易に見通せるこの傾向は、さらに進む。靖国参拝問題での「公人としてですか、私人としてですか」など、社の立場でお約束の質問までもが、その場の記者個人の名前に背負わされる。この記者はこの時こんな記事を書いている、ということも検索して参照できるようになり、匿名性にあぐらをかいた正義は成り立たない。

 9月11日の衆院選ショック後の状況に、既存マスコミ、とりわけ新聞は対応しきれず、自民圧勝、小泉全面支持の現実をどう説明したらいいか、四苦八苦。まして、「麻垣康三」だの「ポスト小泉は麻生、安倍がリード」だの、競馬新聞以下の予想沙汰は火に油。いわんこっちゃない、政治家の側はそんな新聞の無自覚な薄っぺらさをさらしものにしようと舌なめずりを始め、国民もそれを見世物として期待する始末。「衆愚」とはすでに国民でなく、それをいいつのるメディアの側にある。

 ならばよし、現場の新聞記者からサシで「個」になろうとすること。あなたがた新聞の大好きな「権力批判」がまだこの先、あり得ると信じたいのなら、まずそこから始めようとするしかない。