「東アジア共同体」のお花畑

 桜の季節である。今年は例年より開花が早いとか。「さくら」を歌った歌も最近、この季節になるといくつも出てきて、何やら風物詩になりつつある。

 一方、年がら年中、花盛りの人たちもいる。アタマの中身が、だ。おのれひとりで花盛っているのは、まあ、おめでたいと見過ごしもできるが、おのがめでたさをなぜか正義と思いこんで強要するのはなんともはや。かの九条断固護持の護憲派に、とにかく自衛隊はいけない、の反戦原理主義、実はオンナの敵のフェミファシズム、政府や国じゃなければすべてよし、のNPO&NGO万歳思想に、その眷属、市民オンブズマン万能論と、まあ、思えば珍種や突然変異も含めて、いろんな花が勝手に盛っているのが今のニッポンの、メディアをめぐる心象風景というやつらしい。

 最近流行りの東アジア共同体、というのもそのひとつ。隣近所となるべく仲良くしましょう、というのはひとまずいいとして、それがそのまま国と国とのつきあいにまで一気に拡大してしまうのは、このご時世にいくらなんでも花盛りが過ぎる。どだいその「アジア」ってやつが得手勝手、朝鮮半島と中国以外は実はあまり想定されていないらしい。いや、だから「東」アジアなのだ、と抗弁するが、じゃあ台湾はどうする、北朝鮮は、南シナ海の海底油田は、と尋ねた日には一気に表情が険悪に。ならば靖国は、従軍慰安婦は、とやり返してきて、もう収拾つかずにグダグダがお約束。

 思想信条が信仰にまで堕落、あるいは昇華、どっちでもいいが、とにかくそういう変貌をとげる転換点、というやつがあるらしい。年中花盛りな人たちはそこをとうの昔に通過してしまっている。いつ、どのように通過したのか、共に花盛りに二日酔いなメディアも含めて、静かに省みようとする、そんな態度こそがいま、最も必要だと思うのだが。