君が代反対、の風景に

冠婚葬祭以下、儀式やしきたりというやつがどうにも苦手だった。卒業式だの葬式だのに引っ張り出されると、黙って「早くおわらねえかなあ」と思っていた。おまえ、嘘でも民俗学者なのにそんなんでいいのかよ、と、だいぶ前、悪友にからかわれたが、苦手なものはしょうがない。今でも、その手のつきあいの型どおりは実に居心地が悪い。

だが、つきあいはつきあい、そんなものさ、とこなすのが世のならいとあきらめる、あたしみたいな外道でもその程度にトシは食った。だから、君が代にことさら反対する人たちを見ると、理屈以前に、あんたらいいトシしてそれくらいの知恵もついてこなかったのか、と思ってしまう。

思想信条は個人の自由である。さよう、ココロの中身は誰にもわからない。だから、内心どう思っていようが勝手次第。自由とはそういう側面も含んでいる。本当に自分の思想信条から君が代を拒否する人も、中にはいるのだろう。しかし、自分ひとりがまわりと違う考えを持っているという自覚があるのなら、そっと黙っているという知恵もあるはず。それほどまでに自分の内面、思想信条に忠実な人ならなおのこと、衆を恃んで金切り声をあげ、訴訟だ賠償だと走り回ることは、もっと疎ましいことに映るのではないか。

抵抗の作法もまた政治である。あの君が代が大嫌いな先生でも卒業式や入学式では頑張って従って見せていた――そんな姿を生徒に敢えて見せることも、また教育だったりするのではないか。かつてなんちゃって大学教師だったあたしなどは、ふと、そんなことを思ったりする。