お役人バッシングの背景

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 改めて、公務員の削減が問題になっています。例によって国会で侃々諤々、形だけではない純減を、いや、それでは日々の仕事がまわらない、とまあ、利害の調整はいつも難事業です。

 そもそも、いまや「役人」「公務員」というだけで、なるべく働かず給料だけふんだくろうとする横着な連中、というイメージが定着してしまっている。そのことを軽く見過ぎてはいないでしょうか。

 大阪市のあの異常な手当てが明るみに出てしまったことを始め、こと「公務員」とはその亜種も含めて税金泥棒、楽してうまい汁を吸う存在、そんな理解が世間の大方です。それは誤解だ、イメージ操作だ、優秀な人もいる、個々の実態はそんなんじゃない、といくら訴えても詮ないこと。メディアに増幅もされ、世間の俗物に勝手に読み替えられてゆくそんな「公務員」という語りこそが、実は最ものっぴきならない現実だったりする。

 セットで語られがちな「既得権益」というもの言いにも、それら特権自体もさることながら、そこにあぐらをかいて恥じない、何とも感じないような人が平然とそこにいることへの違和感、嫌悪感、という部分が大きい。財界や政界、芸能界に増えてきた二世、三世への視線も基本的に同じ。最近かまびすしい「勝ち組/負け組」というあれも、そんな恵まれた条件に安住し、それ以外への、つまり世間への想像力を欠落させたままの“恵まれたやつら”への反感が前提です。

 しかし、それらを単に妬みや僻みとだけとらえるのは、間違っている。妬みや僻みも正当にはらんで世間はある。いまや「公」もまた、そんな世間と釣り合うものにしてゆく必要があるようです。