自他の境界の溶解

 

 電網空間は匿名、だと言われる。手をあげて何かもの申したところで、それがどこの誰だかわからない。やあやあわれこそは、と名乗りをあげるのが意思疎通の本道、と生真面目に信じる御仁ほどひどい目にもあう。ネットで肩書き実名をあげて道中するのは、闇夜に提灯をさげて歩くようなもの、と言う人もあった。なるほど、向こうは姿が見えぬ。気配もせぬ。辻斬りも出れば、ごまの灰も追いはぎもいる。時にヒダル神からすねこすりの類まで出没することも。伏魔殿である。

 そんな匿名空間だからインターネットは信じられない、そうも言われる。気持ちはわかる。名前はもちろん、年齢、性別、職業に年収、学歴、賞罰、家族係累に友人関係、社会的動物であるわれわれ人間ならば生きる限りからんでくるさまざまな属性や関係といったものが、とりあえず全部なかったことにされる。少なくともそう見える。

 だが、ならば完全に匿名か、というと、実はそうでもない。何もビッグブラザーが、エシュロンが、といった常時監視の管理社会妄想ではない。黙って凝視しているだけならばともかく、ものを言ったり、誰かと関わったり、何か痕跡を電網上に残した限りは、それがどんなものであれ、人格や人となりについての気配は残り、勝手に読まれてしまう。しかも、半永久的に。

 たとえば、掲示板の片隅に、こんな書き込みがある日、ぽつん、とされる。

 《結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが、毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい、留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました。帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました。残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです。

 

 でも、その後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました。会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり、今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって、あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが、夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい、かえって私が苦しくなってしまいました。

 

 これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです。こういう場合ってどうしたらいいんでしょう。》

 夫が大事にしていた古い鉄道模型を勝手に売り飛ばして処分した、という妻の話。どうしたらいいんでしょう、と言われても、相手は匿名空間、それこそ虚空に遠吠えするようなもののはずだが、不思議と言葉は返ってくる。それが真実か否か、実在の人物かどうか、はひとまず棚上げされ、しかしその文面に込められた手ざわりだけをたよりに、反応はさざ波のように広がる。ひきこもりやニート輩が我が身も省みず天下国家を口角泡飛ばして語る、というありがちなイメージでだけ考えていると、いまのニッポンのこの電網空間の存外の広がりと深みは絶対に理解の外。良くも悪くも。

《これ辛いよな。俺も子供の頃散々大切なもん捨てられたよ。怪獣消しゴムとかさ。》

《夫の人生否定しちゃったんだな。無価値観に苛まれてそのうちいなくなるに違いない 》

《夫が壊れたな。趣味に走りまくる夫より無趣味な夫の方が大変。》

《これは生活全般板の有名なスレじゃないかw。生活板のほうでは、女の人の擁護が結構すごかった気がする。》

《生活板ってあいかわらずどうでもいいことにみんなして必死だな。》

《結婚はするもんじゃないな。》

 定期的にコピー&ペーストされては、そこにまた新たな人気が芽生えるテンプレート。それでも、そのたび新たな感慨はわきあがる。その反復が電網空間自前の真実に寄与してゆく。

 ことの始まりは、どうやら「家族が『ものを捨てられない病』」というスレッド。去年の秋に立てられたものらしい。言いだしっぺの口上は、《自分は綺麗な家に住みたいのに、それを家族が邪魔をする。そんな思いをしている人のためのスレです。「物を捨てられない病」「タダならなんでも貰う病」の同居人に対する愚痴や解決法を書いてストレスを発散させてください。有益な情報交換の場にしましょう。個人攻撃はスレ違いです。》といったもの。何か特定の思惑や意図があってのことではない、こんな無償のスレ立てから、いつもことは始まる。

《心を鬼にして、実家のものをがんがん捨ててる。両親よ、あなたたちが死んだらすべてこれ、ゴミなのよ。》

《牛乳パックを切って小物入れにしてるのとかマジかんべんしてほしい。メタリックな折り紙をきれいだからといって小さく切ってカーテンの端に飾り付けるのもやめてくれ。部屋が一気に幼稚園の教室になったじゃないか。あ、もちろん粗大ごみを溜め込むのもやめてねorz》

 人呼んで「オカンアート」。世間では「手芸」とも言う。日常を美しく飾ってゆく心持ちのなせる営みではある。美しい暮らしを、と叫んだのは何もかの花森安治だけでもない。ドアノブや椅子の脚、ティッシュの箱から電話機まで、とにかく何か手作りのカバーで覆いたがる性癖に始まり、何の役に立つかわからないかざりもの、ちょっとしたオーナメントの類、普通のおばさんの手すさびがうっかり作ってしまうあれこれの数々。そう言えば、収納の達人、とやらはいまや昼のワイドショーで引っ張りだこ。わが同胞は、増えた「もの」の始末に、どうやら国民的規模で困っているらしい。

オカンミュージアム

http://www.geocities.jp/loveokan/okanart/museum/

 豊かになった、と言われ数十年。だが、それが具体的にどういうことか、学者も評論家も誰もうまく語ってはくれなかった。「もの」が身の回りにあふれてゆく中で暮らしてゆくこと。どうしようもなく日常と化したそんな豊かさのグロテスクはいつしか、語られぬ違和感をしんしんと醸し出す。押し入れにひしめく夫の鉄道模型を無断で売り飛ばしてしまいたくなる、その心持ちにもくっきりと「時代」が刻印されている。

《奥さん偉い! 旦那もいまは放心状態菜だけね、うちの旦那も昔からアニメの景品集めてていい加減して!っていったんだけど完全無視!ある日ブチギレて全部捨ててやったのよ。帰ってきて空っぽの部屋見て泣いてたけどビンタ一発! その後しばらくはお宅の旦那みたいだったけど、家事とか育児を言いつけていくうちになおっちゃった♪ 今では私がリーダ的存在になってるから浮気の心配もなし、余計なものも買ってこないしおこづかいも減らせちゃった♪》

《無論、圧力だけじゃだめ。うちの場合はSEXをいつでもやらせてあげるようにしたしね。「風俗でお金出してHするなら私が無料よ」ってねw》

《↑ すごい壮大な勘違いしてて眩暈がします。》

西行って、突然家出したんだよな。あれって、こういう事があったのかな。盆栽捨てられたとか。》

 行き着く果て、身ひとつ、行李にきちんと収まる程度に、我執も煩悩もまとめてしまえれば楽である。老いる、とはかつて、そのように身の始末をゆっくりとしてゆく過程でもあった。だが今は、老いもまた、「もの」の拡散の中にしか宿らない。日々の風景は一見、変わらずとも。

《3日前の話ですが、帰宅すると珍しく妻がおで迎え。なんだか嬉しそうな顔をしているのでちょっと尋ねてみれば、かなりの臨時収入がはいったとのこと。何も知らない私はその日買った漫画を抱えて書斎へ。いつも私を出迎える漫画は跡形もなく消え去り、倉庫をみても空。妻を問いただしてみると「駄目父を更正」のようなテレビの企画で、漫画を業者さんに半分買い取ってもらい半分は廃棄したという話。3日たちましたが、今現在ネタでなしに離婚を考えています。》

《うちは整理整頓お願いしていたら、自分で壁一面を使った棚を作って整理してくれた。鬼のようなレコードとLDと書籍のコレクションが収まってしかも私のものも入る。喜んでいたら、日曜大工にはまったらしく、電気ノコに台がついた奴とかものすごい音がする機械をいくつも買い揃えだした。しかも作りかけの材木がごろごろしてるし、塗装しているときは足の踏み場もない。やぶへびだったのかorz》

《旦那の独身時代からのコレクション、今年リバイバルする女番長刑事のナンノ版ビデオ(テレビ放送の録画)を「あたしが居るのに他の女なんか見て許せないー!」と旦那が会社に行っている隙に一つ残らず別の番組で上書きした妻。捨ててはいないけど取り返しの付かない大破壊。で、大喧嘩になってもめたんだけど「あたしはちっとも悪くないわよね!」と叫んでた。

ちっとも全然、素晴らしく一方的に妻が悪いと思うんだけどな。》

 

 

 鉄道模型に端を発したこの問題提起、よほどネット住民たちの心の琴線に触れたのか、同工異曲のスレッドがいつしか静かに増殖、乱立状態に。レコード、CD、AVにバイク、釣り具にフィギュアにオーディオ……とにかく「趣味」の領域のほとんどにパロディスレが誕生していた。ああ、そんなにもあなたは、「もの」に自らを託していたか。

オートバイを捨ててから、夫の様子がおかしい(バイク板)

http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/bike/1142403945/

レコードを捨ててから、夫の様子がおかしい(洋楽板)

http://music4.2ch.net/test/read.cgi/musice/1143700085/

AVを捨ててから、夫の様子がおかしい(アダルトV板)

http://pie.bbspink.com/test/read.cgi/avideo/1143730504/

釣り道具を捨ててから、夫の様子がおかしい(釣り板)

http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/fish/1142990879/

童貞を捨ててから、夫の様子がおかしい(童貞板)

http://sakura01.bbspink.com/test/read.cgi/cherryboy/1143731490/

ジャンク類を捨ててから、夫の様子がおかしい(機械・工学板)

http://science4.2ch.net/test/read.cgi/kikai/1143782486/

カメラを捨ててから夫の様子がおかしい...(カメラ板)

http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/camera/1143723107/

鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしい(鉄道総合)

http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/train/1142342006/

ゾイドを捨ててから夫の様子がおかしい(ゾイド

http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/zoid/1142489223/

ギターを捨ててから、夫の様子がおかしい(楽器・作曲)

http://music4.2ch.net/test/read.cgi/compose/1143557731/

PowerPCを捨ててから、夫の様子がおかしい(新・mac

http://pc7.2ch.net/test/read.cgi/mac/1142356444/

CDを捨ててから、夫の様子がおかしい(吹奏楽

http://music4.2ch.net/test/read.cgi/suisou/1143247706/

ステレオを捨ててから、夫の様子がおかしい(ピュアAU

http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/pav/1142989559/

鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしい(既婚男性)

http://human5.2ch.net/test/read.cgi/tomorrow/1142407766/

祭り装束を捨ててから、夫の様子がおかしい(同性愛サロン)

http://love3.2ch.net/test/read.cgi/gaysaloon/1143020831/

夫を捨ててから、鉄道模型の様子がおかしい(生活全般)

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1142349592/

 自分と他人の境界がこれまでと違う形になりつつある。電網空間はその最先端の展示場か。家庭内に複数のパソコンがあって不思議のない現在、夫婦や親子、家族の関係もまた静かに、しかし深刻に変貌しつつあるらしい。

《皆さんの奥さんって自分専用のパソコン持ってます?奥さんのパソコン勝手に覗いてその実態をチクって下さい。》

《うちの嫁(34歳・2児の母・専業主婦・自分専用パソコン)。お気に入りの中にドイツレストランという名前で無修正男性器画像掲示板を登録している。下着をネット通販で買っている。(5枚セットで\2,000)閲覧履歴に豊胸ローションのサイトがあった。つくづく俺って嫌な旦那だな(^^; 》

《嫁の使っている家計簿ソフト覗いたら、俺の小遣いを減らした場合のシミュレーションが入っていた。ヤバイ。》

《欝、精神病などを検索かけた模様。リンク等から近所の精神科の病院まで探しているようだ。履歴消してあるのが余計にいやだな。なんてきりだそう?》

《夫婦それぞれ別々に複数の端末を使用しているのですが、私のノートが居間にあるので、時々ダンナも使ってます。2ちゃんねる専用ブラウザを使っているのだけど、ダンナは専用ブラウザの存在を知らない程度なので、私が2ちゃんねるに入り浸っていることを、知らない……》

 匿名空間ゆえの泣き笑い。掲示板で罵り合っていたのが実は夫婦だったり、出会い系サイトでチャットしていたのが親子だったり、というのも、決して冗談でもなくなっている。ようやくマスコミで騒がれ始めたwinnyをめぐる情報漏洩も、組織と個人、公と私の間がすでにそのように溶解してゆかざるを得ない現状を反映しているに過ぎない。溶解し始めているから余計に自分と他人の境界も意識されるという弁証法。人と人とのつながり方がこれまでよりずっと面倒くさく、手間ひまかかるものになっていて、にも関わらずそんな難局をとりあえず回避するためのツールだけはたっぷりと準備されている現在。足もとの現実にこそ、そんなせめぎあいはぽっかりと口をあけている。むろん、モラルの回復を大音声で叫ぶだけで解決するはずもない。

《俺も、家に帰ったら好きな事し始めたよ。嫁と飯食った後は、自由時間。前は、嫁に合わせて話を聞いたりTVをみたりして風呂に入るのも嫁に合わせて一緒に布団に入ってた。だが、疲れた。帰ってもゲームしてるし、飯食ってる時に一方的に愚痴聞かされて、俺の話は上の空だしな。ゲームばっかりして、飽きたら話かけてくるぐらいだからな。そのくせ、こっちが何か始めると「つまらない」とか言ってくるし。もう、嫁は同居人だな。》

《子供育てるのにも、家を買うのにも、何千万という大金が必要なんだよ。妻だったら、その半分くらいは出せよな。ワリカン夫婦な。今の時代、家事と育児さえやってれば無収入・低収入で一生楽に暮らす権利がある、なんて間違ってるぞ。家事なんていまどき1人暮らしでまったく困らないし、仕事をしながら家事もやるのが当たり前。一家にひとり家事専門要員が必要だったのは、せいぜい昭和30年くらいまでだろ。》

《掃除: 週末の午前中だけで十分。掃除: 週末の午前中だけで十分。洗濯: ボタン押して、干すだけ。食事: 外食で十分。都会なら定食屋も充実してるから、手抜き嫁の料理より栄養バランス良し!+ コンビニは24h営業。》

《まぁ、実際「嫁いらず」の時代だよな。現代の「妻」に求められるのは、出産後も60歳まで正社員級に稼ぐ「経済力」だよ。》

 女の負け犬、男の電車男、共に三十代を中心とするわが同胞成人のある最大公約数である。結婚できない、のではない。結婚する必要を感じないのだ。ネットの匿名性の向こう側、ひとつ屋根の下に暮らしながらなお、ひとりであること、あらざるを得ない現在が、今日も静かに液晶画面からにじみ出している。