天声人語は日本一

天声人語は日本一のコラムである、と言われたらどうするか。

いや、まったくその通りです。ごめんなさい、おっしゃる通り日本一です。勝てません。勝てるわけがない。

だって、新聞紙面は第一面の下あたり、広告が並ぶそのすぐ上の横長の割り付け。字数にして800字もない。

これをほぼ毎日、何十年も書き続けてきた、というのが歴代の執筆者のご自慢のようで、実際、天声人語担当者の書いたものを読めば、ご自分がどれだけ苦労をし、体調を崩してまで頑張ってきたか、というのを綿々と語るのがお約束。最近では、連続試合出場記録更新中のかの阪神・金本選手を引き合いに出して、自分も20年休んでいない、と「鉄人」ぶりを自画自賛。その他、「人か魔か、信じられない」「あまりの気迫に、執筆中はだれも近寄れない」「その姿はまるで、自分の羽根を一本一本抜いて機を織りあげる「夕鶴」である」……「天人子」(担当者は社内でこう呼ばれるそうです)の粒々辛苦ぶりを表現する感動的もの言いは、いやもう、枚挙にいとまがない。

そりゃそうでしょう。さぞや大変でしょう。一日に原稿用紙二枚弱、掲載日が月に20日ほどだから月産40枚から50枚、年間にして500~600枚を書いて、年収2000万(推定)。原稿用紙一枚あたりの原稿料は単純計算で3~4万円。一文字あたり100円。朝日新聞天声人語、と書くだけで、深夜のコンビニのバイト、そこらのあんちゃんおねえちゃんがあれこれ欲しいものを頭に浮かべつつ一時間眠いのをこらえてようやくもらえる額を稼げるのですから。

ああ、どんな流行作家よりも、どんなにあこぎなコピーライターよりもさらに高額、割高の、文字通り日本一の原稿料あっさりかっぱぎ続けて何十年、なのが、天声人語とその書き手なのです。ほんっとに、日本一のコラムです。間違いありません。



うしろめたさは人間を雄弁にします。

判で押したような苦労話がお約束で出てくるのも、ことさらに「日本一のコラム」「いちばん読まれている」と吹聴してまわりたがるのも、天声人語とその書き手のそんなうしろめたさを反映します。

たとえば、朝日新聞論説主幹、岸田純之助という御仁の、文庫版『天声人語』の前書きに曰く。

「最も好んで読まれているのが天声人語である。」

「他社の新聞の同種のコラムと比較しても、読まれる率は群を抜いている。」

 で、そのように読まれている理由というのが、これ。

「まず、文章の素晴らしさである。(…)歴代、新聞社の中でも最も筆力のある人たちから筆者を選んできた。気迫に満ちた名文になるのも当然である。」

さらに、つけ加えてこれ。

「もう一つ、(…)一般の人々のそのときどきの判断や意見を代弁する役割を果たしていることも指摘したい。(…)読者が「わが意を得たり」と共感するような、妥当性を持った内容であるようたえず努力している。その心配りが、この欄への圧倒的関心になっているのだと思う。」

そりゃ一面にあって、あれだけ短いものだから誰もが眼がゆくからじゃないの、それに、名文かどうかなんて普通の人は知ったこっちゃないだろうし……といったツッコミの類は、おそらく考えたこともないのでしょう。まあ、大学入試にいちばん取り上げられるのが朝日新聞、という自画自賛を臆面もなく続けていて、しかもそれが昨今の部数激減の歯止めになると信じてのことらしいあの朝日のこと、いまさら何を言っても、なのですが、しかし、その大学入試に取り上げられる記事のかなりの部分が天声人語だったりするのだから、ことは結構深刻です。

斎藤美奈子によれば、そんな天声人語の特徴は「接ぎ木」だそうです。

「接ぎ木の原理はおわかりだろう。竹とは生臭い時事ネタ。木とは風流または高尚な歴史や文学ネタである。(…)得意技は、何かを「ふと思い出す」ことだ。特に思い出しやすいのは、東西の古典、詩歌、芝居のせりふ、哲人の警句の類。」(『週刊朝日』2000年10月27日号)

ミもフタもないですが、まあ、およそそんなもの。花鳥風月にこと寄せて時事ネタを語る、というのが、確かにひとつのパターンになっている。同時に、こんなミもフタもないことを『週刊朝日』に書きながら、書いた御仁は立派に朝日新聞御用達の書き手におさまりかえっていられるのもすごいですが、もちろんそのへんの機微というか呼吸ってやつも、書いているご本人は当然、見越してるはず。で、そんな足もとの見られ方をされても気にしない、どうしてそんなパターンになっているのか、という自省もほとんどない。ないところがまさにオヤジ、読み手からどう見られているか、どう読まれているのかわからない、わからないまま自意識だけはなお全開でひとりよがりをどんどんやり続ける、と。さすがに朝日、改めて日本一、です。

なんというか、オヤジのカラオケをむりやり聞かされている恥ずかしさに近い。あるいは、そんなひとりよがりな「趣味」につきあわされるいたたまれなさ。趣味ったって鉄道模型やフィギュアといったおたく系とはまた違う、かつて森繁の社長シリーズで必ず部下やまわりがつきあわされてえらい目にあうのがお約束だった盆栽や俳句、謡曲といった類。ないしは、落語の「寝床」。いまならまさにパワーハラスメント、泣き笑いです。

ただ、こういう自意識、何も朝日に限ったことでもなく、新聞一般に結構根深いものだと思います。さすがに「日本一」とまで舞い上がれずとも、県内一、とか、西日本一、くらいのことはみんなそれぞれ本気で思っていそうな気がする。でなければあなた、どこの新聞にも、全国紙からブロック紙、地元専門の地方紙まで、「新聞」というフォーマットに必ずと言っていいほど、この「天声人語」みたいな看板のついた「コラム」がある、このニッポンの新聞界の奇観に説明がつきません。

ここはもういっそ、全国「天声人語」グランプリ、みたいなことをやってはどうでしょう。テレビチャンピオン、なんかの枠がいい。天声人語系同工異曲な新聞コラムの筆者を全国から一同に集めて、何かお題を出して、その場で一気に書いてもらう。その日の事件やできごと、スポーツ、文化ネタ、などいくつか出して、それぞれ趣向と技量を競ってもらう。もし実現するものなら、お願いします、この審査員、末席でいいのでぜひともやらせていただきたい。むろんノーギャラで構いませぬ。新聞というメディアに澱のようにたまっている自意識の奇っ怪さ、恥ずかしさをかぶりつきで拝観したいと思います。



どだい、新聞記者の書く文章が「正しい日本語」の見本、みたいに言われるようになったのは、いつ頃からでしょう。ものを書くことのプロ、はかつては小説家、作家でしたが、そこに新聞記者が割り込んできた経緯も、すでに歴史の範疇です。

 確かに、国語の教師の中には、「天声人語」を要約しろ、と真顔で言う手合いがいました。日々紙面から天声人語を切り抜いてノートに貼り、それを要約するのが国語の勉強だと思いこむような「優等生」もいた。5W1H、なんてことも言われました。今も言われているのでしょうか。でも、あれは新聞記事を書く上での原則であって、何も文章一般にあてはまるものでもなければ、まして「名文」の条件でも何でもない。何より、そんな格調高い文章とか、名文とかを目指したがる新聞記者という存在自体、すでに役立たずでうさんくさい。

魚屋が魚をさばく、その技術において評価されることは当然ですし、結果として名人上手はあり得るでしょう。しかし、名人と呼ばれることをめざして魚をさばく魚屋は本末転倒、能書きばかり肥大させた昨今のラーメン屋やそば屋と同じく、うっとうしいばかりではた迷惑です。そんな自意識肥大は客の存在を見えなくしてゆくと共に、客との関係からフィードバックされる自省も、そこから形成されてゆく本当の意味での「自分」への可能性も閉じさせてゆきます。

筑紫哲也のあの「多事争論」なんてのも、まさにこの「天声人語」症候群の典型的な現われです。この自分の名前で何か時事問題について能書きを言いたい、解釈を垂れたい、という自意識の暴走状態。何より、社会の木鐸、とまで言わずとも、世の凡俗に向かってものを言う、という態度があからさまにバレているのに、当人は決してそう思っていないらしいのがすごい。なんだかんだで年収2000万(推定)、どうかすると女房共働きでかっぱいでいるような正しく「勝ち組」の報道貴族なんでしょうから、しらじらしく「庶民」の目線で、などと言われてもちゃんちゃらおかしい。おかしい、ということ自体自覚しなくなっている自分をまず省みられる、そこから始めないと健全な社会復帰はとうてい無理ってもんです。



というわけで、そんな日本一な天声人語の書き手に、リハビリメニューというか、ひとつご提案を。

築地のあの軍艦のような社屋の高み、論説委員室から衆愚の巷を低く見つつ日々さぞご苦労されているでありましょうその草稿の段階で、必ずご自分の年収を最後に表記する、ってのをひとつやってみられたらいかがでしょうか。言わば署名がわり、ですが、ついでにご子弟の通ってらっしゃる学校とか、お住まいの詳細、持ち家なら敷地に坪単価、うわもの評価額なども、それこそ税務署に申告するようなおつもりでできる限り微細に、具体的に。

なにもそれをそのまま活字にして公表しろ、とは申しません。ただ、そんな属性、最近あなたがたが好んで用いられるもの言いを弄せば「格差社会」での、まさに「勝ち組」丸出しなご自分が書いている文章、ということを一度突き放して意識されれば、そしてそれが今のこの世間にどのように読まれ得るかについて、せめてこちとら俗人並みの想像力を働かせるならば、いま少しは普通に「恥」というものも普通に自覚されるのではないかいな、と。

そうやって改めて草稿を読んでみて、それでもなお天下に恥じるところなし、と信じられるならばそれはそれで結構、胸張って堂々とそのまま下版されればよろしい。騙されたと思ってひとつやってみてください。そうすれば、ほんとうの意味での読者、というやつがどんな顔、どんな視線でいま、あなたとあなたの書いたものをじっと見ているのか、そのことにあなたがた自身、もう少しゆったりと思い至ることもできるようになるかも知れません。